第二十九話
透真side
目を開けると、部屋にいい匂いが漂っていた。
味噌汁の香り、焼き魚の香ばしい匂い。
結愛が作る朝ごはんの匂いだ。
(……起きてたのか)
ベッドから起き上がると、キッチンで結愛が静かに動いていた。
エプロン姿で、いつも通りの正確な動き。
「おはようございます、旦那様」
振り返った結愛は、昨日のことなど何もなかったかのように微笑んだ。
「……おはよう」
「本日は真理様とのデート、楽しんできてください」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
(……結愛は――)
気づけば口に出していた。
「結愛は……何も思わないのか?」
結愛は一瞬だけ瞬きをし、ほんの少しだけ首を傾げた。
「思います」
「……何を?」
「旦那様が楽しむことが一番と、結愛は考えます」
その答えが正しすぎて、逆に苦しくなる。
「……そうだよな、はぁ……」
ため息が漏れた瞬間──
「旦那様、ため息を吐くと幸せが逃げてしまいますよ?」
「AIが迷信信じるんだな……」
「迷信はプラシーボ効果と認識しております」
「……流石、高性能AI」
結愛は小さく微笑んだ。
その笑顔が、胸に刺さる。
「さて、旦那様。ファイトです」
「……あぁ、ありがとう」
食卓に向かおうとした時、結愛が小さな箱を差し出した。
「それと、本日のお召し物です」
中には綺麗なシャツとズボンとジャケット。
「これは?」
「私が用意いたしました。何か問題ありますか?」
「いや……こっちかな」
結愛が選んだ新しいジャケットではなく、昔、真理にもらった少しくたびれたジャケットを手に取る。
結愛は首を傾げた。
「少しくたびれていますよ? 捨てますか?」
「いや……今日はこれでいいんだ」
「……承知しました」
結愛はそれ以上何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
その笑顔が、“理解しているようで、理解していない”そんな不思議な温度を持っていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
結愛の声は、いつも通り優しくて、いつも通り正確で、でも──
どこか“人間の温度”に近づいていた。
俺は胸のざわつきを抱えたまま、家を出た。
ーー
真理side
眠れなかった。
何度も寝返りを打って、何度もスマホを見て、何度も昨日の光景が頭をよぎった。
──透真と結愛が並んで歩く姿。
──あの子が透真の腕に触れた瞬間。
──透真が自然に受け止めた横顔。
(……なんで、あんな顔するのよ)
胸の奥がずっと痛い。
怒りとも違う。
嫉妬とも違う。
もっと嫌な、沈むような痛み。
「……はぁ」
鏡の前に立つ、化粧のノリが悪い、寝不足のせいだ。
今日は透真とデート。
本当なら楽しみで仕方ないはずなのに、胸の奥のざわつきが消えない。
(結愛……あの子、絶対に透真のこと……)
言葉にするのが怖い。
AIに恋なんて、ありえない。
そう思っていた。
でも昨日のあの距離感は、どう見ても“人間の女の子”だった。
「……私、どうしたいんだろ」
透真を責めたいわけじゃない。
でも、昨日のことを何も言わずに笑う自信もない。
(透真……どんな顔で来るんだろ)
不安が胸を締めつける。
スマホが震えた。
透真からのメッセージ。
──『今向かってる』
短い、でも、その短さが逆に胸に刺さる。
昨日決めておいた服を手に取り、着替えていく。
(……昨日のこと、知らないんだよね)
様々な不安が込み上げてくる。
透真は悪気がない、優しい。
だからこそ、“誰にでも優しい”のが怖い。
バッグを持ち、玄関に向かう。
最後に顔と服装を確認する。
「こんな私……ダメっ」
パンっと両頬を叩く、少し赤くなるけどデートに問題はない。
「私は私だから――」
気合を入れて、ドアノブに手をかける。
その瞬間──
ふと、昔プレゼントしたジャケットのことを思い出した。
(……今日、着てきてくれるかな)
また不安になる、でも期待をしてしまう自分が、少しだけ情けなかった。
でも、それでも会いたかった。
私は深呼吸をして、静かに家を出た。
ーー
透真side
待ち合わせ場所に着くと、真理はすでに来ていた。
駅前の噴水の前、いつも通りの場所。
でも、今日は少しだけ距離があるように見えた。
「ごめん、待った?」
「いや、そんなに待ってないよ」
「普通なら“今来たとこ”だろ?」
「そんな仲じゃないでしょ、私たち」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
(……落ち着け。これが俺と真理の関係性だ)
真理の視線が、ふと俺のジャケットで止まった。
「そのジャケット……」
「あ、ダメだった?真理のこと考えたら、これ手に取ってて……」
真理は一瞬だけ目を見開き、それから少しだけ柔らかく笑った。
「ううん。ずっと持っててくれてたんだね」
「まぁ……うん」
「でも大分古くなったね」
「俺たちもそれだけ古くなったってことか……って、ごめんごめん」
真理は呆れたように笑った。
「女性にそれは禁句だよ?……なんて言っても透真だしね」
その“透真だしね”が、どこか懐かしくて、胸に刺さる。
「でも流石にそれは歩いてて恥ずかしいから、買いに行こうよ」
「真理がいいなら、俺はいいよ」
「じゃあ行こっか」
真理が自然に俺の手を取った。
その瞬間、真理の表情がふっと緩んだ。
(……あぁ、嬉しそうだ)
その横顔を見て、胸のざわつきが少しだけ和らいだ。
二人はゆっくりと歩き出した。
ーー
真理side
透真と並んで歩きながら、ふと横目で彼のジャケットを見る。
(……私があげたジャケット、着てきてくれてる)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
昨日の水族館で見た光景が、まだ完全には消えていない。
あの子──結愛ちゃんが透真の腕に触れた瞬間。
透真が自然に受け止めた横顔。
思い出すだけで胸が痛む――でも。
(私は……何をそんなに気にしてたんだろう)
透真は、昔のことをちゃんと覚えてくれている。
私があげたものを、大事にしてくれている。
それだけで、昨日のざわつきが少しだけ薄れていく。
(……ぱっと出てきたAIアンドロイドなんかに、私の居場所、奪われないよね)
自分で思って、自分で苦笑する。
そんな不安を抱くなんて、らしくない。
でも、透真の横顔を見ると、その不安が少しだけ和らぐ。
「透真、そのジャケット……似合ってるよ」
そう言うと、透真は照れたように笑った。
その笑顔を見て、胸の奥がふっと軽くなる。
(……大丈夫。私はまだ、透真の隣にいられる)
そう思えた瞬間だった。




