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第27話:胸の疼きか、胃の叫びか

ヴァイン視点です。

最前線の夜は、刺すような冷気と、どこか遠くで響く魔獣の遠吠えに支配されていた。

パチパチと小さく焚き火の爆ぜる音を聞きながら、俺はひとり、岩に背を預けて寝ずの番をしていた。


魔獣はたいして強くはない。だが数が異常に多い。その連戦による疲労と、魔獣が発する瘴気に当てられた重い身体。兜を脱ぎ冷たい夜風にさらした顔の傷跡がチリリと痛む。

ふと、懐の物に手が触れた。それは大切に仕舞い込んでいた手拭い。大聖堂の厨房で出会った『風変わりな聖女』から、手を拭くために渡されたものだった。



…あれは、遠征から戻ったばかりの、ひどく腹の減った夜だった。


遠征の3日間の終盤にはほとんど干し肉しか口にできておらず、空腹で胃壁が自らを削り取るような激痛に苛まれていた。

警備夜勤の中、たまらず食い物を探しに行った深夜の厨房。

扉を開けた先にいたのは、小さな背中を向け、何やら背徳的な香りを漂わせている小柄な少女だった。


「……貴様。それが、今の怪しい音の正体か?」


威圧するつもりはなかった。だが、空腹で殺気立っていた自分の声は、地を這うような響きになっていたのだろう。

その少女は、まるで死神にでも出会ったかのようにガタガタと震え、今にもレンゲを落としそうになっていた。


だが、極限状態だった俺の胃袋は、主の威厳などお構いなしに咆哮を上げた。


「ぐうううううううう!」


………情けない話だ。

鉄壁の死神と呼ばれた男が、ただの空腹でその場にがくりと膝をついたのだから。


「くそ。胃が限界だ……」


朦朧とする意識の中、目の前に差し出されたのは、つやつやと輝く『ネギチャーハン』とやらだった。


聖女の食事など、どうせ精進料理のような薬草臭いものだろうと高を括っていた俺に、彼女は言い放った。


「いえ、これは、油ギトギトで身体に悪いチャーハンです。」


その潔い一言に、俺はひったくるようにレンゲを奪い、口に放り込んだ。


その瞬間の衝撃を、今でも忘れない。

一粒一粒に絡みつく脂のコク、焦がし醤油の香ばしさ、そしてネギの鮮烈な旨味。それはまさに、飢えた身体が求めていたものだった。無我夢中で貪り、気づけば皿は磨き上げたように空になっていた。


満たされた胃袋と共に、あんなに刺々しかった心が、驚くほど軽くなっていた。


「……貴様、名は?」


「あ、オトと申します。54番目の聖女です。」


オト。

54番目の…聖女???


こんな罪深い料理を深夜に作るやつが?


満足感から思わず彼女の頭をぐりぐりと撫で回し、「明日は肉の多いやつを頼む」と、るんるんした足取りで立ち去った自分。あの時の彼女の、呆然とした顔が今でも鮮明に思い出せる。


……オト。


目を閉じれば、驚くほど鮮明に彼女の姿が浮かぶ。

深夜の厨房、怯えてリスのように肩を震わせていた、ちっぽけな聖女。

どこか楽しげに受け入れてくれた、あの屈託のない笑み。


王宮での暮らしを捨て騎士団員となり、いつしか『鉄壁の死神』と恐れられ、血と泥にまみれた戦場でしか己の価値を見出せなかった俺にとって、彼女の毒気のない笑顔はあまりに眩しすぎた。

あんな風に、俺を見て笑う奴は他にいなかった。

俺が王弟と知っても、それは変わらなかった。


そう思った瞬間、心臓が内側からギュッと掴まれたような鋭い痛みが走った。それは、どんな魔獣の爪よりも深く俺の胸を抉る思い。

ただ一人の『腹ペコな男』として自分を見てくれた彼女。その存在が、今はどうしようもなく愛おしく、そして遠い。


切なさに胸を締め付けられていた、その時。


「…………ぐぅ、るるるるる」


静寂を切り裂くように、鎧の奥から情けない音が響き渡った。

感傷に浸っていたはずの脳が、瞬時にあの暴力的な美味の数々を再現し始めてしまったのだ。


「……くっ。こんな時にまで、あいつの飯を思い出すとは…」


顔をしかめ、胃のあたりを強く押さえた。

最前線の支給品も底をつきかけ、いまあるのは石のように硬く味気ない干し肉やパン。それしか食べていない身体は、今や彼女の作る『ギルティな飯』を求めて悲鳴を上げていた。


胸が締め付けられるほど彼女が恋しいのか、

それとも、あの中毒性のある夜食が恋しいのか。


……いや、その両方なのだ。


彼女オトの作る飯が食べたい。


そして、それを食って満足げに笑う俺を見て、またあいつに呆れ顔で笑ってほしい。たまにはちゃんと野菜も食べなさい!とハッポウサイとやらを差し出すむくれ顔も恋しい。


「……肉の多いやつだと言っただろうが。」


俺は独りごち、空腹と恋情が入り混じった、やり場のない溜息を夜の闇に吐き出した。


冷え切った戦場で俺の内側では、オトという少女が灯した小さな火が、胃袋を焦がし、胸を熱く焦がし続けていた。


オトは25歳です。

幼く見えても25歳です。

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