第59話:慇懃なる悪、絶望の幻影
マリオットの牙がレイの首筋に深く沈み込んだ瞬間、灼熱のような激痛と同時に、甘美で悍ましい魔力が体内へと直接注ぎ込まれた。
「おお…これはなんという素晴らしき味わい!女神に棄てられたその魂の、なんとまあ芳醇なことか。貴方の嘆きは、どんな年代物の銘酒よりも、この私の喉を潤してくれますよ。」
マリオットは首筋に牙を立てたまま、恍惚と喉を鳴らす。
レイの虚ろな瞳が激痛に一瞬見開かれたが、もはや抗う術はない。体内を巡る魔の毒は、抵抗の意志を奪うだけでなく、レイの精神の最も脆弱な部分―クライドへの執着と、棄てられることへの根源的な恐怖―を抉り出し、増幅させていく。
(……くらいど、さま……)
霞む意識の中で主の名を呼ぶレイ。
マリオットの毒がレイに鮮明な幻影を見せつける。
それは、王城にあるクライドとレイの居住する宮、あの見慣れた執務室だった。
だが、そこに立つクライドの隣には自分ではない別の若い従者が控えていた。
『……レイ? ああ、そんな従者もいたな。魔族に唆され、自ら魔界へ堕ちた裏切り者など、もはや私の記憶にはない』
幻想の中のクライドは、その従者に向け、かつては自分だけのものだったあの慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
『お前は、あのような無能な裏切り者とは違う。……私の、新しい半身だ』
新しい銀髪の従者は、誇らしげにクライドの手に自らの手を重ねる。二人は、レイの存在など初めからなかったかのように、親しげに笑い合っていた。
「……いや……だ……」
レイの唇から、絞り出すような絶望の声が漏れる。
首筋から注ぎ込まれる毒は、その幻影こそが『真実』であるとレイの魂に焼き付けていく。
―クライド様に棄てられた。自分はもう、不要なものとして棄てられたのだ―
マリオットは、絶望に身をよじるレイを深く抱き寄せ、逃げ場を塞ぐように拘束した。
レイの耳元で、甘く、そして悍ましく響く声は、もはや逃れられぬ真実のようにその脳髄を侵食していく。
「……ご覧なさい、レイ。あのクライドが、貴方を助けに来ましたか? 貴方の名を呼びましたか?」
マリオットの冷たい指先が、レイの涙の跡をねっとりと辿る。
「そう、彼は貴方を棄てたのです。その忌まわしい『聖女』の力に怯え、貴方を薄汚い裏切り者として記憶から抹消したのです。……今の貴方に居場所など、この世界のどこにもありはしないのですよ。」
レイの瞳から完全に光が消え、底なしの虚無が広がっていく。その匂い立つような絶望感に、マリオットの瞳は悦びにぎらぎらと輝く。
「おやおや、そんなに震えて。もっと嘆きなさい、もっと絶望なさい。神が敷いた理から外れたその不浄な魂が、絶望の果てに何へと【羽化】するのか……。さあ、私だけに見せてください。貴方の無様な壊れ様を!」
マリオットは、レイの指先が絶望に震え、その身体が激しく痙攣する様を、極上の舞台を鑑賞するかのような眼差しで眺めていた。
クライドによってほどされた銀の髪が、毛先からじわりと、深淵の如き漆黒に塗り潰されていく。
「くく……」
魔族の牙は、さらに深く、レイの絶望を啜り尽くすように突き立てられた。
レイの魂の奥底で、何かが音を立てて砕け、昏く、強大な力が産声を上げようとしていた。




