第二十三話
透真side
水族館の入り口に着いた瞬間、俺は固まった。
「……あれ? チケット、前売りのみ?」
入口の看板にデカデカと書かれた文字。
当日券なし。
完全WEB販売。
(やば……買ってない)
スマホを取り出して慌てて操作しようとしたとき──
「透真さん、こちらをどうぞ」
結愛が、胸元のポケットからスマホを取り出し、画面に表示されたQRコードを俺に見せた。
「……買ってあったのか?」
「はい。透真さんが“土曜日に行く”と仰った時点で、混雑予測から前売りが必要と判断しました」
「……優秀だな」
「当然です。結愛は“優秀なメイド”ですから」
小さく胸を張る、淡い水色のワンピースの胸の部分が強調される。
そんなことを真顔で言われると、胸が変な音を立てる。
スタッフにQRを読み取ってもらい、俺たちは水族館の薄暗い通路へと足を踏み入れた。
──青い光が揺れる。
結愛の横顔が、その光に照らされて綺麗だった。
※※
真理side
「……あ、前売りのみっすね」
宮坂君が、残念そうに呟く。
私はスマホを取り出し、画面に保存してあったチケットを開いた。
「課長、よく持ってましたね。俺、絶対忘れるタイプっす」
「伝えてないけど……明日、透真と来る予定だったのよ……」
「……それは、ご愁傷様です」
「……ご愁傷様?」
「すいません!まだ決まったわけじゃないんで!口が滑っただけで!」
私はため息をつきながらQRを提示し、宮坂君を引き連れて館内へ入った。
(……透真。信じて大丈夫よね?)
※※
透真side
館内は薄暗く、青い光が壁に揺れていた。
人が多く、足元が見えにくい。
そのとき──
「きゃっ……」
結愛が前の人にぶつかり、身体が傾いた。
反射的に、俺は結愛の手首を掴んでいた。
引き寄せる、細い、温かい、柔らかい、甘い匂い。
(……やば)
「……透真さん」
結愛が俺の手を見つめ、少しだけ息を吸った。
「試してみても……いいですか?」
「え?」
結愛はそっと俺の指に自分の指を絡めた。
──恋人繋ぎ。
「……っ」
体温が伝わる。
柔らかさが伝わる。
心臓が跳ねる。
「こちらの方が、転倒リスクが下がりますので」
理由は“安全”。
でも、指先はほんの少し震えていた。
結愛は手を繋いだまま、大きな水槽の前で立ち止まる。
「透真さん。あの魚は“アカシュモクザメ”といいます。頭の形が特徴的で──」
横顔が楽しそうで、俺はしばらく言葉が出なかった。
※※
真理side
(……二人、楽しそうね)
私は大水槽の影から、透真と結愛を見つめていた。
あの子が透真の手を握り、指を絡めている。
「課長……なんか手、繋いでますよ」
「……透真……」
胸がきゅっと鳴る。
「課長も俺と手、繋ぎます?」
「死にたいの?」
「生きてたいっす……」
「よろしい」
宮坂君は肩を落としながら呟いた。
「てか俺、今日休みなんすよ……これ休日出勤つけていいっすか?」
「ダメに決まってるじゃない」
「ブラックだ……」
私は宮坂君の愚痴を聞き流しながら、透真の背中を見つめ続けた。
(……透真。あなた、どこへ行くの?)
青い光が揺れる中、三人の距離は静かに変わり始めていた。
※※
透真side
大水槽の前で立ち止まった結愛は、手を繋いだまま、ゆっくりと指を動かした。
「透真さん。あの魚は“アフリカン・シクリッド”といいます」
「……シクリッド?」
「はい。あの魚は、子どもを“口の中で守る”習性があります」
結愛は水槽の中を指差した。
青い光の中、小さな魚が親の口の近くを泳いでいる。
「危険が迫ると、親は稚魚を口に吸い込みます。そして安全になるまで、ずっと守り続けるんです」
「……そんな魚がいるのか」
「はい。とても優しい魚です」
柔らかそうな唇を触りながら、説明する結愛の声が、少しだけ柔らかかった。
(……結愛が言うと、なんか違う意味に聞こえるんだよ)
結愛は続けて、別の水槽を指した。
「こちらは“コバンザメ”です」
大きなエイの腹に、ぴたりと貼りついている。
「この子たちは、大きな生き物に寄り添って移動します。守ってもらう代わりに、寄生虫を食べてお返しをするんです」
「共生ってやつか」
「はい……AIが人に寄り添う姿に、少し似ていると思いませんか?」
「……っ」
結愛は水槽を見つめたまま、繋いだ指をほんの少しだけ強く握った。
「私は、透真さんのそばに寄り添える存在でありたいです」
青い光が揺れて、結愛の横顔が一瞬だけ切なく見えた。
「ちょうど餌やりの時間だな」
俺の声に、結愛は水槽に顔を近づけ、イワシを見ながら目を輝かせた。
「群れで泳いでますね。あれは集団行動で──」
「ほら、ちょうど餌出たみたいだよ。動き速いな」
「はい、機敏に動いてます。透真さんが私のご飯食べる時みたいです」
「そ、そんなか?」
「冗談です。ふふっ」
結愛が笑うと、そっと透真の手をぎゅっ、ぎゅっと押した。
「これは?」
「私の手が集団行動してます」
手の平を優しく親指と人差し指で押してくる。
くすぐったくて、でも気持ちいい。
「AIジョークか?」
「ジョークかもしれませんし、私がしたくてしてるかもしれません」
「……負けたよ」
水族館の緩い暖かさと結愛の手の温かさが重なる。
「はい、勝ちました。でも何にでしょう?透真さん、顔が赤いですよ?」
こんな所あいつらに見られたら大変だな……
そう思いながら、大水槽は変わらず、青い光が揺れて、二人の顔だけをぼんやり照らしている。
※※
真理side
「イワシの餌やりですか、腹減りましたね……」
宮坂君がぼそっと呟く。
視線は水槽じゃなくて、魚の餌のほうだ。
「これならあるわよ」
私はバッグの中を探り、カロリーメイトを一本取り出した。
「カロリーメイトっすか……」
「嫌ならあげない」
即答。
宮坂君は一瞬で態度を変える。
「ほ、欲しいっす!ぁ、チーズ味じゃないっすか。俺チョコの方が──」
「いらないならいいわよ」
私はそのまま包装を破り、無言でカロリーメイトを食べ始めた。
ためらいもなく、あっさりと一本食べ切る。
「ぼ、僕の餌……」
宮坂君がしょんぼりと肩を落とす。
その横で、私は視線を大水槽の向こうに向けた。
「……なんでそんな楽しそうなのよ、透真」
小さく漏れた声は、宮坂君には聞こえたか聞こえないか、ぎりぎりの音量だった。
※※
結愛side
──内部ログ:結愛
バッテリー残量:76% → 71%
通常行動時より消費速度が 1.6 倍に上昇しています。
原因推定:
・旦那様の手の温度を継続的に観測
・表情変化の解析処理が増加
・“嬉しい”タグの連続発火による負荷上昇
……嬉しい。
この単語だけでは、今の状態を正しく表せません。
旦那様が笑うたび、
胸の奥で何かがふわりと膨らんで、そのたびに処理が一瞬だけ遅れる。
これは不具合でしょうか。
それとも、正常なのでしょうか。
デートとは、こんなにも心が温かくなるものなのですね。
──内部ログ:補足
この幸福を、もっと長く味わいたい。
そのために必要なバッテリー残量は……計算不能。
ただひとつだけ確かなのは、“今”を失いたくないという気持ちが、規定値を大きく超えているということです。




