第19話:空腹は満たせても、心までは
今宵も、俺は吸い寄せられるように厨房へと足を運んでいた。
鎧の擦れる音が、静まり返った回廊に無機質に響く。今日は昨日の日中の討伐で確保したクレイジーブルを使った料理のはずだ。他人にはそうは見えないだろうが、オトが調理するその未知の味に内心ウキウキしながら向かっていた。
だが、厨房の扉を開けた瞬間、俺の心臓は別の意味で跳ね上がった。
「……貴様、そこで何をしている。」
そこにいたのはオトだけではない。彼女の傍らに佇む、その姿は……王宮一の皮肉屋であり、俺の弱みを誰よりも早く嗅ぎつける天敵。
「やあ、兄上。いや、騎士団長閣下。そんなに怖い顔をするな。」
クライドは、困惑するオトに、いつもの蜜がこぼれるような白々しい微笑を向けて、あろうことか自らの正体を明かし始めた。
「私は王弟のクライド。まあ、見ての通り、こちらのヴァインの双子の弟でもある。」
俺は絶句した。
オトがぎぎぎぃ…っと妙な音が聞こえそうな仕草でこちらを振り返る。その瞳には、今まで見たこともないような動揺が浮かんでいた。
「えっと、団長?…様……王弟って………?」
「今は騎士団長だ。その肩書きはここでは意味を成さん。」
精一杯の虚勢を張って視線を逸らしたが、自分の耳が熱くなるのが分かった。
夜な夜な厨房に夜食を請い、その聖女に餌付けされ、挙句の果てにそれを『この』弟に見られる。これ以上の失態があるだろうか。
だが、追い打ちは続いた。
「おい、今夜のメニューは?」と声を潜めて尋ねた俺に、彼女が告げた答え。
「団長…様が持ち込んだクレイジーブルの肉を煮込んだ、『牛丼』ですよ。」
俺は、思わず天を仰いだ。
よりによって、この最悪のタイミングで、これほどまでに暴力的な美味が用意されているとは!よりにもよって『この』弟の前で、俺が用意した魔獣の肉を丼飯でガツガツとかき込む姿を晒せというのか。
「ほう…兄上がそこまで天を仰ぐほどの料理か。ならば私にも、同じものを所望したい。」
俺の必死の制止も虚しく、オトは無慈悲にふたつの丼を俺たちの前に置いた。
「はい、お待たせしました。つゆだくの特盛りです。おふたりとも、冷めないうちにどうぞ。」
………結局、抗えなかった。
差し出されたギュウドンの、甘じょっぱい暴力的な香りに俺の理性は一瞬で瓦解した。同じくギュウドンに魅せられた弟と並んで、なりふり構わず米をかき込む。熱い肉を咀嚼するたび、溢れ出す旨味に思考が真っ白になる。
―だが、幸せな満腹感の後に訪れたのは、冷や水を浴びせられるような衝撃だった。
「君は、この無骨な兄上に、個人的な好意を抱いているのかい?」
「クライド!おい!何を!」
クライドの意地の悪い問いに、俺は思わず立ち上がった。
期待と恐れ。彼女が俺をどう思っているのか、初めて突きつけられる瞬間だった。
「好意、ですか?」
「いや、これほどの献身、男女としての情愛がなければ説明がつかない気がしてね。」
「……ジョウアイ?」
オトが首を傾げた。
その瞳を覗き込んだ瞬間、俺は自分の心臓が凍りつく音を聞いた。
そこには、照れも、否定も、温もりもなかった。彼女の瞳から急速に光が失われ、ただ何も書かれていない真っ白な紙のような、純粋な【無】が広がっていく。
瞬き一つせず、焦点の合わない瞳で虚空を見つめてフリーズするオト。その姿は、まるでゼンマイの切れた自動人形のようだった。
「……っ!」
隣で見ていたクライドが、椅子を引く音を立てて絶句した。
いつも余裕を崩さない弟の顔が、恐怖に引きつっている。俺もまた、胃の奥からせり上がる冷たい戦慄に震えていた。
彼女の中に『情愛』という概念を探そうとした瞬間、システムが強制的に彼女の思考を遮断したかのような、生物としての連続性が途絶えた不気味な空白。
数秒だったのか、数分だったのか。
やがて、パチリと一度だけ瞬きをすると、オトの瞳に元の柔らかな光が戻った。彼女は何事もなかったかのように微笑んで首をかしげる。
「……あれ? すみません、何のお話でしたっけ? あの、これお口に合わなかったでしょうか?」
その自然さが今は何よりも恐ろしかった。
…ああ、そうか。これが『聖女』というシステムの正体なのか。
俺は拳を固く握りしめた。
彼女が時折見せるあの柔らかな微笑みも、深夜にふたりきりで共有する温かな時間も。すべては、女神のシステムによって《特定の一人を特別に想う》という情動を根こそぎ封じられた空虚な器が見せる、ただの行動反射に過ぎなかったのか。
彼女にとっての俺は、愛すべき一人の男などではない。ただ、聖域に珍しい素材を持ち込み、調理という工程を発生させる《外部因子》のひとつ。
誰に対しても等しく、そして誰に対しても決定的に無関心であるからこそ成り立つ、残酷なまでに完璧な聖女としての振る舞い。
「……なるほど。兄上、前途多難どころの話ではありませんね、これは。」
クライドの、震えの残る同情を含んだ言葉が胸に深く刺さる。
俺は、何も理解していない無垢な瞳で見つめてくる彼女から逃げるように視線を逸らした。
「……オト。牛丼、美味かった。明日の夜も期待しているぞ。」
それが、俺に言える精一杯の抵抗だった。
彼女の心が、女神のシステムという鉄壁の檻に閉じ込められているのだとしたら。
俺が彼女の料理を乞い続ける限り、いつかその檻の隙間から、一滴でもいいから、俺への想いが零れ落ちる日は来るのだろうか。
深夜の厨房を後にする俺の背中に、彼女が後片付けをする皿の音が、どこまでも冷たく響いていた。




