第25話:王弟の愉悦―観測者と銀の守護者
ヴァインが魔獣の討伐に発ってから数日が過ぎ、深夜の厨房には本来の刺すような静寂が戻っていた。
夜食を作るつもりで来たけれど、なぜかあまり食欲が湧かないし、作る張り合いも感じない。
その時、暗い廊下から足音が聞こえてきた。
ヴァインのそれよりもずっと軽やかで、どこか楽しげなリズムを刻んでいる。
「おや、深夜営業はまだ続いているのかな? 兄上がいなくて、とーっても寂しいだろうと思って、遊びに来たよ〜。」
扉が開いたそこには、ヴァインと似た顔を持ちながら、人懐っこい笑みを浮かべた男―ヴァインの双子の弟・クライドが立っていた。
その姿は騎士団長である兄の厳格さとは対極にある。上質な生地で仕立てられた外套を無造作に羽織り、首元には琥珀のペンダントが不必要に揺れている。その無駄に洗練された動きからは、退屈を何よりも嫌う道楽者特有の、優雅で、どこか刹那的な空気が纏わりついていた。
……相変わらず、何を考えていらっしゃるのかしら。この方は。
私は内心で小さく溜息をつき、呆れ混じりの視線を向けた。聖域の厳格な規律をふわりとかわし、深夜の厨房にふらりと現れる。その掴みどころのなさは、以前に牛丼をお出しした時から少しも変わっていない。
その後ろには、クライドと同じ銀髪の男性が影のように控えていた。整った顔立ちの、その黒い瞳に宿る深い静寂と纏う空気の重さは、彼と違い明らかに分別のついた大人のものだ。
「クライド様!また、こんなお時間にどうされたのですか? そちらの方は?」
「僕の有能な守護者、レイだよ。ねえオト、僕はお腹が空いちゃってね。以前に食べさせてくれたあのギュウドン、あれは衝撃的だったな。兄上ばかりあんなに美味しい思いをしているなんて、不公平だと思わないかい?」
クライドは屈託のない笑顔で、ひょいと厨房の椅子に腰を下ろした。そこは、数日前までヴァインが座っていた場所だ。
レイと呼ばれた人は何も言わず、ただ冷静な視線で私を射抜いている。初対面の私に対して、なぜか警戒というよりは観察するような鋭い眼差し。
「今日はあいにくあの時のような牛肉は切らしておりまして。チキンのシチューならすぐにご用意できますが。」
「おっ、いいね。シチュー、大好きだよ。ねえレイ、君も座りなよ。」
「…いえ、私はここで。」
レイは短く答え、壁際に佇んだ。
私は奇妙な落ちつかなさを抑え、鍋を火にかけた。今日使用するのは鶏肉、ジャガイモ、人参。聖域の農園で育てられた清廉な食材たち。それを白いクリームで煮込んでいく。
「どうぞ。代わり映えのしない、チキンのシチューです。」
差し出されたそれを、クライドは楽しそうにスプーンですくい、一口、ゆっくりと口に運んだ。
「……ふぅん。美味しいね。でも、面白いな。」
クライドが蕩けるような笑みを浮かべた。直後、その瞳が、子供のような純粋で残酷な好奇心に細められる。
「味は確かに、聖域の退屈な規律そのものだ。けれど、この滋味の奥底に、わずかに【重み】が混じっている。
…ねえ、オト。君は今、何を感じている? 兄上がいなくなって、この空っぽの厨房で、君の心にはどんな【変化】が生じたのかな?」
…一体何を言いたいのだろう、この人は。
団長と違い、会話が全く成立する気がしない。
どこまでも楽しげに、けれど自分勝手に私の内側を探るような物言いに、呆れてものも言えない。
この方の面白がる基準は、常人のそれとは明らかにかけ離れている。
「…別に何も。私はただ静かな夜を、穏やかに過ごせればと思っております。」
「くくっ、素晴らしい模範解答だ。だが、レイ。見てごらん、彼女の目。兄上の持ち込んだ《外の世界の毒》に中てられ、彼女の中の人間が目覚め始めている。その熱が、この白いシチューの味を狂わせているんだよ。」
レイが静かに口を開いた。
「……聖女オト。これ以上、クライド様の好奇心を刺激しないでください。この方は、世界の綻びを見つけるためなら、対象が壊れるまで弄り回すことを厭わないのです。」
こちらも言っている意味がまるで分からないけれども、どうやら気を遣ってくれているのだろうというのは分かる。
「おっと、レイに怒られちゃった。ごちそうさま。兄上がいない間、退屈させないようにまた来るよ。君がいつ、その【熱】に耐えきれなくなって焼き切れてしまうのか……
僕は、それが知りたくて堪らないんだ。」
クライドは軽やかに立ち上がり、不敵な笑みを浮かべたまま扉の外と消えていった。レイもまた、最後にもう一度私を深く見据えた後、音もなくその後に続いた。
一人残された私は、空になった皿を見つめる。
洗剤の泡にまみれた私の指先は、今夜だけはどうしても、いつもの冷たさを取り戻してはくれなかった。




