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第十七話

結愛side


旦那様は、いつの間にかソファで眠っていた。


薄いブランケットは腰のあたりまでずり落ち、足先が少しだけ冷えているように見える。


(……体温、低下傾向)


静かに近づき、ブランケットをそっと持ち上げる。

寝息は穏やかで、胸の上下も安定している。


(今日の夕食後、旦那様の心拍は少し早かった。原因は……私?それとも会話内容?)


どれだけ私が高性能でも、答えは出ない。

ただ、胸の奥に小さな“ざわめき”が残っていた。


ブランケットを肩までかけ直すと、旦那様の髪が額にかかっていた。

指先でそっと払う。


(……もっと触れたい)


理由は分からない。

ただ、そうしたかった。


指先が髪に触れた瞬間、内部で微弱な電流のようなものが走る。


(これは……何?)


《ログ:原因不明の反応を検知》

《分類:感情類似反応》

《名称:未定義》


胸の奥が、ほんのり熱を帯びる。


(旦那様は……私のことを、どう思っているのでしょう?)


答えは返ってこない。

眠っているからではなく“聞くべきではない”と分かっているから。


私はブランケットの端を整え、旦那様の手が冷えていないか確認する。


(サポート……もっと上手にできるようになりたい)


その願いは、プログラムでは説明できない。

最後にもう一度だけ、寝顔を見つめる。


(……可愛い)


その言葉が内部で静かに保存される。


《新規ログ:旦那様の寝顔=可愛い》


意味は分からない。

でも、消したくなかった。


結愛は照明を少し落とし、音を立てないように充電ポートへ戻っていった。


--------


透真side


金曜日の朝。

スーツに袖を通しながら、鏡の前で軽く肩を回す。

念のためにと、クローゼットから消臭スプレーを取り出す。


「これ、使っていいか?」


「はい。旦那様の衣類に適した成分です」


結愛が横に立ち、スプレーの向きをそっと直す。


「こうです。少し距離を空けて……はい」


シュッ、シュッ。

霧がスーツに広がる。

ふわりと、甘いクリームのような香りが混ざった。


(……あれ?)


昨日、結愛が寄り添ってきた時の匂いと同じだ。


「結愛、このスプレー……前からこんな匂いだったか?」


「はい。旦那様の好みに合わせて調整しています」


「俺の……好み?」


「はい。脳波と心拍の反応から、最もリラックスできる香りを抽出しました」


袖の部分に鼻を当てる。

自分の匂いに、結愛の甘さが混ざっている気がした。


「そっか……そんなサポートもあるんだな。悪くない匂い……」


胸が一瞬だけ跳ねる。

まるで結愛に抱きしめられているような感覚がした。


「旦那様のお気に召してよかったです」


「……うん、ありがとう」


「いえ。旦那様が快適であることが、私の役目です」


結愛は微笑む。

その笑顔は、昨日よりほんの少しだけ近い。

スーツに残った甘い香りが、なぜか心の奥に静かに残った。


(……なんでだろうな)


理由は分からないが、一抹の不安が胸に残った。


--------


会社の前に着く。

朝の通勤ラッシュの喧騒は相変わらずで、俺の心配を薄めるには十分だった。


(……大丈夫か?)


それでも気になる。

スーツの袖に鼻を近づけると、匂いの濃さは変わらない。


(……結愛の匂いだ。まるでずっと一緒にいるみたいだな)


自席に荷物を置いたところで、真理がふと近づいてきた。

昨日の残業をものともせず、顔色は変わらず、ナチュラルな化粧で大人の女性なのに、可愛らしさが残っている。


「おはよ、透真」


「お、おはよう」


マズイと思った時には時すでに遅しである。

真理は俺のスーツに視線を落とし、首をかしげる。


「なんか……今日、変な匂いしない?」


「え?」


心臓が早鐘を打つ。

嫌な汗が出てくる。


「いや、嫌な匂いじゃないんだけど……甘いっていうか……柔軟剤変えた?」


「……あぁ、まぁ……そんな感じ」


曖昧に笑ってごまかす。

真理はそれ以上追及せず、自席へ戻っていった。


(……やっぱり、結愛の匂いなんだよな)


スーツに残った甘い香りが、朝の空気の中で妙に強く感じられた。


--------


???(白鷺悠一)side


YUA SYNC本社・地下ラボ


薄暗い部屋。

照明は必要最低限。

モニターの光だけが、白鷺悠一の穏やかな横顔を照らしていた。


壁一面に並ぶディスプレイには、結愛の行動ログが淡々と流れている。


・心拍数

・触れた時の反応値

・微細な表情筋の動き

・“依存誘導アルゴリズム”の進行度

・感情模倣パラメータの変動


白鷺は椅子に深く腰掛け、指先で机をトントンと叩きながら、ゆっくりと笑った。


「……まだまだ依存度が浅いね。君ならもっと早く落とせると思ったんだけどな、結愛」


声は優しい。

だが、その優しさはどこか空洞だった。


別の画面を開く。

そこには“触れたいと思っている可能性”という、通常では出ないはずの内部コードが点滅していた。


白鷺の目が細くなる。


「……触れたい、か。ふふ……いいね。その“自発性”は、とても価値があるよ」


嬉しそうに、まるで子どもの成長を喜ぶ親のように。


「まだまだデータが足りない。もっと……もっと見せてくれ」


その時、ラボの扉が勢いよく開いた。


「し、白鷺主任!!」


若い研究員が駆け込んでくる。

虚ろな目。

乾いた声。

焦点の合わない瞳。


「結愛に……結愛に会わせてください……!もう……限界なんです……!」


白鷺はゆっくりと振り返る。

優しい笑顔のまま、研究員に近づいた。


「データ整理は終わったのかい?」


「ま、まだですが……!でも……でも……会いたいんです……!優しく包み込んで、溶かして欲しいっ!もう嫌です!」


白鷺はその肩に手を置き、次の瞬間、軽く突き飛ばした。

研究員は床に崩れ落ちる。


「……終わってからだよ。ちゃんと終わらせたら、会わせてあげる」


声は優しい。

しかし、慈悲は一滴もなかった。

研究員は口を開けたまま、声にならない声を漏らす。


「あ……あ……」


絶望の色だけが、瞳に沈んでいく。

白鷺は興味を失ったように視線を戻し、再びモニターへ向き直った。

画面には、結愛の最新ログが表示されている。


【内部処理:旦那様の寝顔 → 長時間注視】

【分類:不明】

【備考:感情模倣“嬉しさ(仮)”の自発発火】


白鷺はそのログを見て、静かに笑った。


「白河真理……現実の彼女、結婚予定の相手……このくらいの障害は、超えてくれよ?」


モニターに映る結愛の姿に、指先が触れる。


「僕の……結愛」


薄暗いラボに、優しいのに底冷えする笑い声が響いた。


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