第42話:理(ことわり)は、ゴミ箱へ
漆黒の外套を翻し、絶望に膝をついたヴァインを見下ろす大魔族マリオットの唇からは、自然と愉悦の吐息が漏れた。
『くくく……良い顔だ、騎士よ。正義という名の鎧が内側から腐食していく音は、何度聞いても素晴らしい。貴公の高潔な魂が、異世界の乙女らを糧に生き永らえる民のために捧げられるという滑稽な悲劇。実に、見応えがありましたよ。』
マリオットは慇懃に一礼し、消えゆく霧のようにその場を去った。ヴァインが自らの王宮へと戻り、直面する真実の重みに耐えかねて壊れる様を、遠くから見物するつもりだったのだ。
―しかし。
数日後、マリオットの耳に届いたのは、王宮が崩壊したという報告でも、ヴァインが狂い死んだという報せでもなかった。それは、魔界の理さえも揺るがす、あまりに『馬鹿げた』報告であった。
マリオットは王宮にあるヴァインの私室へと姿を現した。闇に紛れる必要すらなかった。女神の絶対的な結界が消滅した今、この城はもはや魔族を拒むすべを失ったのと同然だったからだ。
突然現れたその姿に驚くヴァイン。しかし彼は何も言わず、マリオットにソファに掛けるよう促した。
「おやおや、騎士殿。貴方様は王弟殿下であらせられましたか。地獄の門番に挨拶し、絶望の淵で死んだかと思っていましたが……随分と、艶のいい顔をされているではありませんか。」
大仰に恭しくお辞儀をしてから腰を下ろし、マリオットは慇懃に、しかし隠しきれない好奇心を込めて問いかけた。
「魔界は大騒ぎですよ。1000年に一度の女神による《魂喰い》のシステムが突如として沈黙し、代わりにこの世界を不思議な温もりが包み込んでいる。一体、あの聖女たちの牢獄で何が起きたのです? 貴公らはあの生贄の祭壇を壊したのですか?」
ヴァインの瞳にはマリオットが植え付けたはずの絶望ではなく、穏やかで確信に満ちた光が宿っていた。
「……ああ、壊したよ。だが、俺が剣で斬り伏せたわけじゃない。」
ヴァインはにわかには信じがたい言葉を口にした。
「アイ……新しき女神がシステムを放棄したんだ。ひとりの少女として、『わがまま』を叫ぶことを選んだ。原因は、あの時お前が部品と呼んだ、聖女の一人だ。」
「……何と?」
「聖女オト。彼女は、俺が持ち帰った獣の毒を、自らの体を通して、料理に変えてアイに与え続けた。
その影響で、女神は彼女に餌付けされてしまったんだよ。
1000年の法を運用するよりも、オトが作るアイスクリームを食べ、彼女と笑い合うこと……システムには致命的な不純物である《愛》を、彼女は女神に注ぎ込んでしまったんだ。」
ヴァインの説明を聞き終えた瞬間、マリオットの喉の奥から、せき止めていたものが溢れ出した。
「……ふっ、……くふふ、は、ははははは!」
優雅に組んでいた脚を解き、マリオットは腹を抱えて爆笑した。慇懃な貴公子の仮面はどこへやら、声を震わせ、目尻に涙を浮かべて笑い続ける。
「……失礼。これは、あまりにも傑作だ! 我ら魔族がどれほど智略を尽くし、軍勢を差し向けても傷ひとつすらつけられなかったあの『女神』を……それをたかがアイスクリームで陥落させてしまったというのですか! 聖女を磨り潰して煮出した泥水の代わりに、甘味が世界を救ったと!?」
「いや、笑い事じゃない。俺は、世界が根底から崩れる音を聞いたんだ。」
「いいえ、これ以上の喜劇はありませんよ! そして、神様が『お友達が悲しいのは嫌だ』などという幼子のわがままで、世界の理をゴミ箱に放り投げた訳だ。 ………素晴らしい。実に人間らしく、愚かで、そして甘美な結末だ。」
マリオットは一頻り笑い終えると、ふっと真剣な、獲物を狙うような瞳でヴァインを見据えた。
「……ですが、その毒は我ら魔族にとっても致命的かもしれませんね。女神を毒し、死の淵から戻った王子や貴方のような堅物騎士を骨抜きにする。 そのオトという御方、魔王様よりもよほど恐ろしく、そして魅力的なようですね。」
マリオットは立ち上がり、再び窓枠へと足をかけた。巨大な漆黒の翼が夜風を孕んで大きく広がる。
「近いうちに、私もその【毒】を相伴に預かりに参りますよ。王弟殿下、貴方の新しい責務は、その最強の毒婦が飽きて元の世界へ帰らぬよう、全力を尽くしておもてなしすること。せいぜい、捨てられぬよう励むことですな。」
去りゆく魔族の、皮肉に満ちた高笑いが夜の静寂に溶けていく。ヴァインは空席になったソファを見つめ続けていた。




