第1話:聖女の使命より、今は国産牛の焼き加減が心配です
その場を埋め尽くしていたのは、圧倒的なまでの白だった。
床も、壁も、天井も無い。
距離感の掴めないその空間で私、塚口音は覚束ない意識を呼び起こす。最後に記憶にあるのは、ワンルームにほんのり漂う、夕食の肉じゃがの甘い残り香だ。
中堅食品メーカーに事務職で勤務している25歳一人暮らしの私の日常は、読書と音楽という穏やかな趣味で構成されていたが、唯一何があっても譲れない『聖域』があった。
それは、『お給料やりくりの範囲内でどこまで美味しくできるか。そんな毎日の弁当作りは、まさにクリエイティブの塊!』というもの。
明日は、奮発して買った神戸牛の切り落としを甘辛く焼いて。あ、お塩であっさりでもいいかな。
彩りはプチトマトの赤とパプリカの黄色、ブロッコリーの緑、それから……
深夜の静寂の中、副菜の配置をパズルのように頭の中で組み立てながら、私は次第に睡魔に襲われていった。
まな板の上で踊る彩り豊かな食材たちのイメージがふっと消え去り―
気づけば、着古したパジャマ姿で何故かこんな場所に立っていた。
「ようこそこんにちは〜、54番目の聖女さん♪」
鈴の音を転がしたような、透き通った声が降ってきた。
その声に弾かれたように顔を上げると、そこには現実離れした美貌の女性が、空中に浮かぶ三人掛けくらいの豪奢なソファにゆったりと身を委ねていた。
黄金に揺らめく長い髪に、すべてを見透かすような虹色の瞳。存在そのものが常識外であることを物語っている。
スタイル良くて羨ましいなんて感情も沸かないくらいのレベチである。
「……えーっと、これは夢かな?」
理由がわからず、私は呆然と呟いてみた。
意識の半分はまだ、明日のお弁当の神戸牛の焼き加減と味付けに支配されている。
「あなたはねぇ、この世界の危機を救うために召喚された聖女の54人目なのぉ。他の53人はもう、ぴっかぴかの聖属性魔法とか絶対的な癒しの力とかぁ、それはもう華々しい才能を引っ提げて旅立っちゃったんだけどねぇ。」
女神と名乗った女性は、品定めするように私を眺めながらのんびりと言葉を継いだ。
なるほど、これはラノベによくある異世界転生?
まさか自分の身に起きるとは……。
「特技はぁ……えっ、お弁当作り? 随分とこう……、家庭的なのねぇ。戦闘能力も魔力適性も笑っちゃうくらい見当たらないわぁ。」
はぁ、そうですか。じゃあなんで召喚した?
「あ、はい。一人暮らしですし、節約も兼ねて毎日お弁当作ってますけど。あの〜聖女とか言われても、私にはそんな大層なことは……」
私の困惑を遮るように、女神の黄金の瞳がふっと悪戯っぽく細められた。
「面白いわねぇ。魔力の才能はゼロだけど、食への執着―いえ、食材への敬意だけは凄まじいわぁ。その『お弁当箱という小宇宙』を完成させる情熱、嫌いじゃないわぁ。」
女神は身を乗り出し、私に向かってぴっ!と指を突きつけた。
「決めた。特別に、あなたにぴ〜ったりの力を授けてあ・げ・る♪『食材のポテンシャルを極限まで引き出し、食べる者の心身を調律する』生活魔法なんてどう? 地味だけど、使い方次第では何よりも恐ろしい力になるわよぉ」
「えっ、ちょっと待っ……!」
いや別に良くないし帰りたいんですけど、と言いかけるより早く、女神はパチンと指を鳴らした。
瞬間、身体が浮遊感に包まれる。うっ気持ち悪っ!
最後に耳に届いた女神の声は、この状況を心底楽しんでいるかのようだった。
「54番さん。意外とあなたが一番長生きするかもねぇ。ふふふ」
光の渦に飲み込まれながら、私は無意識に願った。
(もし本当に行くんだったら……せめて、あの奮発したお肉も一緒に連れていかせてよ!)
こうして、25歳の事務員・塚口音の、世界を(物理的にではなく胃袋的に)救う? 聖女生活が幕を開けた。




