第63話:二人の名、二人の絆
その時、闇の奥から現れた大魔族マリオットはレイの背後へ音もなく回り込み、彼のその体を這い進むように抱きしめた。彼の漆黒の髪に顔を埋め、獲物を完全に仕留めた捕食者の貌で、絶望に震えるクライドを嘲弄する。
「くく……無駄な足掻きですよ、クライド殿。この男はもう、絶望の果てに己を壊してしまったのです。今ここにいるのは、私の望み通りに作り替えられ、美しく壊された私のお人形なのですから………」
マリオットの細長い指がレイの頬を汚らわしく愛撫する。レイの瞳に光はなく、ただ意志を失った人形のように、魔族の腕に身を預けていた。
「…うっ…くっ……レイ……レイ……ッ……」
絶望の嗚咽を上げ続けるクライド。
その様をただ無表情に見つめるレイ。
感極まり哄笑し続けるマリオット。
しかし突然、クライドはその闇を切裂くような、喉を引き千切らんばかりの声で叫んだ。
「レイジ!!!」
それは、この世界の誰も知らない、元の世界での彼の真の名。ふたりだけが共有する、魂の結び目。
レイの眉が、かすかだがぴくりと跳ねた。
虚ろだった漆黒の瞳の奥で、小さな、だが鋭い火花が散る。
「聞け!レイジ! !!マリオットに惑わされるな! 僕を見ろ! 呼べ……僕の名を、僕を呼ぶんだ!!!」
「……あ……」
レイの唇がかすかに震えた。
マリオットの牙から流し込まれた―クライドに棄てられた―という偽りの記憶。その厚い氷の層に、自分の本当の名を呼ぶクライドの叫びが、鋭く深い亀裂を入れた。
「……くらいど……さま……? くらい……」
レイの脳裏に、マリオットの演出した幻影ではない、真実の記憶が溢れ出した。
―だんだん意識が遠のいていく……
あの冷たいぬかるみの中で、僕にはもう絶望しかなかった。でも君が来てくれた。その身体が汚い泥で汚れるのも厭わずに、僕に必死に声をかけ、抱きおこしてくれたんだ。
何故だか名前を聞かれた気がして、か細い声で伝えたら、君はほっとしたような笑顔で僕の名前を呼んで、優しく頭を撫でてくれた。
あの手の温かさこそが、あの時、僕をこの世に繋ぎ止めた唯一の光だった……―
「…………クライディル……!」
消え入りそうな、けれど確かな意志を宿した声が、レイの口から零れ落ちた。それはクライドの真名だった。
その瞬間牢獄の闇をすべて焼き尽くすほどの激しい光が爆発した。
それはマリオットの汚泥のような魔力でも、女神の歪んだ加護でもない。絶望の淵で再び結ばれた、ふたりの魂そのものが放つ共鳴の輝きだった。
「なっ……何事だ!? この光は……私の魔力を焼き払うというのか!?」
愉悦に浸っていたマリオットが、悲鳴を上げてレイから手を離し、たじろぎながら後ずさる。光の奔流の中で、漆黒に染まっていたレイの魂が、再び真実の色を取り戻そうとしていた。




