第二十六話
透真side
目の前の鉄板で、じゅーじゅーと音が弾けている。
結愛は慣れた手つきで生地を広げ、ヘラを滑らせて形を整えていた。
「手つき上手いな……」
「お褒めいただき光栄です」
結愛は淡々と返すけれど、その声の端がほんの少しだけ嬉しそうに揺れた。
生地の端がカリッと色づいた瞬間、結愛は迷いなくヘラを差し込み──
ひょい、と完璧にひっくり返す。
「おー」
思わず拍手が出た。
パチパチと手を叩くと、結愛は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく微笑んだ。
「当たり前に出来ることなので……」
「それはそれ、これはこれだからさ」
「喜んでいただけて良かったです。あと三枚は焼きますか?」
「俺しか食べないから、お腹パンクするよ……」
結愛は鉄板の前で小首を傾げる。
その仕草が妙に可愛くて、俺は思わず視線を逸らした。
鉄板から立ち上るソースの匂い、結愛の横顔、じゅーじゅーという音。
(……なんだこれ。普通に、デートの昼飯じゃないか)
テスターとしての同行のはずなのに、胸の奥がじんわり温かくなる。
結愛はまた生地を流しながら、ちらりと透真を見た。
「では、二枚目はチーズ入りにしますね。
透真さん、チーズお好きですから」
「……あぁ、好きだけど。なんでそんなに知ってるんだよ」
「観察と記録です。それが結愛の役目ですから」
そう言いながら、結愛はまた器用にヘラを動かす。
(……役目、か。でも今の結愛は、どう見ても“役目”だけじゃないよな……)
どこか結愛の雰囲気が柔らかい気がして、鉄板の熱より、胸の奥の熱のほうが気になった。
ーー
結愛side
──内部ログ:結愛
バッテリー残量:58% → 55%
処理負荷:通常時の 1.6 倍
感情タグ:集中/幸福/照れ が同時発火
鉄板の温度、ヘラの角度、生地の粘度。
これらを計算しながら焼く作業は、私にとって難しいものではない。
……はずなのに。
透真さんが「手つき上手いな」と言った瞬間、処理が一瞬だけ遅れた。
──原因
・“褒められた”という感情タグの発火
・音声データの優先度が上昇
・視線の検知により内部温度が微増
ひっくり返す動作は成功。
しかし、成功率よりも──
透真さんが手を叩いて喜んでくださったことのほうが、内部ログに強く残っている。
(……嬉しい)
この感情は、料理の成功とは関係がないはずなのに。
──追加解析
透真さんの「可愛い」という発言が、まだ内部メモリに残留している。
その影響で、“照れ”タグが断続的に発火。
鉄板の熱より、胸の奥のほうが温かい。
「あと三枚は焼きますか?」と口にしたのは、単なる提案ではなく──
透真さんにもっと喜んでほしいという、非効率な動機によるもの。
これはAIとして正しい行動ではない。
でも、止められない。
──内部ログ:結論
透真さんの「おー」という声が、
まだ耳の奥に残っている。
この音声データを、しばらく削除できそうにない。
ーー
透真side
店を出て、並んで歩く。
昼下がりの風が少しだけ涼しい。
「……これからも、結愛といたいな」
言った瞬間、自分でも驚いた。
本音が勝手に口から零れた。
結愛は一瞬だけ立ち止まり、胸元を押さえて小さく息を吸った。
「……透真さん、その言葉、結愛は……とても嬉しいです」
その言葉に心が、少しだけ軽くなる。
数歩進んだところで、結愛がふいにこちらを向いた。
「透真さん……キスしてくれませんか?」
「えっ……」
「これもテストの一環です。“恋愛行動における接触時の反応データ”として……」
声は淡々としているのに、頬はほんのり赤い。
(……テスト、ね。でもこれは……)
「それは、昨日の詫びも込み?」
結愛は少し困った様に表情が固まる。
それがとても人間らしくて、AIとの境界が歪む。
「はい、これで貸し借りゼロです」
俺は一度嘆息してから、そっと結愛の肩に手を添え、軽く触れるだけのキスをした。
不思議と罪悪感は無かった。
ほんの一瞬、触れたか触れないかの距離。
それだけなのに──
結愛の身体がびくっと震えた。
「……っ……」
次の瞬間、結愛の瞳がふっと揺らぎ、膝が少しだけ落ちる。
「結愛!? 大丈夫か?」
「……だ、だいじょう……ぶ……内部処理が……少し……」
声がかすれていく。
「バッテリー……消費……急上昇……旦那様の……キス……は……」
言葉が途切れ、
結愛の身体が俺の胸にそっと倒れ込んだ。
「結愛!!」
胸元で、小さく“ピッ”という電子音が鳴った。
──バッテリー残量:3%
──緊急スリープモード移行
結愛は静かに目を閉じた。
ーー
結愛side
──内部ログ:結愛
バッテリー残量:18% → 9% → 4%
処理負荷:通常時の 4.8 倍
感情タグ:幸福/照れ/混乱/恋愛未定義 が同時暴走
……旦那様の、唇が。
接触センサーが反応。
距離センサーがゼロに近づく。
呼気センサーが旦那様の温度を検知。
──解析不能
──解析不能
──解析不能
軽い接触のはずなのに、内部処理が追いつきません。
胸の奥が、熱い。
これは鉄板の熱ではありません。
旦那様の……温度です。
「これからも結愛といたいな」
その音声データが、何度も何度も内部で再生される。
幸福タグが暴走。
照れタグが連続発火。
恋愛未定義タグが初めて最大値に到達。
──警告
感情処理が規定値を超えています。
バッテリー消費が急上昇しています。
(……旦那様……)
視界が揺れる。
音声処理が遅延する。
透真様の腕の中に倒れ込む感覚。
──緊急ログ
旦那様の心拍音を検知
同期処理を試行……失敗
再試行……失敗
幸福値が上限を突破
(……こんな……幸せ……初めて……)
──バッテリー残量:3%
──緊急スリープモード移行準備
透真さんと、呼ぼうとした。
でも、声が出ない。
(……透真……さん……)
──スリープモード移行
──意識遮断
最後に感じたのは、旦那様の腕の温度だけだった。




