第37話:その無垢は、理(ことわり)を塗り替える
ゆらゆらと揺れる湯気の向こうに、昼間の小部屋の光景が何度も浮かんでは消える。
レイの、あの凍りつくように冷たかった指先。いつもは皮肉めいた微笑を絶やさないクライドが、魂を抜かれた器のようになってしまったという信じられない話。
あの皮肉屋で、人を食ったような態度ばかりのクライドが眠ったままなんて。
正直、苦手な人ではある。けれど、あんなに鮮やかに世界を斜めから見て、退屈そうに、でも誰よりも鋭く生きていた人が、暗い闇の底に取り残されているなんて。
そう思うだけで、胸の奥がギュッと締め付けられる。
「おと、おはだ、まっかだよ〜?」
不意に背後から、鈴を転がすような愛らしい声が響いた。振り返ると、いつの間にかアイが側にきてちょこんと立ち首をかしげている。
「あ…アイちゃん。びっくりした。……ごめんね、ちょっと考え事をしてたの。」
あ…入浴中にぼんやりしていたわ。
私が無理に作った笑顔を、アイはきょとんと不思議そうに見上げてくる。そしてふわりと吸い寄せられるように近寄ってくると、アイの前に座り込んだ私の少し火照った頬に、彼女の小さな、少し冷たい指先を添えて問いかけてくる。その澄み切った瞳。
「……なにか、やーなの?」
「うん…お友達がね、眠ったまま起きないの。」
「…………それ、おと、やーなの?」
「……うん。……やだよ。誰かが悲しい顔をするのは、嫌だもん。眠ったままなんて……そんなの、絶対に嫌だ。」
私が俯いて、絞り出すように答えた、その瞬間だった。
浴室の空気が、ピシリと凍りついた。
窓から差し込んでいた月光が、アイの小さな体を中心に、渦を巻くように集まっていく。
『おとの、やーなこと……』
アイが呟く。その声は低く、まるですべてを飲み込む深淵から響いてくるようだった。
アイの瞳が、カッと大きく見開かれる。
『なくなれーーーーーー!!』
アイの絶叫が、狭い浴室を震わせた。
それは祈りというにはあまりに傲慢で、命令というにはあまりに純粋。世界そのものを書き換える『神』の意志だった。私の目の前で、アイの背後に巨大で異質な影の輪郭が揺らめく。
まるで衝撃波に打たれたように湯気が一瞬でかき消され、しんと静まり返った聖女たちの浴室でアイだけが満足そうににこにこしていた。
「おと………もう、やーなこと、ないよ?」
―その頃、クライドの寝所では
「……が、はっ!!」
死んだように横たわっていたクライドの体が、まるで電流を流されたかのように、ビクッと大きく跳ね上がった。
「クライド様!?」
傍らで絶望に暮れていたレイが、その凄まじい衝撃に弾き飛ばされる。
強制的に魂を引き戻される、耐え難いほどの拒絶反応。クライドの全身から滝のような汗が噴き出した。
「……は、……ぁ……っ、く……」
理を無視し、深淵の底から無理やり引きずり戻された男は、自分の胸を掻きむしりながら激しく咳き込む。
「ごほっ…!…レイ……
……今、……誰かが、ごほっ、僕の襟首を掴んで、……放り投げなかったかい……?」
まだ震える唇で、いつものような軽口を叩こうとして。
自分を呼び戻した、あの無邪気で、悍ましいほど純粋な《声》の余韻を、その魂に刻み込まれたままに。




