第58話:生贄の果実、悪意の雫
絶望に顔を歪めるクライドを城に残し、マリオットの邸へと向かったレイ。そこで彼に与えられたのは、地上の喧騒とは無縁の静謐と底知れぬ魔気が同居する、巨大な邸の広大な書庫に続く客室であった。
「我が邸にお迎えした以上、貴方様は最上の賓客にございまする。この書架に眠る万年に渡る知識から、芳醇なる美酒の一滴に至るまで……どうぞ、ごゆるりと飽くまでご自身の欲望に従い、貪り尽くされるが良い。地上のほとぼりが冷めるまで、その不自由な翼をゆっくり休められよ。」
マリオットは紳士的な微笑を浮かべ、そう告げた。
レイは片時も警戒を解かなかったが、主であるクライドへの忠誠心から、ここにある魔界の知識がいつか主の役に立つかもしれないと考え、蔵書の海へと没頭し始める。
そこでの時間は穏やかに過ぎていった。
マリオットは時折彼のいる書庫を訪れては洗練された所作で茶を勧め、レイが求める知識に必要な蔵書を選び、未知の術式の解釈を助けることさえあった。その態度はまるで慈愛に満ちた導き手のようであり、あらゆる知識を吸収してゆくレイの才を師のように温かく褒め称えた。
物静かなレイがぽつりぽつりと発する問いに対し、マリオットは惜しみなく深淵なる知識を紐解いていく。奇妙な師弟関係にも似た、穏やかで静かな時間を共有していた。
―だが、その平穏こそが、獲物の感覚を麻痺させるための、最も恐ろしい罠だったのだ―
「おやおや、レイよ。熱心に勉強するのは良いが、あまり根を詰めすぎるのは感心しないな。せっかくの素晴らしいその頭脳が、過労で曇ってしまってはもったいないぞ。」
差し出されたのは、甘く芳醇な香りを漂わせる、見た目も香りも珈琲のような琥珀色の液体。
マリオットが同じものを飲んでいるのを見ながら、レイは毎回のように細心の注意を払う。口に入れる全てのものには密かに解毒の術式を通して確認していたが、今まで同様この飲み物に特に怪しい反応はないようだ。
―と、安心してひとくち飲み込んだ瞬間。視界が激しく揺らめき、思考の糸がぷつりと途切れた。
(……しまった、これは……)
それは毒などではなかった。ただし飲む者の精神を弛緩させ、抵抗の意志を霧散させる。人間を誘惑するための、魔界にしか存在しない《忘我の雫》。
必死に抗おうとする指先から力が抜け、立ち上がろうとしても身体が力なく椅子に沈み込む。意識が深い泥の中へ沈んでいくような、不気味な虚無が脳内を支配した。
「……くく、はははは! おやおや、これは失礼。つい、あまりの美しさに理性を忘れてしまいました。ようやく、その生意気な眼光が消えてくださった。実に、実に見事な出来栄えだ。その光を失い、魂の抜け殻となった泥人形のような虚ろな瞳。これこそが、私がずっと、心の底から拝見したかったものですよ、レイ。」
ついに紳士の仮面を脱ぎ捨てたマリオットが、愉悦と欲望に歪んだ顔で背後に立った。
逃げようにも手足は鉛のように重く声すら出ない。虚ろになったレイの視界の中で、マリオットの熱く、妙に甘ったるい吐息が首筋に触れた。
マリオットはその薄く紅い唇を割り、鋭く長い牙をぬらりと覗かせる。
「ご案じめさるな。貴方の愚かな主には、丁寧に……それはもう、あの者が生涯立ち直れぬほど丁重で残酷な言葉を添えて、あなたがご自身の意思でずっとここに留まられるとご報告申し上げましょう。あの若き王弟が、唯一の半身に裏切られた絶望に悶え、惨めに悶え泣く姿……ああ、想像するだけで至高の味わいだ!」
恍惚とした表情で、レイの喉元を優しく愛撫するように指でなぞる。
「さあ、まずはその喉から頂戴しましょうかな。神に棄てられ、私の元へと堕ちてきた、哀れな【果実】の味……
その魂の奥で熟れきった絶望を一滴残らず、丁寧に啜り尽くして差し上げますよ。」
次の瞬間、レイの首筋にマリオットの牙が深く突き立てられた。レイの魂が激痛と共に黒く脈打ち始める。
マリオットの狙いは、まさにこの極限の絶望による《強制的な羽化》の始まりだったのだ。




