第十二話
真理side
出張先のビジネスホテルから歩いて五分。
昔ながらの定食屋に入ると、焼き魚の香ばしい匂いがふわりと漂ってきた。
「……はぁ」
席に座ると、思わずため息が漏れた。
今日の仕事は完璧だった。
資料の確認も、クライアントとの折衝も、部下のフォローも。
課長としての役目は、いつも通りきっちり果たした。
——なのに、胸の奥だけが落ち着かない。
(……どうしたんだろ、私)
原因は分かっている。
透真のことだ。
出張に出る前、彼は「大丈夫だよ」と笑っていた。
その笑顔が、逆に胸に引っかかっていた。
(本当に……大丈夫なのかな?
あの人、すぐ無理するから……)
最近、少し様子が違う気がする。
疲れているような、何かを隠しているような。
「お待たせしましたー、ホッケ定食です」
店員が置いた皿から、湯気がふわっと立ち上る。
透真が宮坂君と食べていた物。
同じものを食べたくなった。
私は無意識にソースを手に取った。
(帰ったら……ちゃんと話そう。
無理してないか、聞かないと)
そのまま、ホッケにソースを——
じょぼっ。
「…………あ」
周りの空気が一瞬止まった気がした。
ホッケの上に、黒いソースの湖が広がっていく。
(……やってしまった)
自分でも信じられないほどのポカ。
「……はは」
笑うしかなかった。
店員さんが「作り直しましょうか?」と優しく声をかけてくれる。
私は慌てて首を振った。
「大丈夫です、すみません……」
(私、こんなミスするタイプじゃないのに……)
箸を持ちながら、真理はふとスマホを見た。
透真からのメッセージは、まだ来ていない。
(……大丈夫、だよね?)
胸の奥が、じんわりと重くなる。
ホッケにソースをかけた味は、当然ながら最悪だった。
でも私は、その味よりもずっと苦いものを胸の中に感じていた。
会計を済ませて店を出ると、夜風が少し冷たかった。
街灯の下を歩きながら、私は無意識にコンビニへ足を向けていた。
「……ちょっとだけ、寄ろう」
店内は明るくて、外の静けさが嘘みたいだった。
雑誌コーナーの前を通りかかったとき、ふと目に入る。
——結婚情報誌。
白いドレスのモデルが笑っている。
その表紙に、真理の足が止まった。
(……結婚、かぁ)
手を伸ばして、そっと表紙に触れる。
紙の冷たさが指先に伝わる。
(透真君……どう思ってるんだろう)
結婚の話は、何度か出た。
でも、彼はいつも「そのうち」「落ち着いたら」と笑っていた。
それが優しさなのか、逃げなのか、今の私には分からなかった。
雑誌を棚に戻し、代わりにレモン缶チューハイを一本手に取る。
「……今日は、いいよね」
レジを済ませて外に出ると、プルタブを開けた。
シュッという音とともに、甘いアルコールの匂いが広がる。
一口飲む。喉が熱くなる。
「これストロングだった……明日起きれるかな……?」
ホテルまでの帰り道、私は缶を片手にゆっくり歩いた。
「……結婚式、かぁ」
ぽつりと呟く。
夜空に溶けていくような声だった。
(透真君……本当に、大丈夫なんだよね?私たち……ちゃんと、同じ方向を見てるね……?)
スマホを取り出す。
画面には、透真からの未読のままのトーク画面。
指が、送信ボタンの上で止まる。
「……今は、やめとこ」
缶をもう一口飲む。
アルコールの甘さが、胸の苦さを少しだけ誤魔化してくれた。
ホテルの明かりが見えてくる。
真理は小さく息を吐いた。
(帰ったら……ちゃんと話そう。逃げずに、向き合わないと)
そう思いながら、私は静かにホテルの自動ドアをくぐった。




