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カコンッ、と軽く小さい音。
篠崎はフタを開けた缶コーヒーを口元に持っていき、一口飲んだ。
その間に、アズはホワイトボードに文字を書き足していた。
マーカーがキュッキュとリズミカルに音を立てる。
『割増時間を昼間にする?』
『時間帯はどうする?』
篠崎はじっとアズが文字を書くのを眺めたまま、黙っていた。
美礼も困ったような顔を御子柴に向ける。
ちらっと目が合った御子柴は小さく肩をすくめただけで、またタブレットに目を戻した。
垣内は顔を上げたまま、じっと誰かの発言を待っていた。
アズが書き終えても、空気は重たいままだった。
少し思案したあと、アズは手を上げた。
「ちょっとよろしいですか」
篠崎は缶を置いて、アズに目を向けた。
美礼もどこかほっとした表情でアズを見る。
アズはホワイトボードに向き直り、再びペンを走らせた。
『人間:二十二時から翌朝五時』
『夜行性亜人種:?』
「確かに現在、夜勤割増になる時間は、昼行性である人間の生体リズムを前提にしています」
「まあ、今までは人間しかいなかったからな」
篠崎が口を開く。
「つまり夜行性亜人種にとっての夜、すなわち生物学的な休息時間帯は定義されていません」
「……? どういう意味っすか?」
美礼はわずかに首をかしげた。
「言い回しがかたっ苦しいな。なにが言いてぇんだ?」
篠崎はまっすぐにアズを見る。
アズは『?』の下にもう一行書き足した。
『夜行性亜人種:生物学的な休息時間帯』
「今のルールは、人間を基準に作られていて、夜行性亜人種は最初から想定されていない」
書き終えて、アズはテーブルへ向き直った。
「その種族にとって本来の休息時間、つまり人間でいう夜に当たる時間を『生物学的な休息時間帯』と定義し、その休息時間帯の労働を割増にすることを提案します」
「だからそれはどうやって決めるんだよ?」
篠崎は肩をすくめて見せる。
「本人申告だけじゃいくらでも悪用できちまうぞ」
アズはマーカーのキャップを締めて、篠崎のほうを向いた。
「厚労省が作っている『種族特性の基礎資料』を使います」
ギッ、と篠崎が背もたれから体を起こした。
「あー……亜人種族の生態調査したときのヤツか」
「え、なんすかそれ?」
美礼が首を伸ばす。
「特区内の医療機関が蓄積してきた、各種族の生体リズムに関するデータです。睡眠の傾向や活動時間の偏り、医学的な資料に近いもので、申告を裏付ける根拠になります」
「これだねー」
タブレットの画面に厚労省のサイトを表示する御子柴。
それを見ながら、アズはうなずく。
篠崎は、少し眉を持ち上げ、そして小さく笑った。
「んなのよく覚えてたな」
「これも仕事ですので」
アズはそっけなく答える。
「厚労省の医政局も同じデータを集めています。課長から働きかけてもらえれば、参照することは可能なはずです」
「まあそれなら、客観的なデータつっても差支えはねえな」
篠崎は頷いた。
アズは全員を見渡すように言った。
「現在の法律では、夜行性亜人種は想定されていません」
美礼は口を半開きにしたまま、御子柴は頷きながら聞いている。
垣内はにこやかに笑みを浮かべている。
篠崎は腕組みをしてアズに顔を向ける。
「現行法をなんとなく適用するのではなく、亜人種ごとに特性が違うことを想定したうえで明文化して、初めて亜人種族の権利を守ることができる。それが自分の仕事だと考えています」
「真面目だねえ」
篠崎は苦笑する。
「亜人として労働局に勤務する自分の務めだと思っていますので」
アズはすました顔で答えた。
「が、それじゃダメだな」
篠崎はさっと表情から笑みを消した。
「なぜですか」
アズの尻尾がピタッと動きを止める。
「一つは、亜人種族の特性がまだ完全には解明できていない点だ」
篠崎は腕組みのまま、じっとアズを見る。
「種族の数が多すぎるんだよ。厚労省だって全部の種族の特性をくまなく把握しているわけじゃねえ」
「ですが、厚労省が公式に集めたデータ以上に信頼できる情報源はありません」
アズは、顔色も変えずに返した。
しかし、篠崎は短く息を吐き、それから首を左右に振った。
「完全じゃないデータを元にして、現場の亜人たちに負担を強いる可能性を無視するわけにはいかねえな」
アズはわずかに目を細める。
「リスクは理解できますが、データの不備を洗い出すためにも基礎資料の参照は有効です」
「精度を高めるために現場に負担を強いるやり方は賛成できない」
篠崎の言葉に、アズは眉を寄せた。
理屈としてはわかる、とアズは思った。
不完全なデータを元にした結果、現場に負担がかかることを、篠崎は指摘している。
しかし完全なデータがない以上、その負担は回避できないのではないか。
篠崎は続ける。
「次に、それだと雇用側が夜行性亜人種族だけを雇わなくなる可能性がある点だ」
「雇用の不利、ですか」
アズはまっすぐ篠崎を見た。
「例えば昼間の業務が中心の店が、昼間に賃金割増になる亜人種を雇おうとは思わないだろ?」
「ですが、亜人たちの権利を守るために必要な経費です」
篠崎は黙って首を横に振る。
「経営者がそれで納得するか? 経費が増えてでも夜行性亜人種を雇おうと思うか?」
「割増にならない時間を中心に、シフトに入ってもらうなどの対応も可能なはずです」
「だったら最初から、どの時間に入れても割増にならない奴を雇うと思わねえか?」
少しの間をおいて、アズは続ける。
「では、夜行性亜人種が就職で不利にならないように条文を追加する、というのは」
「どんだけ条文を増やす気だよ。それじゃ条例案が通りにくくなるぞ」
これも篠崎の主張はわかる。
人間の店は夜は閉まることが多い。昼間の賃金が割増になってしまう夜行性の種族は、それだけでも雇用されづらいというのは理解ができる。
……だからなおのこと、亜人が不利にならないようなルールを明文化する必要があるはずだ。
そう思いながら、アズはどう言葉にすべきか迷ったまま、口を開けられずにいた。
「それだけじゃねえ」
さらに篠崎が続ける。
「一人ひとり割増時間が変わるってことは、現場を回す側の負担も急増するってことだ」
篠崎はテーブルに肘をつき、手を組んだ。
「今までは全員同じ時間が割増になるから、時計だけ見ていればよかった。でもそれが一人ひとり違うんじゃ、問題は一気に複雑になる」
「え、そうなんすか?」
美礼が首をかしげる。
「同じ夜行性亜人種でも、朝の九時から割増になるヤツと、正午から割増になるヤツがいたら給与計算はどうなると思う?」
「それは……」
美礼は指を折って数え始める。
「誰がどの時間に割増になるのか、人件費を減らすためにはどうシフトを組めばいいのか。
……五人十人の職場ならまだしも、五十人百人の会社だったら現場の負担はバカにできない」
篠崎の言葉に、美礼は数えるのを途中でやめた。
アズは口を開きかけたが、思考がまとまらないまま口を閉じた。ホワイトボードの前に立ったまま、いつの間にか尻尾が真っ直ぐ下を向いている。
「アイデアは悪くねえが、当事者の目線が足りねえな」
そう言って、篠崎は缶コーヒーを手にとり、一口飲んだ。
「先輩きびしー」
美礼が茶化すように口をはさんだ。
「厳しいとか甘やかすとかの問題じゃねえだろ」
ちらっとだけ目を向けて、篠崎が言い返した。
垣内がニコニコと美礼に言う。
「そうそう。ここから特区条例案造らなきゃいけないからねえ」
「そう……ですね」
アズは軽くうつむいたまま、思案するように手を口元にもっていった。




