第26話:王弟の愉悦―道楽者の晩餐
扉が閉まった後の静まり返った廊下で、クライドは機嫌よさそうに鼻歌を口ずさんでいた。その背中に、一歩後ろを歩くレイの静かな声が突き刺さる。
「……悪趣味ですよ、クライド様。彼女にあのような揺さぶりをかける必要がどこにあるのです。」
クライドは立ち止まり、月明かりが差し込む窓辺でゆっくりと振り返った。その顔には先ほどまでの道楽者の仮面はもうない。代わりに浮かんでいたのは、深淵を覗き込むような昏い悦楽を湛えた笑みだった。
「おや、レイ。君にしては珍しく感情的な物言いだね。あの聖女様が、そんなに可哀想になったかい?」
「私は、貴方が世界の根幹を不用意に刺激することで、この聖域の均衡が崩れることを懸念しているのです。彼女が【機能不全】を起こせば、この世界にどう影響するかはまだ分からないのですから。」
レイの言葉は、氷の楔のように重く鋭い。だが、クライドはその言葉を、心地よい音楽でも聴くかのように肩をすくめて受け流した。
「いいじゃないか、それで。退屈な予定調和ほど、僕の胃を逆なでするものはない。女神様が作った完璧な歯車が、兄上の持ち込む魔物の下卑た肉や、僕が投げかけるほんの数滴の言葉で軋み始める。…見事なバグじゃないか。」
クライドは懐から琥珀のペンダントを取り出し指先で弄んだ。その目は、どこか遠く、この世界の果てにある真理を見つめているようだった。
「これは、世界を賭けたゲームだよ、レイ。彼女が聖女という殻を破って《人間》になった時、この箱庭がどう壊れるのか…あるいは、新しい理が生まれるのか。」
不敵に、そして狂おしいほど純粋な好奇心を剥き出しにして、クライドは笑う。
「僕はその瞬間を、特等席で見物したいだけさ。さあ、戻ろう。ああ…レイ。彼女の次回の晩餐が、今から楽しみで仕方ないよ。」
レイは何も答えず、ただ暗闇に溶けていく主君の背中を、諦念の瞳で見つめ続けていた。




