第69話:慇懃なる悪、更なる囁き
あの地下牢での死闘から数週間が過ぎた。
マリオットのばら撒いた悪意の噂は完全に霧散しており、初めから何事も無かったのごとく、帝国には平穏が戻っていた。
静寂が支配する夜の執務室。レイは、詩作に没頭するクライドのデスクのすぐ傍らにある、彼のために用意されているチェアに静かに身を預けていた。
その時、部屋の隅の影が不自然に蠢き、そこから音もなく、あの見慣れた悍ましい姿が現れた。
大魔族マリオット。あの時のただれた痛々しい姿はまるで幻影であったかのように一寸の隙もない優雅さが戻っていた。
彼はレイにだけ聞こえるよう、語りかけてくる。
「くく……随分と、晴れやかな顔をしておいでですね、レイ。……いや、レイジとお呼びすべきでしょうか?」
揶揄うように言いながら、マリオットは歩み寄り、その指先でレイの黒髪に触れようとするが、それはまるで強い静電気に撃たれたように弾かれた。レイから放たれる強大な魔力に拒絶されたのだ。
マリオットは、自らの指先を見つめ、心底愉快そうに、そして感嘆を込めて笑った。
「おやおや、これは失礼。それにしても、私が冗談半分で流しておいたあの超古代の禁忌の噂。まさか、貴方たちが既にあの悍ましい呪いに身を委ねていようとは! 正直、これには一本取られました。魔族の想像力さえも貴方たちの狂った執着は凌駕していたというわけです。真に素晴らしい!」
マリオットは、大仰に肩をすくめ、クライドの方をチラリと見てから、さらに声を弾ませた。
「いやはや、実に見事な傑作です! 私が与えた精神を侵す毒を、たかが人間風情の、薄汚くて独占欲まみれの呪いが、上書きしてしまったのですから滑稽極まりない。そして貴方は、神の玩具であることを辞め、あの、ひとりの男の永遠の檻に、自ら飛び込んだ!」
マリオットは少し口調を落として続けた。
「ですが、怪我の功名というべきでしょうか。貴方の中にあるあの『女神』の力……その聖なる輝きが古代魔法の呪いと混ざり合い、とんでもない無尽蔵の魔力へと変質している。今の貴方はもう、ただの【聖女】ではございません。神の力と、人の執念と、魔の呪いが融合した新たな【概念】です。
そして、その貴方の魂と隷属契約により結びついてしまったクライド殿をも、もう誰も傷つけることはできない。
……いやはや、なんの力も持たないあの坊やがねぇ。」
マリオットの瞳が、睨みつけるようにクライドを凝視した。そして彼はレイの顔を正面から覗き込み、誘惑するように囁いた。
「……くくく、どうですか、レイ。今一度、真剣に考えてみる気はございませんか? ……真に『神』の座へと就くことを。」
マリオットは、横に回りレイの耳元で甘く、そして悍ましい誘惑を囁き続けた。
「貴方がその気になりさえすれば、その内に秘めた無尽蔵の魔力……神をも凌駕するその異形なる力を使って、この世界の理など、容易く書き換えることができるのです。……生も死も、理も、全てを意のままに。」
マリオットの言葉が続く。
「そうすれば、貴方が焦がれて止まないあのクライド殿と共に、老いることも、別れることもなく、永遠の時を生きることも可能なのです。どうです? 悪くないお話でしょう?」
マリオットの声は、さらに低く、そしてレイの魂の奥底へと染み込もうとする。
「いや、それともこの私と共に神々の座へと昇り詰めようとは思わないか? 全ての理を超越し、この世界を、そして運命をも支配する、真なる神として……!」
レイは、マリオットの紅い双眸を氷のような瞳で見つめ返した。その瞳には、かつての迷いや絶望の影は欠片も残っていない。
「……あなたの言葉は、もう二度と聞きません。マリオット。」
レイの心の声は、静かだが、鋼のような拒絶を秘めていた。
「私は、クライド様の従者。貴方が語る永遠も、神の座も、私の望むものではありません。私は、私の主と共に、この世界を生き抜くだけです。」
マリオットは、レイの迷いのない拒絶に、一瞬だけ、実に残念そうな表情を浮かべた。しかしすぐに苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「くく……実に、残念です。貴方ほどの極上の魂が、ひとりの人間の独占欲に縛られ続けるとは。まあ、それもまた一興ではございますがね。」
マリオットの姿が、霧のように溶け始める。
彼は最後に、レイの首筋……かつて自分が牙を立てたその場所へ、ねっとりとした視線を向けた。
「……だが、ひとつだけ、礼を言わせていただきますぞ、レイ。貴方からいただいたその血……」
マリオットは、自らの唇を舌でなぞり、恍惚とした表情で、最後の一言を滑り込ませた。
「おお、あれはまさしく甘露!この世のものとは思えぬほど芳醇でございました!おかげさまで私の力は、以前よりも遥かに強くなりましたよ。貴方にもう触れることができないのが残念でなりませんな。」
マリオットの嗤い声が、執務室の闇に不気味に響き渡り、そして完全に掻き消えた。
後に遺されたのは、静寂と、クライドの傍らの黒髪の従者。
「レイ。何か、気配がしたか?」
デスクから顔を上げたクライドの問いに、レイは、静かに首を振った。
「いいえ、クライド様。……ただの、風の悪戯です。」
レイは、己の首筋にそっと触れた。そこにはもう、あの傷痕はなかった。




