第56話:不信の連鎖、闇からの招待
静寂に包まれた居城の執務室。
ロイエンタールは、目の前の青年に静かな、だが逃げ場のない問いを投げかけた。
「レイ、お前が異世界よりの召喚者であったというのは事実か。なぜ、それを黙っていた。」
「……申し訳、ございません。」
震えるレイの声が、重苦しい空気に溶けていく。
「いや、すまない。お前を責めているのではないのだ。ただ、噂の具体性が看過できんのだ。お前はクライドに忠実に仕え、目立つ振る舞いもしていない。にもかかわらず、なぜこれほど歪んだ話が噂として広まっているのか。調べさせているが、その糸口さえ掴めぬ。」
外では、『神を兵器として独占している』と信じ込む諸国が。内では、加護を求める者たちが暴徒化の動きもある。
さらに、悪意はレイの根源を穿つ捏造も解き放つ。
『―帝国の秘匿せし【神の男レイ】―あれは慈悲の具現ではない。超古代の禁忌術により異世界の魂を繋ぎ止め、女神の力を無理やり抽出している、悍ましき《生きた兵器》の輝きである』
噂はさらに加速する。
『レイの魂が摩耗しきった時、溜め込まれた力が暴走し、大陸全土を灰にする災厄となる。』
この悪意の渦は、レイという一人の青年を、望まぬ滅びを宿した《災厄》へと完全に歪めてしまった。
自らの存在が、何より大切な主たちを滅ぼすと確信したレイは、鋼の決意を秘めて顔を上げた。
「クライド様。どうか、私を……」
―追放してください―その己を犠牲にする言葉を紡ごうとした、その時。
突如、部屋の隅の影が不自然に波打ち、厭に粘りつくような空気が室内を満たした。
「おやおや、これはこれは……皆様どうなさった?まるで世界の終わりを見届けているようなお顔だ。」
拍子抜けするほど朗らかで、それでいて鼓膜にこびりつくほど不快な声。影から滲み出したのは大魔族マリオットだった。彼は舞台役者のように大仰な仕草で一礼してみせる。
「……マリオット。貴様、どの面を下げて……!」
クライドが憎悪を剥き出しに睨みつける。先日のマリオットの言葉はまだ彼に怒りを覚えさせている。クライドの傍らに控えていたヴァインもまた、反射的に鋭い視線を向けた。
だが、マリオットは彼らの殺気をまるで気にも留めずに受け流し、白々しく首を傾げた。
「おや?…心外ですねぇ。この帝国を包囲するあの醜い音楽があまりに騒々しいので、ご機嫌伺いに参ったのですよ。貴方がたの親愛なる隣人として、何事かお困りかな?と老婆心ながら駆けつけさせていただいたのですがねぇ。」
彼はふらりとレイに歩み寄ると、その横顔を舐めるように覗き込み、唇の端を吊り上げた。
「くく……案ずることはない、レイ殿。我が魔界の深奥、私の庇護下であれば、神の眼も人の欲望も届かない。ほとぼりが冷めるまで、そこで避難していればよかろう?どうだ?」
ヴァインの指先が正体不明の嫌悪感に微かに震える。
彼の言動にヴァインは困惑を隠せなかった。眼前の魔族は、本当に我々のためにレイを救う手助けをすると言っているのか?
「ふざけるな! レイを貴様のような化け物に渡すなど、死んでも断る!」
クライドが叫び、レイの腕を折れんばかりの力で掴む。その瞳には、半身を失うことへの恐怖が張り付いていた。
「……そこまでだ、クライド。」
その声はロイエンタールだった。その表情は鉄の仮面のように、王としての非情な輝きを宿している。
「兄様!? 貴方はこいつを信じるのですか! 魔界へ送るなど、二度と戻れぬと言っているのと同じだ!」
「クライド。今の帝国に、彼を隠し通せる場所などどこにもない。これは王命だ。レイを、マリオット卿に預ける。」
ロイエンタールの胸中には、先日の魔王の忠告が去来する。
『……女神に抑え込まれ続け、面白くは思っていなかった血気盛んな若き魔族たちが見逃すと思うか? あやつらは闇に跋扈し、脆く弱き人間の心にどす黒い悪意を吹き込むだろう…』
分かっている、これは彼ら魔族の仕組んだことだ。
だが今のロイエンタールには他に方法が思いつかない。
死刑宣告のごとき言葉に、クライドは絶望に顔を歪ませ、兄の襟元に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。
「兄様は……自分の弟が、一番大切なものを奪われるのを黙って見ていろと言うんですか!」
ロイエンタールの声が、低く、押し殺した響きで応える。
「……痛み入る。お前の絶望も。だが、このままではレイひとりのために、この帝国そのものが砕け散る。今はこれしかないのだ。分かってくれ。」
王としての次の一手と、弟を地獄へ突き落とす苦渋を混在させ、ロイエンタールは立ち尽くす。
闇の中で、マリオットの嗤い声が響く。
彼らの【絶望】という名の果実がこぼれ落ちるこの瞬間を、魔族は喉を鳴らして堪能していた。




