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 時計は、十五時五十分を示している。

 窓から差し込む西日が机の上まで届いている。


「うっし」

 PCの画面を覗き込んでいた篠崎が、顔を上げる。

「亜人雇用ルールのリーフレット案、これでOKだ。添付して総務に送ってくれ」

「わかりました」

 短く答えて、アズは自分のPCに向かった。

 キーボードを叩く音だけが続く。

「だいぶ慣れてきたな。覚えも早い」

「恐れ入ります」

 PCの画面を見つめるアズの視界の端で、腕が動くのが見えた。

 アズは目だけを向ける。向かいの机から伸びてきた篠崎の手が、アズの机の上に缶を一つ置くのが見えた。


「なんですか?」

 アズは顔を上げた。

「雑用の手伝いしてもらったお礼だ」

 ちらっと、缶に目を向ける。

 艶のある赤地に白い文字。『ミルクたっぷり・甘さひかえめ』。

「業務で必要なことをしただけです。缶コーヒーをもらう、という契約はしていません」

「相変わらず堅っ苦しいなお前は。労基署の臨検じゃねえんだからよ」

「そういう習性ですので」

 そっけないアズの返事に、篠崎は小さく鼻を鳴らした。

「それと」

 目をPCの画面に戻して、アズは続ける。

「あんだよ」

「いただけるのであれば紅茶を希望します」

「めんどくせえやつだな」

 ふっ、と篠崎が笑うように息を吐く。

 カチャカチャとキーを叩きながら、アズは言った。

「ところで、なぜ缶コーヒーを?」

「間に合ってたら自分で飲む用だったからな」

 キーの音が、一拍開いた。


 ──自分で飲む用。

 アズの視線が、篠崎の机の上をすべる。

 黒いラベルの空き缶が2つ。無糖ブラック。


 また、矛盾。

 そう思ったものの、それを指摘するのはなにか違う気がして、アズはなにも言わずに視線を画面に戻した。

 入力を終えた後、マウスをクリックする。

 それから、差し出された缶コーヒーに手を伸ばした。

「今回は妥協します」

「くっそ可愛くねえ」

 缶を渡した手を引っ込めながら、篠崎は口を尖らせた。


 椅子のキャスターが軋む音。

「先輩、アタシの分はー?」

 能天気で、甘えたような明るい声。

 隣から明るい茶髪の、美礼の頭が割り込んできた。

「お前はオレたちに買ってくる側だろうが」

 篠崎はわざとらしく顔をしかめる。

「えーやさしくなーいー」

「時間通りに仕事終えてから言え」

 美礼は頬を膨らませる。


 アズは画面から目を動かさないまま言った。

「美礼さんに渡された仕事は十四時には終わっているはずでしたが」

 美礼がアズに顔を向ける。

「アズさんまで冷たい! 二人とももっと優しくしてー」

 大げさに泣き顔をして見せる美礼。アズは目もくれない。

 そして口調の割には美礼の手は仕事に戻っている。

 いつものこと、だ。


「はい、今日の分終わり」

 斜め向かいの席で、御子柴が腕を上に伸ばした。

 後ろで一つにまとめられた長い黒髪が揺れる。

 すぐさま、美礼がそっちを向いた。

「うえー、なんで御子さんまで終わってんすかー」

「だって定型文だし。書くこと決まってるなら簡単でしょ」

 眼鏡を直しながら、御子柴が答える。

「三人とも手が空いたなら手伝ってくださいよー」

「甘やかすなって言われてるし」

「手伝う、という指示も契約もありませんね」

「泣き言言ってる暇があったら進めろ」

 次々と言われ、美礼はべそをかく顔をしながら自分の机に戻る。


 そのとき、軽い音とともに引き戸が開いた。

「やあ、どこまで進んでる感じ?」

 のんびりした口調。足取りもゆったりと、垣内が入ってくる。

「美礼以外は終わってます。アズは今メールチェック中」

「やっぱりねえ」

 篠崎が答えると、垣内はニコニコと笑った。

 美礼が振り向いて、むくれる。

「やっぱりって、課長までどうせ遅れるって思ってたんすかー?」

「うん」

 のんびりとした足取り。物腰。

 それでもこの上司は、この部署でのやりとりをだいたい把握している。

 そういうところを、アズは信頼している。


 美礼の後ろを通り過ぎながら、垣内は自分の席に向かう。

「ひっど! 御子さんこれパワハラじゃないっすかパワハラ!」

 キーを叩きながら美礼が口をとがらせる。

 その言葉に、眼鏡の奥で御子柴の目が楽しそうに光る。

「お、裁判してみる? してみる? ちなみにパワハラ六類型のどれに当てはまると思う?」

 篠崎はためいきをついた。

「アホ言ってねえでさっさと終わらせろ。御子さんも煽んな」

「ちぇー」

 御子柴は楽しそうに笑った。

 この人は。

 普段はほとんどしゃべらないのに、もめ事の気配で突然口数が増える。そのスイッチがどこにあるのか、アズにはまだ把握できていない。


 アズはマウスを動かし、最後の操作を終えたところで口を開いた。

「今、総務に送信しました」

「はい、お疲れさま。それじゃ、ミーティングはじめようか」

 その言葉にあわせるように、垣内がPCを操作する。

 そして、ノートPCを持って立ち上がる。

「今資料印刷したから、誰か配ってくれる?」

「やります」

 アズはさっと立ち上がった。

 そしていそいそと複合機の前に立ち、じっと覗き込む。

 複合機からピッ、という短い起動音と、続いて低いウォームアップの音が鳴り始める。


「えー早いっすよー」

 ひたすらにキーを打ちながら美礼がわめく。

「今日はミーティングあるの、朝言われてただろ」

「なんか、割増がどうのって話でしたっけ?」

 立ち上がりながら、篠崎が肩をすくめた。

「夜行性亜人種族の夜勤割増、な。ちゃんと覚えとけ」

「覚えてるじゃないっすかー」

「覚え方が適当なんだよ」

 言いながら、篠崎は机の上の缶コーヒーを手に取る。


 御子柴も、タブレットを手に立ち上がった。

「今回も面白判例いっぱい集めてきたからねー」

「いや、いっぱいはいらねえから」

 篠崎のツッコみをスルーして、御子柴はミーティングテーブルへ向かう。


 複合機が駆動音を立て、書類を排出していく。

 飛ぶような速度。なのに、ぴったりと角が重なっていく。

 それをじっと見つめるアズの尻尾が、ゆったりと左右に揺れている。

「好きだなお前」

 ミーティングテーブルの椅子を引きながら、篠崎は軽く笑う。

「動作を確認しているだけです」

 アズはちらっと目線を後ろに向けて言った。

 篠崎は小さく笑ってから、椅子に腰を下ろす。

 からかうような笑い方。しかし、棘がある感じではない。

 これも、いつものやりとりだ。


「ほらお前も早くしろ」

 篠崎が振り向いて、後ろの美礼に声をかける。

「えー待ってー」

 美礼は慌ててキーを叩き、マウスを動かす。

 データの保存を確認してから、立ち上がる。


「それじゃ、ミーティングはじめようか」

 テーブルにノートPCを全員に見えるように置いて、垣内は椅子に座った。

 蛍光色のペンケースとノートを持って、美礼が慌ただしくテーブルに移動してくる。

 垣内はそれをニコニコと見守っている。

 ノートPCの画面には、大きく文書のタイトルが映し出されていた。

 「夜行性亜人種族の深夜労働に関する提案書」。そして「亜人特区労働局 亜人対策課」の文字。




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