第44話:恋愛回路は未実装、お腹の虫は平常運転
『黄金色のスープ条約』が締結され、人間と魔族との間に休戦協定が結ばれてから数週間。
ローゼンブルグ帝国の王宮には、かつての凍てついたような静寂ではなく、どこか浮き足立ったような平穏が流れていた。
そんなある日のこと。ヴァインは、並々ならぬ決意を胸に大聖堂の厨房を訪れた。その手には、はるかな秘境でしか採取できないと言われる純白の結晶花―《永遠の愛》を象徴する伝説の花が握られていた。
「……オト。少し、時間をくれないか。」
ヴァインの声はいつもより低く、そして微かに震えていた。
オトは、豆を鞘から出していた手を止め、不思議そうに顔を上げた。
「団長? どうしました、そんなに真っ赤な顔をして。まさかまだ魔物の毒が残ってるとか?」
「…違う。そうじゃない。俺は、ずっと考えていたんだ。お前が元の世界の記憶を取り戻したあの夜から。お前が、いつか元の世界に戻れるあの『門』をくぐって消えてしまうのではないかと、今でも夜中に目が覚めるほど怖いんだ。」
ヴァインは一歩踏み出し、ゴツゴツとした、けれど温かい手でオトの小さな手を包み込み、跪くようにして彼女を見上げ、白い花を差し出した。
「オト。俺は…俺の残りの人生のすべてを懸けて、お前を支えたい。この世界が、お前にとってあちらの世界よりもずっと価値のある場所にしてみせる。だから、俺の側に、ずっといてくれないか。……俺の、《家族》として。」
それは、帝国最強、鉄壁の死神と呼ばれた男の、魂を削り出したような求婚。
沈黙が流れる。
ヴァインは、彼女が驚くか、あるいは頬を染めて頷いてくれるのを待っていた―しかし、オトの口から飛び出したのは、予想だにしない言葉で。
「……団長、本当はとても優しいんですね!」
オトはパッと顔を輝かせ、ヴァインの手にある白い花をまじまじと見つめた。
「『家族』だなんて……。そうよね、この数ヶ月、一緒にご飯を食べて、皆でアイを育てて。私、団長のこと、本当のお兄ちゃんみたいに頼もしいなって思ってたんです! 血は繋がってなくても、食卓を囲めばみんな家族。うん、今の言葉、すっごく嬉しいです!」
「…え?」
ヴァインの思考が停止した。
「あ、もしかしてそのお花、新しいお料理のスパイスになりますかね?この 永遠の白花って、確か煮込むと高貴な香りがするって、古文書に。団長、また珍しい食材を探してきてくれたんですね! ありがとう、最高のお兄ちゃん!」
「……いや、オト、そうじゃなくて……俺が言いたいのは、その……男女としての……」
「ああ、そうね! 魔族のマリオットさんも、性別や種族を超えて《家族》になれるって言ってたもの。さすが団長!さあ、そのお花、さっそく明日のサラダに添えてみましょうか?」
「………………」
ヴァインは、差し出した花を握りしめたまま、石像のように固まった。
厨房の扉の陰からその様子をこっそり覗き見していたクライドが、堪えきれずに壁を叩いて爆笑し始めた。
「くっ……ふ、ははははは! 見たかい、レイ。あの大騎士、ヴァイン王弟殿下の決死の特攻が、たった一言『お兄ちゃん♪』で粉砕されたよ! 彼女の恋愛回路は、女神のシステムのせいじゃなく、元々未実装らしいね!」
「……ヴァイン様、まことにおいたわしい。聖女オトのあの笑顔。あれに悪気がないのが一番の【毒】でございます。」
レイが憐れみの目を向ける中、厨房の隅で子ども用の椅子に座り、オト特製アイスクリームを堪能していたアイがぽてぽて駆け寄ってきて、跪いたままのヴァインの膝をぽんぽん叩いた。
「ばいん、げんきだちて? アイのあいしゅ、はんぶんこしてあげりゅから!」
「あら、団長? なんでそんなに遠い目をしてるんですか?? あ、もしかしてお腹空いてるんでしょう。」
屈託のない、春の陽光のような笑顔で首をかしげるオトに、ヴァインは、深く、深すぎる溜息をつくと、力なく笑った。
「……ああ。……腹が、減ったな。猛烈に。」
「ふふ、そうこなくっちゃ! じゃあ、簡単に醤油で香ばしい焼きおにぎりにしますね。家族なんですもの、遠慮しないで?」
「……ああ。……いただきます。」
騎士の切実な恋心は、聖女の圧倒的な『恋愛音痴』の前に、あえなく白旗を上げた。
オトの料理が結ぶ家族の絆は、ヴァインが望んだ形とは少しだけ(かつ絶望的に)ズレたまま、今日も温かい湯気を上げ続けるのだった。
〜第二章へ続く〜




