第55話:帝国の玉座、噛み砕く悪意
……ひそ………ひそ………
始まりは、国境沿いの薄暗い酒場で囁かれた、毒を含んだ噂だった。
いずこからともなく現れた旅の商人たちが、見たこともない極上の酒を振る舞いながら、恐ろしい秘密を分かち合うかのように声を潜める。
「……なあ、聞いたか? ローゼンブルグの貴族たちが最近やけに若々しい。ロイエンタール王は、女神から特別な力を授かった『至高の聖女』を宮殿の奥深くに隠匿しているらしいぜ。なんでも、死すら遠ざける輝きだそうだ…」
……ひそ………ひそ………
活気ある市場でも、背の曲がった老婆が真っ赤なリンゴを撫でながら、買い物客に深い溜息を漏らす。
「この瑞々しさ……不自然だと思わないかい? 帝国の土地だけに『聖女』の力が注がれているのさ。他国の土が枯れようとも、自分たちだけは肥え太る。加護の独り占めなんて、ああ、なんとも罰当たりな……」
その言葉は、生活に喘ぐ民衆の心に不当という名の火をつけた。撒き散らされた悪意は、人心の、さらに深く、深い奥へと浸透していく。
「帝国は、我らを見捨てておられるのではないか!?」
煌びやかな社交界の裏側で、貴族たちは顔を寄せ合い、不穏な囁きを交わし始めていた。悪意に惑わされた者たちはまこしやかに、彼らの特権意識を巧みに突き、その肥大した自尊心を煽り立てていた。
「ロイエンタール王は、その『特別な力』を側近や弟君の周囲だけで独占している。聖女の力は、我らにも等しく与えられるべきだ!」
「我々が魔獣の跋扈に怯え、衰えゆくのを、彼の国王は黙って見ておられるのか?」
「寵愛を一身に受ける者たちだけが、永遠の若さと繁栄を謳歌している。これは明らかに、忠誠を誓う我らへの背信でないのか!」
……ざわ………ざわ………
かつて帝国への忠誠を誓った諸侯や大貴族たちまでもが、猛烈な疑心暗鬼に駆られていく。
「あいつが妙に若々しいのは、王から秘密裏に『聖女の血』を分け与えられたからではないか?」
「なぜ私の領地だけがこんなにも不作なのだ!きっと王が意図的に加護を偏らせているに違いない。」
「隠された【神】の正体は男だという。なぜ我らに拝謁させんのだ!」
不信感という名の巨大な怪物が、今まさに帝国を内外から飲み込もうとしていた。
闇の中で、悪意は独りごちる。
『さあ、奪い合え、憎み合え。【神】という名の果実を巡って、互いの喉笛を食い破るがいい……』
悪意は仕上げに、決定的な偽りの証拠を、夜の帳に解き放った。
血のような満月の夜。帝国の城の敷地内に鎮座する大聖堂の方角から、天を衝くような眩い黄金の光が立ち昇ったのだ!
それを見た諸国の王たちは『あれこそが神の力だ!』と恐怖に震え、帝国の貴族たちは「やはり独占していたか…」と怒りに震えた。彼らは等しく、一つの確信を抱く。
【噂は真実だった。ロイエンタールめ、『神』を捕らえ、我らをも欺き、ただ独りで世界の覇権を握るつもりか!】
……ざわ………ざわ………
膨れ上がる不満と悪意。
外からは諸国の憤怒が、内からは貴族たちの造反の足音が聞こえる。
ローゼンブルグ帝国国王、ロイエンタールの玉座は、音を立てて軋み始めていた。




