第62話:狂いし聖女、絶望を振るう指揮者
「……消えろ。私の記憶からも、この世界からも!」
漆黒の髪を逆立て、レイは指先をクライドへと向けた。その先には万物を無へと帰すどす黒い魔力の渦が、不気味な脈動と共に凝縮されてゆく。
放たれたのは、空間を切り裂くほどの極大の衝撃波。
防ぐ術など持たぬクライドが、己の死を感じて目を瞑った瞬間―彼の前に、鋼の意志を宿した背中が立ちはだかった!
「させるかぁっ……! 聖なる光よ、我が盾となれ!!」
ヴァインは、両手から強く眩い光の障壁を展開させた。だが絶望によって羽化を始めたレイの一撃は、その壁を紙細工のように一瞬で食い破る。
「ぐっ……あああああっ!!」
「ヴァイン!?」
その衝撃はヴァインの身体を突き抜け、背後の石壁まで叩きつけた。口端から鮮血を零し、膝をつきながらも、ヴァインは必死に障壁の構成を維持しようと歯を食いしばった。
せめて彼の剣がここにあれば魔力を乗せて相殺することもできただろう。だが今の彼には、己の命そのものを盾として弟を守る術しか残されていない。
「………どけ、ヴァイン。私の邪魔をするな。」
「ぐ…ごほっ……目を覚ませ、レイ! お前はマリオットに毒されている!!」
「………火よ……氷よ……荒れ狂う雷よ……」
レイの虚ろな独白に応じるように、牢獄は瞬時に地獄へと変貌した。
本来、ひとりの人間が複数の属性をこれほど高密度に同時行使することなど世界の理が許さない。だが、女神の異常な言動が引き起こしたものによるその強大な魔力と、マリオットの毒が混濁しているレイにはもはや既存の魔導律など通用しない。
猛火が酸素を奪い尽くし、直後に凍てつく氷塊がヴァインを襲う。弟を庇い、防戦一方の魔法障壁でクライドを覆い隠すヴァインだが、波状攻撃の前に彼の魔力はじわじわ削り取られていく。
「くく……っ、くははははは! 素晴らしい!もっと、もっとですよ! その甘美な絶望を、私に余すところなく供しなさい!」
闇の奥底からマリオットの高笑いが響き渡る。彼は狂った指揮者のように腕を振り、その場を支配する負の感情を貪り喰らっていた。
「くははは! 弟君を庇い、なすすべもなく消耗していく聖騎士殿。そして、守り抜こうとした愛しい下僕に屠られる弱々しい主人の無様な姿! ああ、これこそが至高の喜劇、贅沢な余興というものです。
さあレイよ、遠慮はいりません。もっと激しく、もっと残酷に彼らを抉りなさい! その悲鳴こそが貴方の新しい魂を産み落とす、何より美しい産声となるのですから!」
クライドは震える手を必死に伸ばした。
「レイ……頼む、僕を見てくれ……ヴァインを殺さないでくれ、レイ……」
だがレイの瞳に映るのはかつての愛しい主ではない。自分を捨て、嘲笑い、踏みにじった偽りの敵の残像だけだった。
「……さようなら、クライド様。貴方のいない地獄へ、私はひとりで堕ちることにします………」
崩れゆく牢獄。ヴァインの光が今まさに消えかかる中、マリオットの嗤い声だけが逃げ場のない闇の底に響き続けている。




