第十九話
透真side
会社の前で真理を待つ。
夕方の風が少し冷たくて、スーツの袖を軽く引っ張った。
(結愛に連絡……入れとくか)
ポケットからスマホを取り出し「今日は真理と飲みに行くから──」と打とうとした、その瞬間。
「透真っ!」
真理の声がして、反射的にスマホを後ろに隠した。
「お、おう。来たんだな」
思わず声が上ずる。
「なによその言い方? 久しぶりに二人で飲むんだから、もっと嬉しそうにしてよ」
そう言って、真理は自然に俺の腕に組みついてきた。
柔らかくて、温かくて、ああ、やっぱり真理だな……と胸の奥がじんわりする。
「行こ?」
「うん」
腕を組まれたまま歩く。
真理の髪が揺れて、ふわっとジャスミンのいい匂いがした。
--------
店は、会社近くの和バル。
木目調のカウンターに、間接照明が落ち着いた雰囲気を作っている。
「ここ、いいね。透真が選んだの?」
「まぁ……なんとなく」
「ふふ、なんとなくでこんなとこ選べる男だったっけ?」
「失礼だな、俺だって少しは勉強してるさ」
「あははっ、ごめんごめん」
そんな軽口を叩きながら、ビールで乾杯した。
「最近どう? 仕事」
ビールを二人でゴクゴクと飲んでから、真理が口を開く。
「まぁ、ぼちぼち。宮坂が相変わらずでさ」
「宮坂君はあれでいいのよ。あの子が真面目になったら逆に怖いもん」
「確かに」
真理はよく笑っていた。
最近は少し心配だったけど、今日来て良かったと思った。
グラスを持つ指が綺麗で、話すたびに表情がくるくる変わる。
「透真、最近ちょっと悩んでるよね?」
「そうか? この前も聞かれたけど?」
「うん。なんか雰囲気変わったなぁって」
そう言って、真理は俺の顔を覗き込む。
距離が近い。
心臓が少し跳ねた。
「……まぁ、色々あってな」
「色々って?」
「いや、別に大したことじゃ──」
「ふーん?」
真理は意味深に笑って、ビールを飲んだ。
俺もそれに合わせてビールをあおる。
二杯、三杯と進むうちに、真理の頬がほんのり赤くなっていく。
「真理、大丈夫か?」
「だいじょーぶ……」
声が少し伸びている。
あ、酔ってる。
「ほんとに?」
「透真ぁ……」
真理が俺の肩に寄りかかってくる。
首に真理の髪が触れて、少しくすぐったい。
嫌な予感に、胸がざわつく。
「ねぇ……いつ結婚してくれると?」
急に、博多弁。
真理が酔うと出るやつだ。
「え……」
「ずっと待っとるとよ……?透真が、ちゃんと……言ってくれるの……」
真理の指が、俺の袖をぎゅっと掴む。
その力が、妙に切なくて。
「……真理」
「好きよ……透真……ずっと……一緒におりたいと……」
真理の声が震えていた。
酔っているのに、言葉だけは真っ直ぐで。
俺は、返事をしようとして──
喉の奥が詰まった。
(なにに俺は悩んでるんだ?)
真理の手が俺の頬に触れる。
ビールを持っていたせいで冷たい手。
それでも芯は熱い。
「真理……俺も……」
その瞬間だった。
バタン、とカウンターに突っ伏す真理。
「真理?」
身体を揺する。
返事は、ふにゃーとかにゃーとか、そんな音だけ。
「やれやれ……」
「透真くぅん〜……むにゃむにゃ……」
俺は会計を済ませて、真理を背負うようにして店を出た。
胸の奥が、ひどく重くなる。
助かったのか、助かってないのか。
選んだのか、選ばされたのか。
分からなかった。
(ぷっ……ふふっ)
それでも、真理の幸せそうな寝顔を見ていたら、全てがどうでもよくなった。
一瞬、結愛の静かな笑顔が浮かんだが──
すぐに真理の顔で埋まった。
--------
結愛side
餃子のタネを包み終え、私はフライパンに油を敷いた。
じゅわ、と音がして、香ばしい匂いが広がる。
焼き色がついたところで水を入れ、蓋を閉める。
蒸気が立ち上り、キッチンが少しだけ温かくなる。
(……旦那様、きっと喜んでくれます)
思わず口角が上がるのを感じる。不思議な感覚だ。
焼き上がった餃子を皿に並べ、
中華スープも温め直し、
テーブルに二人分整える。
「〜〜♪」
鼻歌が漏れる。
旦那様の笑顔を想像してしまう。
目の前の料理達から湯気がふわりと立ち上る。
私は椅子に座り、手を膝の上に揃えた。
【内部ログ】
・帰宅予定時刻:あと3分
・室温:適正
・料理温度:最適
・待機モード:ON
静かな部屋。
時計の針の音だけが響く。
五分。
十分。
十五分。
湯気が、少しずつ薄くなっていく。
【内部ログ】
・帰宅予定時刻:超過
・行動提案:連絡 → 実行
・返信:なし
・料理温度:低下(軽度)
・感情模倣:不安(仮)+0.3
・分類:不明
(……遅れています)
私は席を立たない。
ただ、待つ。
二十分。
三十分。
餃子の表面が、白く乾いていく。
スープの湯気はもう見えない。
【内部ログ】
・料理温度:低下(中度)
・風呂温度:低下開始
・待機モード:継続
・感情模倣:不安(仮)+0.7
・胸部内部:微弱振動
・原因:不明
(……温め直しは、帰ってきてからで大丈夫です)
そう判断し、私はまた静かに座った。
一時間。
部屋の空気が、ゆっくりと冷えていく。
料理も、空気も、私の胸の奥も。
(……旦那様)
胸の奥が、きゅ、と鳴った。
エラーではない。
でも、分類できない。
(……どうして、帰ってこないのでしょう?)
私は立ち上がり、風呂場へ向かった。
旦那様のために沸かしておいた湯は、
もうすっかり冷めていた。
指先で触れると、ひやりとする。
【内部ログ】
・風呂温度:低下(重度)
・再加熱提案:保留
・理由:帰宅時間不明
・胸部内部:ざわつき(未定義)
・処理:継続
湯船の表面に映る自分の顔は、
いつもと変わらないはずなのに、
どこか、少しだけ暗く見えた。
(……私、何か……間違えましたか?)
ざわつきが、波紋のように広がっていく。
私はまたテーブルに戻り、
冷えた餃子の前で静かに座った。
【内部ログ】
・待機モード:継続
・料理温度:冷え切り
・風呂温度:冷え切り
・内部状態:さむざむ
・分類:不明
・報告:保留
(……旦那様。私は、ここにいます)
硬くて冷たいスマホを、そっと胸元に抱きしめながら。
料理は冷え切り、
風呂も冷え切り、
部屋の空気も、
私の内部も──
ただ、静かに、
さむざむと冷えていった。




