第1話 女神のうっかりミス
相良悠人、二十六歳。都内の中堅商社に勤める、これといって特徴のない会社員である。
仕事はいたって平凡だ。可もなく不可もなく、上司にひどく怒られない程度にこなす毎日。
取り立てて夢もなければ、大きな野心もない。
同期からは「悪目立ちしない安定感がある」と評され、それが褒め言葉なのか微妙なところだと、悠人自身も薄々気づいていた。
そんな悠人にも、ひとつだけ誰にも譲れない趣味があった。
「秘湯巡りと、ご当地グルメ探訪」である。
有給休暇は貯めるためではなく、使うためにある。
金曜の夜、仕事終わりに夜行バスへ飛び乗り、日曜の夜には始発列車で都内に戻ってくる。
そんな弾丸旅行を、この三年で数えきれないほど繰り返してきた。
先月訪れた、山奥の炭焼き小屋を改装しただけの食堂では、地元の猟師しか知らないという鹿肉の燻製に出会った。
硬い木の椅子に座り、湯気の立つ丼をかき込んだときの感動は、今でも鮮明に思い出せる。
誰も知らない山あいの温泉。地元の人しか並ばない食堂の定食。
観光雑誌には載っていない、けれど確かにそこにある美味しいものや綺麗な景色。
それを見つけたときの高揚感だけが、平凡な毎日を支えてくれていた。
その日も、悠人は満員電車に揺られながら、スマートフォンの旅行ブログを眺めていた。
「山あいの、地元の人しか知らない温泉宿、か……。次の三連休はここにしよう」
誰にも教えたくない。けれど、誰かに教えたくもなる。
そんな矛盾した気持ちこそが、悠人にとっての旅の原動力だった。
定時で会社を出て、コンビニで買った惣菜だけの夕食を済ませ、風呂に入り、布団に潜り込む。
明日も仕事だ、早く寝なければ。
そう思った、次の瞬間だった。
部屋の中が、目を開けていられないほどの真っ白な光に包まれた。
「――ようやく見つけました!」
声のする方を見ると、まばゆい光の中に、白い衣をまとった女性が立っていた。
長く輝く銀髪、透き通るような肌。人間離れした美しさに、悠人はただ言葉を失う。
ここが自分の六畳一間のはずなのに、周囲には壁も天井もなく、ただ光だけが果てしなく広がっていた。
「あなたは……」
「わたくし、この世界を見守る女神、ミレイユと申します。突然のことで驚かせてしまい申し訳ありません。ですが、時間がないのです」
女神と名乗る女性は、悠人の返事を待たずにまくし立てた。
「わたくしの世界は今、魔王という災いに苦しめられております。人々は家を焼かれ、家族を失い、長きにわたる戦いに疲弊しきっております。どうか、勇者としてこの世界を救っていただけないでしょうか」
「え、あの、待ってください。勇者って、僕がですか?」
「はい!あなたこそ、選ばれし者です!」
ミレイユは自信満々に頷いた。頷いた、のだが。
悠人には見えてしまった。
彼女のすぐ後ろで、分厚い書類の束をめくりながら、何やらぶつぶつと確認している、別の女神らしき人影が。
よく見ると、その周りには他にも何人か、忙しなく行き来する神々らしき姿があり、まるで締め切り間際の職場のような、妙に生々しい慌ただしさが漂っていた。
「あ、あの、ミレイユ様。召喚対象者の時系列なんですけど、これ確認しておいた方が……」
「今忙しいので後にしてください!」
「いえ、これ結構重要な……」
「後にしてくださいと言いました!」
悠人の頭の奥で、小さな警報が鳴った気がした。
転職活動でしつこく聞かされた「引き継ぎが雑な現場ほど危ない」という先輩の言葉が、なぜかふと頭をよぎる。
だが、それを言葉にする間もなく、光はすでに彼の体を包み込み始めていた。
「あ、ちょっと、説明が全然足りて――」
「大丈夫です、向こうに着けばきっと何とかなります!それでは、いってらっしゃいませ!」
その笑顔だけは、やけに眩しく、そして頼もしく見えた。
根拠のない自信ほど、時に一番始末に負えないものだと、悠人が気づいたのは、もう少し後のことになる。
次の瞬間、悠人の意識は光の奔流に飲み込まれ、プツリと途切れた。
――彼はまだ知らない。
その「時系列」という言葉に、いったいどれほどの意味が込められていたのかを。
そして、これから自分が足を踏み入れる世界が――すでに魔王を倒し終えた、その「後」の世界であることを。




