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第47話:第一聖女との対話

トヨはオトに差し出された温かいお茶を一口啜ると、ふう、と深い溜息をついた。その眼差しは、慈愛に満ちた聖女のものでありながら、どこか遠い時代を見つめているかのようでもあった。


「オトちゃん、まずはちゃんとお礼を言わせてくださいね。私たちの命を救ってくれて、本当にありがとう。」


トヨはそっとオトの手を取り、感謝を込めて微笑んだ。彼女トヨは第一聖女として、今から100年も前にこの地に召喚された存在。


「私がここに来たときはね、もちろん右も左も分からなくて……今までただ女神様の自動人形オートマタのように、命じられるままに祈りを捧げるだけの日々だったの。あとは次々と召喚されてくる聖女たちのお世話をして。でもね……記憶が戻ったら思い出したの。まだ3歳になったばかりの娘を置いてきてしまったことを。」


トヨの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。


「あの子を自分の手で育ててあげられなかった。その悲しみだけが、どうしても消えなくて……

だから今度こそ、この世界に新しく生まれた女神アイを、愛情たっぷりに優しい子として育ててあげたいの。それが、母親としての私の、最後の大仕事だと思っているわ。」


トヨはそう語ると、今度は真っ直ぐにオトの瞳を見つめた。その言葉には、聖女としての義務ではなく、一人の先達としての深い思いやりがこもっていた。


「オトちゃん。あなたは十分すぎるほど頑張ったわ。でも、あなたはもう自由なのよ。あなたが望むなら元の世界にすぐ帰ってもいいの。自分の人生を自分のためだけに歩んでいいのよ。」


「……帰っても、いい?」


オトの手が、かすかに震えた。


「あなたが最後に召喚された聖女なのだから、あちらの世界では、あなたが消えた瞬間からそんなに長い時間は経っていないはず。だから、何も心配しないで。」


トヨは、温かいお茶のカップを両手で包み込みながら、どこか遠い空を見つめるように独りごちた。


「オトちゃん。あなたは帰れるけれど……私は、もう戻れないのよ。」


その声は、悲しみというよりは、長い歳月を受け入れた静かな諦念に満ちていた。


「100年が過ぎたというのはあまりにも長すぎたわ。今の私にとっては、日本のほうがずっと遠い『異世界』になってしまった。あちらに帰っても、私の居場所はもうどこにも残っていないんですもの。」


トヨは寂しげに、けれど優しく微笑んだ。


「だからこそ、私はこの世界で、あの子……女神アイを育てながら生きていく道を選んだのよ。どこか懐かしいこの場所が、今の私の故郷なのね。」


彼女は一つ呼吸を置くと、少し潤んだ瞳でオトを見つめ直した。


「だから……せめて食事だけでも。お母さんが作ってくれたような具沢山のお味噌汁をお願いしてもいいかしら? 牛蒡ごぼうやそれに大根、人参。根菜がこれでもかっていうくらいゴロゴロ入った、あの不格好で温かい一杯。」


記憶の糸をたぐるように、彼女は言葉を重ねる。


「オトちゃんの作る料理には、不思議な力があるわ。お願い、私をもう一度あの頃のお台所に帰らせて?」


オトは、トヨの震える声に胸が熱くなるのを感じた。聖女たちを支えてくれた大聖女が欲したのが、贅沢な御馳走ではなく、家庭のありふれた一杯だったことに。


「……はい、喜んで! 私、最高に具沢山なやつを作りますね!お出汁もしっかり取って、お味噌も一番いいやつを選びますから。トヨ様、一緒に作りませんか?」


オトが袖をまくって立ち上がると、トヨは子供のように瞳を輝かせた。


「ありがとう、オトちゃん。嬉しいわ。」




厨房に漂う穏やかな出汁の香りと、窓から差し込む日差しの柔らかな光。オトと一緒にお味噌汁を作りながら、トヨはふっと目を細め語りだした。


「オトちゃん、ヴァイン様とクライド様の小さい頃ってね……輝く銀の糸のような髪の、それはもう本当に美しい双子だったのよ。並んで歩けば、誰もが双子の天使が舞い降りたと慈しんだものだわ。」


オトはふたりの姿を思い浮かべた。

一方は、返り血さえ厭わぬ鬼神のような無骨な騎士団長。

一方は、人を食ったような笑みで周囲を翻弄する小悪魔的な道楽者。


「天使、…ですか?ふたりともなんだか近寄りがたい迫力?がありますけど。」


トヨは「ふふっ」と優しく笑い、首を振った。


「ヴァイン様はね、本当は誰よりも優しくて聡明な方なの。あの無骨な振る舞いは自分を律するための鎧に過ぎないわ。

あの方の顔にある傷……あれは騎士団の仲間を庇ってついた名誉の傷なの。でも彼は『自分の不注意が招いた未熟さの証だ』と言って決して消そうとしない。あんなに不器用なほど真っ直ぐに自分を罰し続けて。損な生き方をしているわよね。」


オトは、時折見せるヴァインの、あの深い湖のような静かな瞳を思い出した。あの傷は、彼が背負う責任と誠実さの象徴だったのだと初めて知った。


「……じゃあ、クライド様は? いつもふわふわしてて楽しそうですけど。」


トヨの眼差しが、少しだけ遠く、悲しげな色を帯びた。


「クライド様は……まるで道化のように振る舞っているけれど、本当はとても繊細で、人一倍寂しがりやなの。ヴァイン様が騎士を目指して自分から離れてゆくことにあの方はとても苦しんでいたわ。自分と同じ姿だった兄が、自分の知らない騎士ものという形に変わっていくのが耐えられなかったのね。」


トヨは、少し声を潜めて続けた。


「レイという子を得てから、クライド様はやっと自信を持てたように見えるわ。でも…私は少し心配なの。自分の半身を失った穴を他者レイで埋め続けているように思えて。」


静寂が厨房を包む。


「……トヨ様。」


オトが声をかけると、トヨはハッとしたように表情を明るくし、いつもの温和な聖女の顔に戻った。

トヨは、少しだけ真剣な眼差しをオトに向けると、そっとその手を包み込んだ。


「ね、オトちゃん。ヴァイン様は本当にあなたのことを大切に思っているの。それは分かってあげてね?」


その言葉に、オトは思わず言葉に詰まってしまった。いつも厳格で、不器用なほど真っ直ぐなあの騎士団長が見せる、時折のわずかな揺らぎ。


「あの方が戦い続けているのは、この国を守るためだけじゃないわ。大切なあなたがいるこの場所を、何よりも守りたいからなのよ。彼にとって、あなたは戦場から戻ったときに唯一、剣を置ける安らぎそのものなの。」


トヨの温かな手のひらから、想いが伝わってくるようで、オトの胸は熱くなった。


「……はい。いつも助けられています。」


オトが小さく頷くと、トヨ様は安心したように微笑んだ。


「あとのことは、若いふたりに任せるわね。さあ、お味噌を溶きましょう。」


湯気の向こうで、トヨは本当に幸せそうに目を細めていた。それは、重い運命を背負った聖女ではなく、ただ一杯の温かい家庭の味を喜ぶ一人の女性の顔だった。


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