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第23話:遠征の報、名もなき違和感

深夜の厨房。

ギルグリスタと呼ばれるらしい、牛の野性味を強めたような生き物の肉を香ばしい醤油風味の和風仕立てにしたステーキの3枚目を咀嚼していたヴァインの手が、一瞬だけ止まった。


「遠征、ですか?」


「…ああ。隣国との国境付近で、大規模な魔獣の活性化が確認された。騎士団長として、俺が直接指揮を執る必要がある。明朝には発つことになる。」


ヴァインの声は、いつになく重い。

それはただの公務に対する義務感だけではない。この、神聖で不純な夜食の時間が途切れることへの隠しきれない未練が色濃く混じっている。


「なるほど。じゃあ、しばらくは私の深夜営業もお休みですね。」


先に食べ終わった私は、手際よくフライパンを拭きながら努めて明るい声を出した。


「……貴様、少しは引き止めようと思わんのか。俺が行けば、当分、新鮮な獲物は届かんのだぞ。」


「それは残念ですけど。でも、団長がいない間は私もゆっくり眠れますし。連夜のフル稼働から解放されると思えば、ちょっと清々するかも……な〜んて。」


私は冗談めかして笑った。実際、毎晩のように持ち込まれる規格外の食材を捌くのはある意味重労働だった。量が多すぎる時は、彼の部下の騎士団員への差し入れ用に調理し、それをヴァインに持ち帰らせることも。


これでようやく溜まっていた他の作業に集中できるし、睡眠不足も解消される。

うん、いいことずくめじゃない。こんな食いしん坊の相手、しばらくお休みで正解よ。

そう、自分に言い聞かせる。


けれど、フライパンの上の焦げた醤油の匂いが薄れていくのと同時に、胸の奥に、針の先で突かれたような小さな、本当に小さな『穴』が開いたような感覚があった。


「…………」


ヴァインは何も言わず、ただじっと私を見つめている。

そして大きく息を吐いた。


「……行ってくる。……死なぬ程度には、暴れてくるつもりだ。」


「はい。お怪我には気をつけて。帰ってきたら、また何か珍しいものでも狩ってきてくださいね。」


いつものように明るく彼を送り出すと、ヴァインは一瞬ちらりと振り返り、翻る外套と共に夜の闇へと消えていった。


静まり返った厨房。


ひとり残された私は、ふと、自分の胸元に手を当てた。


……あれ?


おかしい。


せいせいするはずなのに。一人で静かに過ごせる、理想的な夜が戻ってきたはずなのに。

なぜか、狭い厨房が、以前よりも少しだけ広く、そして冷たく感じる。

なんだろう、この感じ。……寂しい、のかな?


「サビシイ」という言葉が、脳裏を掠める。

けれど、その言葉は私の心に定着することなく、滑り落ちていく。《聖女は常に幸せである》という女神のシステムが、その感情を【不純物いらないもの】として即座に濾過ろかしてしまうからだ。


私は首を傾げた。

定義できない違和感。

その正体を探ろうとするが、霧のように形を失い、消えていく。


……まあ、いいわ。部屋に戻って寝よう。

明日からは、静かな夜なんだから。


けれど、闇に沈んだ部屋で私が最後に思い出したのは、次に作る料理のレシピではなく、扉越しに聞いたヴァインの、あの重い足音だった。

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