第35話:おやすみ、勇敢な王子様
祖父から世界の残酷な真実を聞かされたクライドの胸を支配していたのは、正義感でも、国への忠誠心でもなかった。
ただ一点。自分を『唯一の主』と呼び、女神の理から打ち捨てられたレイを、この世界の終焉から救い出すこと。それだけが、彼を突き動かす唯一の衝動となっていた。
祖父の隠居所を訪ねたその翌日、クライドは聖域のさらに深部へと足を踏み入れていた。
いつも傍らにいるはずのレイの姿はない。彼はあえて、その忠実な影を撒いて独りで出向いたのだ。
―レイ。お前をこの世界の【部品】になどさせない。女神が魂を喰らうというのなら、別の代価を差し出してでも、お前という存在をこの世界に繋ぎ止めてみせる。―
その決意を胸に彼が向かった先は、大聖堂の最上階にある、第一聖女トヨの執務室だった。
「やあ、トヨ様。相変わらずここは空気まで規律正しいね。少しばかり息が詰まりそうだよ。」
クライドはいつもの柔和な笑みを浮かべ、挨拶もなしに部屋に入った。
トヨは机から顔を上げ、彼を真っ直ぐに見据えた。その瞳には聖女としての厳格さとともに、豊かな情愛が溢れている。クライドは幼い頃、彼女によく懐いていた。
まだ揺り籠の中にいた頃から彼を知っている。その細い腕に抱いたこともある、幼い日の面影も。
「クライド様。貴方がここへ足を運ぶのは何年ぶりかしら。お元気そうで何よりですわ。突然どうなさいましたの?」
トヨが優しく微笑む。しかし、クライドが次に発した言葉がその笑みを瞬時に凍りつかせた。
「もちろん元気だよ。ところでトヨ様、単刀直入に言うけれど、僕は女神様にお会いしたいんだよ。この世界の《仕様》について、少しばかり直接お話ししたくてね。」
トヨの眉が険しく跳ね上がった。
「……何を、言っているのですか? 女神様はそんな好奇心で触れて良い御方ではありません。クライド様、その不遜なお考え、今すぐ捨ててください!」
「おや、不遜かな? 僕はただ、この箱庭を動かしている歯車の形を知りたいだけだよ。贄が必要なら他に代わりがあるんじゃないかと思ってね。…例えば、僕のこの魂とかさ。」
クライドの言葉に、トヨは強い拒絶を示すように立ち上がった。
「聞き入れられません! 貴方の好奇心は、この聖域の静謐を乱す猛毒です。早く立ち去りなさい。二度と、そのような妄言を口にしないこと。さあ、早く!」
追い立てるように告げるトヨの声には、怒りよりも恐怖に近い焦燥が混じっていた。
その時だった。
「……おにぃちゃ?」
窓も扉も閉ざされた密室に、幼い、けれどどこかこの世のものとは思えないほど澄んだ声が響いた。
トヨの背後の、影が濃く落ちる場所から幼子が姿を現した。
彼女はとても愛らしく、花が綻ぶような無垢な笑みを浮かべてトヨの横を通り過ぎる。そのまま、弾むような足取りでクライドに近づいていった。
「……? 誰だい、その子は。まさかトヨ様、隠し子でもいたのかい?」
クライドは目を細め、いぶかしげにその愛らしい幼子を見つめた。しかし、彼女が彼を見上げて小首をかしげた瞬間、その好奇心は冷たい戦慄へと変わる。その瞳はキラキラと輝き、まるで大好きなおもちゃを見つけたように、甘やかに語りかけた。
「おにぃちゃ。ねんね、ねんねよ。」
「……っ、な……!?」
不敵に笑っていたクライドの膝が、がくりと折れた。抗いがたい睡魔。それは心地よい安らぎなどではない。存在そのものを虚無の底へと引きずり込み意識を強制的に塗り潰す、どろりとした闇の抱擁だ。
幼子はさらに一歩近づき、崩れ落ちたクライドの頬にそっと手を添えた。その掌は驚くほど柔らかく、温かい。
彼女は慈しむように、とろけるような笑顔で繰り返した。
「おにぃちゃ、ねんね。……ずっと、ねんね。」
「……は、は……誰、なんだ……君、は……」
意識が途切れる寸前、クライドの脳裏を祖父の言葉がよぎった。
『いよいよ、女神の種が、彼女たちの生命を啜り上げ、新たな神として羽化する刻が来たのだよ』
(まさか……この子が……『種』……!)
幼女の背後に立ち昇る、巨大で異質な《何か》の輪郭。クライドの中で、その無邪気な声が、遠く、まるで暗い海の底にいるように響き続けていた。




