第31話:屠殺場の騎士、傍観する美食家
黒い霧が渦巻く中、膝を突き大剣を支えに辛うじて身体を保っているヴァイン。その胸中にはマリオットが投げつけた『真実』という名の毒が、魔族の瘴気よりも深く、速く回っていた。
「……嘘だ。そんなことが……あってたまるか……」
自分が守ってきた国が、実は少女たちの生命を削る砥石だった。自分が信じてきた兄が、その凄惨な屠殺場の管理者だった。
「……ならば、俺はどうすればいい! この剣を国に向ければいいのか? それとも、何も知らぬ振りをして聖女たちが摩耗し尽くすのを黙って見ていろと言うのか!」
血を吐くようなヴァインの問い。正義に殉じてきた騎士にとって、その『正義』の根底が腐っていた事実は、死よりも残酷な拷問だった。
対するマリオットは、ヴァインの絶望に同情するでもなく、ただ退屈そうにふんわりと欠伸を漏らした。
「……くあぁ。どうすればいい、か。そんなこと、私に聞かれても困るな、騎士よ。」
マリオットは漆黒の外套を払い、近くの瓦礫にどっかと腰を下ろした。大魔族としての威厳はどこへやら、その態度はあまりに投げやりで、世俗的ですらあった。
「……いいか。我ら魔族や魔物がこうして暴れているのは、単に『腹が減っているから』だ。女神のシステムがガタついて目詰まりを起こし、本来あちら側へ流れるはずの魔力が、地上に贅沢に漏れ出している。我々はただ、その溢れた余り滓を効率よく拾い集めるために、貴公らを蹴散らしているに過ぎん。」
「……世界を、滅ぼそうとしているのではないのか……?」
「滅ぼす? 冗談はやめてくれ。そんな面倒なこと、誰がやるものか。世界を一つ滅ぼすのにどれほどの労力と計画が必要だと思っている? 疲れるだけだ。我々はただ、この『収穫期』に飢えを満たし、その後心地よく微睡める場所があれば、それでいいのだよ。」
マリオットは冷徹な紅い瞳でヴァインを見据え、ひらひらと手を振った。
「貴公らの道徳だの、正義だの、生贄の是非だの……そんな高尚な悩みは、勝手に人間同士でやってくれ。
我々が求めているのは、この女神不在の空白期間にこぼれ落ちる魔力と、女神の保護が外れかけた貴公ら人間が垂れ流す瑞々しい恐怖という名の蜜だ。それを一口でも多く啜りたいだけなのだよ。
おっと、あまり絶望してくれるなよ? 味が濃くなりすぎて、胸焼けしてしまいそうだからな。」
「……食事、だと…」
ヴァインは、自分たちの世界が魔族にとっては単なる《食事処》であり、自分たちの悲劇が彼らの《甘味》に過ぎないという事実にさらなる戦慄を覚えた。
「……俺は、認めない。そんな、誰かが喰らわれることでしか成り立たない平和など……!」
「ほう。ならば、どうする? 聖女を救えば世界が滅び、世界を救えば聖女が死ぬ。おまけに、腹を空かせた我々が後ろで口を開けて待っている……実に滑稽で美しい地獄じゃないか?もっとも、貴公がその剣で女神の『種』とやらを叩き斬って、この歪な食卓をぶち壊してくれるというのなら、見物料くらいは払ってもいいがね。」
マリオットは立ち上がり、霧の彼方へと歩き出した。
「戻って、王に会うがいい。その抜けない剣を抱えてな、死に損なった騎士よ。貴公が選ぶのが《美しい嘘》か、《醜い真実》か。……楽しみにしておこう。」
残されたヴァインは、折れそうな心を必死に繋ぎ止め、重い足取りで王都へと向かうことにした。その背中には、最前線で見た地獄と、兄の悲しげな瞳が重くのしかかっていた。




