1ノ陣 1.荒くれ者
「どうして、なんで…!」
少女は息せき切って走っていた。
紺色のブレザーは、逃げる途中で柵に引っ掛けたせいでボタンがいくつか外れ、
今では前が大きく開いている。
普段はきちんと整えているシンプルなストレートヘアも乱れ、
頬には細かな埃が付着していた。
光さえほとんど届かない薄暗い裏路地を、
少女は必死に駆け抜けていく。
道端に置かれていたごみ箱を蹴飛ばした拍子に足を取られ、身体が前へ大きく傾いた。
「きゃっ……!」
転倒する寸前、
少女は右足を強く踏み込んでどうにか踏みとどまる。
息を整える暇もない。
振り返ることすら怖くて、
少女は再び前へ走り出そうとした。
そのときだった。
目の前に、何かが落ちてきた。
ドスンッ!!
地面を揺らすような重い音が響き、少女の足が止まる。
直後、路地いっぱいに粉塵が舞い上がった。
「な、なに?!」
少女は反射的に腕で顔を覆う。
舞い上がった埃が喉へ入り込み、少女は激しく咳き込んだ。
視界は完全に白く染まり、何が起きたのかも分からない。
ただ、粉塵の向こうから何かが近づいてくる気配だけがあった。
巨大な影が、霞んだ視界の中でゆっくりと動く。
そして――。
粉塵を突き破るように伸びてきた巨大な手が、少女の細い手首を掴んだ。
「捕まえたぜ、お嬢ちゃん」
「っ……!」
少女の身体が強引に引き寄せられる。
粉塵が徐々に晴れていく。
そこに立っていたのは、大男だった。
坊主頭にはいくつもの傷が走り、片目は潰れている。
黒い着物を身に纏った巨体は、身長一六五センチほどの少女なら、
その身体ごと隠してしまえそうなほど大きい。
大男は掴んだ少女の手首を離すことなく、口元を歪めた。
「鬼ごっこは、もうおしまいだ」
「な、なんなんですか?!」
少女は震える手をスカートのポケットへ伸ばす。
取り出したのはスマートフォンだった。
だが、画面を操作するより早く――。
パァンッ!
何かに手を弾かれ、スマートフォンが宙を舞った。
少女の指から離れた端末は、乾いた音を立てて地面へ落ちる。
「おっと、それはナシだ」
大男が指を立てていた。
人差し指と親指を銃のように構える。
その二本の指を弾いた直後、
空気を圧縮したような衝撃が少女の手を正確に撃ち抜いていた。
少女は痛みに顔を歪め、反射的に手を引く。
「走り回るのは好きじゃないんでな、腕折られたくなかったらおとなしく来てもらおうか?」
「ひっ……きゃーーー! 誰かーー!! 助けてー!!」
少女の叫び声が、人気のない路地へ響き渡る。
しかし、返事はない。
大男は呆れたように鼻で笑った。
「は、バカが。こんな人気のないところで叫んでも誰もこねーよ」
少女の顔から血の気が引いていく。
逃げようにも手首は掴まれたまま。
助けを呼ぼうにも、スマートフォンは足元に転がっている。
そのとき――。
トントン。
大男の肩が、何者かの指で軽く叩かれた。
「……あぁ?」
大男が怪訝そうに振り返る。
「なん――」
ゴンッ!!
顔面に拳が突き刺さった。
「ぐおっ!?」
あまりにも突然の一撃だった。
大男の身体が浮き上がる。
拳が振り抜かれる勢いに押し出されるように、
その巨体は数メートル先まで吹き飛び、路面を転がった。
少女は呆然とその光景を見つめる。
やがて大男が地面に手をつき、ゆっくりと上体を起こした。
鼻から血を流し、
潰れた鼻を親指で無理やり元の位置へ戻す。
「ぐっ……誰だ! 今殴ったのは!」
大男が睨みつける。
その視線の先に、一人の青年が立っていた。
年齢は二十にも届いていないように見える。
ぼさぼさに伸びた髪。太い眉。鋭く吊り上がった目つき。
全身を覆うボロボロのマントから伸びた手を軽く握り、指を一本ずつ鳴らしている。
パキッ、ポキッ。
骨の鳴る音が、静まり返った路地に響いた。
青年は口角をわずかに吊り上げている。
少女の前を横切るようにして歩き出すと、そのまま大男の前まで近づいていった。
大男を見下ろし、
青年は何の前触れもなく胸ぐらを掴み上げる。
「おい、食い物もってねぇか?」
「あぁ?」
「こっちは10日間何も食ってなくて腹減って機嫌悪ぃんだ、なんか持ってねぇのかよ?」
青年の声には、冗談を言っているような軽さがあった。
だが、その目だけは笑っていない。
大男は眉を吊り上げた。
「ふざけやがって! こんなことしてただで済むと――」
ドゴッ!!
言葉の途中で、拳が顔面へめり込んだ。
大男の頭が大きく仰け反る。
それでも青年は胸ぐらを離さなかった。
「持ってねぇのかよ」
ドゴッ!!
「ぐっ……!」
さらに一発。
ドゴッ!!
もう一発。
拳が顔面へ叩き込まれるたび、大男の身体が大きく揺れる。
少女は目の前で繰り広げられる光景に、
思わず息を呑んだ。
さっきまで自分を追い詰めていた大男が、
今度は別の誰かによって一方的に殴られている。
助かったという実感よりも、何が起きているのか分からない困惑の方が強かった。
やがて青年の拳が止まる。
「……ん?」
青年は掴んでいた大男の顔を覗き込んだ。
白目を剥き、口元からは涎と泡が流れている。
鼻血を垂らしたまま、完全に動かなくなっていた。
青年はしばらく眺めたあと、
興味を失ったように胸ぐらから手を離す。
大男の身体が地面へ落ちた。
「ったく。話にならねぇな……」
青年は立ち上がる。
そこでようやく、
路地の端にいる少女の存在を思い出したようだった。
振り返った青年と、少女の視線が重なる。
少女の肩がビクッと跳ねた。
先ほどの大男とは別の意味で、目の前の青年もまた恐ろしい。
自分より明らかに若いように見えるのに、あれほど大きな男を一方的に殴り倒した。
少女は身体を強張らせ、息を呑む。
青年はそんな少女をじっと見た。
「………はぁ」
やがて、頭をポリポリと掻く。
どうしたものかと言いたげに、重いため息を吐いた。
「女と子供から取ったりしねーよ」
それだけ言うと、青年はマントを翻した。
少女に背を向け、そのまま歩き出す。
路地の出口へ向かって、片手をひらひらと振っている。
少女はその背中を見つめた。
助かったのか。
それとも、ただ目の前で別の揉め事が起きただけなのか。
少女自身にも、まだ判断がつかなかった。
ただ、青年が立ち去ろうとしていることだけは分かる。
少女は震える両手を胸元で抱えるようにしながら、一歩を踏み出した。
「あ、あの!」
「……ん?」
青年が振り返る。
少女は一度口を開きかけて、ためらった。
それでも意を決し、声を張り上げる。
「……よ、よければ! ごちそうしまするよ!」
言った直後、自分でも何を言ったのか理解する。
「……!」
少女の顔が一気に赤くなった。
「ご、ごちそうします……!」
慌てて口元を手で覆う。
咄嗟に噛んでしまったことが恥ずかしくて、視線まで泳いでしまう。
青年はというと。
瞬きしながら、少女を不思議そうに見つめていた。
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