第41話:愛(アイ)という名の致命的なバグ
剣気と殺意が火花を散らそうとしたその瞬間、謁見の間の重厚な扉が再び、圧倒的な神聖力とともに押し開かれた。
「おやめなさい! 愚かな真似を!」
凛烈な一喝。そこに現れたのは神殿の最高権威である神官長と第一聖女トヨだった。
「陛下、そして君たち。剣を収めなさい。今、この国は…いえ、この世界は未曾有の事態に直面しています。」
神官長のか細く響く震え声が、血気走るヴァインたちの足を止めさせた。
「事態だと? 兄様の欺瞞が暴かれたこと以上の事態などあるものか!」
興奮したヴァインが吠えるが、トヨは虚空を見つめたまま、静かに口を開いた。
「違います、ヴァイン様。アイ様の様子がおかしいのです。あの御方は、次代の世界の維持システムとしての機能を放棄し、一人の『聖女』の個人的な願いを優先しました。」
「……何だと?」
クライドが眉をひそめる。
トヨは彼を見つめながら言葉を続けた。
「アイ様は、本来ならばシステムを妨害する貴方を眠らせ続けるはずだった……けれど、あの方は叫んだのです。
『お友達が悲しむのは嫌だ』と。
その一言で、1000年守り抜かれた因果の結界が粉々に砕け散りました。世界を統べる意志が、理よりも感情を選んだ。……これは羽化ではなく、システムの暴走です。」
「トヨ。なぜだ……。なぜ急にそんな……」
ロイエンタールが弱々しく呟く。
「……原因は、聖女オトとヴァイン様にあります。」
深いため息ののち、神官長が語り始めた。
「ヴァイン様、貴方が気まぐれに持ち帰り、彼女に調理させ食べさせていた魔獣や外の世界の肉。彼女はそれを無自覚にその身に取り込み、それが彼女を女神のシステムからじわじわ逸脱するように仕向けていた。その彼女から与えられる食事・接触を通じて、微量の【毒】がアイ様に流れ込み続けていたのだ。」
神官長は苦々しく顔を歪め、言葉を継いだ。
「その毒による影響で、アイ様が『感情』を知ってしまった。情愛を知った神に、もはや冷酷なシステムを運用することなど不可能。アイ様は、愛するオトを悲しませないために、自らこの世界の歯車を破壊したのです。」
静まり返る謁見の間で、クライドがふっと自嘲気味に笑った。
「……愛、か。システムにとっては致命的なバグでも、僕たちにとってはこれ以上ない福音だ。大神官、あんたが嘆く『終わり』は、僕たちにとっては『始まり』なんだよ。」
ヴァインが大剣を床に突き立て、兄であるロイエンタールを真っ直ぐに見据えた。
「兄様。犠牲の上に成り立つ平和を維持する管理者は、もういらない。アイがシステムを捨て、ひとりの感情を持つ者として歩み出したのなら、俺たちがその助けになればいいだけだ。」
「……育てるというのか?人間が、女神を…」
呆然と呟くロイエンタールの問いに、ヴァインは力強く頷いた。
「そうです。これからは、俺たち皆がアイを育てる。オトが教えてくれたように、美味しいものを食べ、笑い、痛みを分かち合う……そんな当たり前の日々を理解させる。そして、魔族とも、新しい共存の道を探す。それが、この世界の神を【毒】で汚した俺たちの責任だ。」
1000年続いた残酷な楽園は終わった。
厨房で待つオトの元へ、愛を知ってしまった小さな神様のことを伝えるために、3人は確かな足取りで歩き出した。




