第16話:厨房に響く禁断の旋律
厨房のテーブルには、ヴァインが意地で取り寄せた粒ぞろいの生たらこによく似た魚卵。
これに塩と酒で丁寧な下処理を施し、醤油、みりん、たっぷりの昆布、そして例の赤い香辛料を合わせた特製の漬け込み液を用意する。
本来なら、ここから冷蔵庫で数日間、じっくりと味が染みるのを待たなければならない。けれど、今日はサキちゃんの生誕日当日。待ち時間というロスは許されない。
「生活魔法、適用。《内部浸透》、《時間加速》。」
私がタッパーの中に手をかざすと、淡い光が魚卵を包み込んだ。
魔法の力が液体の分子を強制的に卵の皮の奥へと押し込み、数日分の熟成をわずか数秒に凝縮していく。みるみるうちに生白かった魚卵が、食欲をそそる深い紅色の明太子へと変貌した。
「よし、完璧。漬かり具合も最高ね。」
「…貴様、そんな便利すぎる魔法を料理に使っているのか。」
「いや、私はそもそも料理に関することにしか使えないような魔法しか与えられてないし。」
せっかくの非番の昼間だというのに、なぜか厨房で見学しているヴァインを横目に、私は一瞬で完成した明太子と、こちらも魔法で発酵させ室温に戻した最高級のバターとをねっとり合わせる。
その芳醇な香りと、魔法で引き出された旨味が混ざり合い、暴力的なまでに食欲をそそる『明太子フィリング』が完成した!
そして、外側を硬めに、中は気泡を含んでふんわりと焼き上げたフランスパンに深く贅沢な切り込みを入れ、明太子で紅色に変化したバターを隙間なく流し込む。パンの熱でバターがじゅわりと溶け出し、その脂がパンの底までじわじわと染み込んでいく。仕上げに数秒、再び窯へ。
バターの脂が弾ける、ジジッ、パチッという官能的な音と共に、厨房中に刺激的な香りが爆発した。
「サキちゃんリクエストの『明太子フランス』の完成です。見てください、この、底まで染みたバターのこの背徳感を…!」
その香ばしい誘惑に耐えかねたのか、いつからか背後で仁王立ちしていたヴァインがごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
「…なあ、オト。これは毒見が必要だ。」
「毒見、ですか?」
「そうだ。聞いたこともない海の異形と、南方の劇物が混ざり合っているのだぞ。聖女に供する前に、騎士団長である俺が安全を確認せねばならん。」
もちろん義務感などではなく、単なる食いしん坊の戯言である。
私は苦笑しながら、食べやすいよう切り分けておいた焼きたての中でも、一番端のバターがたっぷり染み込んでカリカリになった部分を差し出した。
「はいはい。では、調達係さん、毒見をお願いします。熱いので気をつけてくださいね。」
ヴァインは待ってましたと言わんばかりに、無骨な指でその一切れを掴んだ。
バリッ、と小気味いい音が厨房に響く。
噛み締めた瞬間、口の中で魔法の熟成を経た明太子の旨味と、溶け出した発酵バターのコクが弾け、後から唐辛子の刺激が追いかけてくる。
「……っ!!」
ヴァインは目を見開き、数秒間彫像のように固まった。
そして、熱さも忘れて力強く咀嚼し、飲み込んだ後に深く重厚な溜息を吐き出した。
「…これほどか。この、パンの硬さをねじ伏せるような脂の甘みと、舌を刺す紅の衝撃…。貴様、よくもこれほどの毒を開発したものだ。」
「最高の褒め言葉として受け取っておきます。サキちゃんもきっと喜んでくれますね。」
「ああ。だが、一切れでは判断できん、もう一切れだ。今度はこの、バターが一番溜まっている中心部を…」
「ダメですよ、それはサキちゃんの分です! 毒見はそこまで!」
差し伸べられた騎士団長の大きな手を、私はピシャリと叩いた。叩かれたことに文句を言う余裕もないほど、彼は名残惜しそうに鼻を鳴らし、明太子フィリングの真っ赤なソースのついた指を舐めている。
「…ふん。ならば、サキに届けた後、俺の分も3本、いや5本は焼け。」
「はいはい。分かりましたから。まずは主役を幸せにしてきますね。」
私は至上の多幸感を詰め込んだ銀のトレイを掲げ、サキの待つ個室へと向かった。
自分の指に残った香りを名残惜しそうに嗅いでいる騎士団長の姿に私は確信を得る。
この味なら、サキちゃんもきっと一生忘れられない生誕祭日になるはずよ。
大聖堂を包む夕暮れの光の中で、明太子フランスの香ばしいバターの匂いは、どこまでも幸せな余韻を引きずっていた。




