70.客であるということ
【一ノ瀬誠視点】
「一ノ瀬さん、十五分後に、例の面談が入っています」
秘書からの、その短い一言に、私は、思わず、胃の辺りが重く沈み込むのを感じた。
「ああ……わかった」
カレンダーに表示された「事業開発担当・面談」という、あまりにも事務的な一文を、私は、しばらくの間、じっと見つめていた。この手の面談が入るたびに、決まって、同じような重苦しさが、胸の奥にのしかかってくる。もう何年もこの立場にいるはずなのに、いまだに、この感覚だけは、まったく慣れることがなかった。
机の引き出しから、常備している胃薬を取り出す。この面談の前だけは、いつも、こうして薬に頼らざるを得なかった。
「今日は、また何を言われるんだろうな……」
誰に言うでもなく、そう呟く。あの分析資料を持参してくる時は、大抵、決まって、手強い交渉になる。今回も、恐らく、例外ではないのだろう。
窓の外を見上げながら、私は、大きく息を吐いた。こういう時こそ、冷静に、そして、丁寧に。感情的にならず、それでいて、譲るべきでない一線だけは、絶対に譲らない。そう自分に言い聞かせながら、私は、会議室へと向かう足を、ゆっくりと進めていった。
会議室のドアの前で、私は、一度だけ、深く深呼吸をした。この扉の向こうで、また、あの独特の緊張感に満ちたやり取りが、始まろうとしている。
会議室に姿を見せたのは、主要出資企業の一つから派遣されている、事業開発担当の男だった。柔らかな物腰の下に、油断ならない鋭さを隠し持つ、そんな人物だった。
「一ノ瀬さん、お忙しいところ申し訳ありません。少し、お時間よろしいでしょうか」
「ええ、大丈夫ですよ。それで、今日はどういったご用件で」
努めて平静を装いながら、私はそう返した。この手の面談が、決して軽い世間話で終わらないことは、これまでの経験から、嫌というほど身に染みていた。
思えば、この男との面談は、これが初めてではなかった。大規模なアップデートの節目、大きな話題を呼んだイベントの後には、必ずと言っていいほど、こうして誰かが訪ねてくる。それが、この業界における、ある種の慣例のようなものだった。
「先日の、るかさんたちのミラーイベント、そして公式謝罪配信。あれだけの話題になったにもかかわらず、その後の商業展開が、正直、あまりにも慎重すぎるように見えるんです」
男は、そう切り出すと、手元の資料をこちらへと差し出した。世界中のSNSでの反応、話題の推移をまとめた分析資料だった。グラフには、あの一件を境に、登録者数や関連ワードの検索数が、これまでにない伸びを見せていることが、はっきりと示されていた。
「これだけの数字を、みすみす見逃す手はありません。競合他社であれば、間違いなく、この瞬間を逃さず、大々的な展開を仕掛けてくるはずです」
「具体的には、どういった展開をお考えなんですか」
私は、あえて、そう尋ねてみた。相手の要求を、はっきりとした言葉にさせておくことも、この手の交渉では、時に重要だった。
「例えば、三人揃っての合同インタビュー、あるいは、限定グッズの大々的な展開。もっと言えば、海外メディアへの露出も、積極的に仕掛けるべきです。この波は、決して長くは続きません。今この瞬間にこそ、最大限に活用すべきなんです」
男の口調には、確かな熱がこもっていた。ビジネスとしての視点だけで見れば、決して間違った提案ではないのかもしれない。それでも、その提案の先にある、一人一人の人間の顔を、この男は、どこまで想像できているのだろうか。
「あれだけの注目を集めたんです。この勢いを、もっと積極的に活かすべきだと、私どもは考えています」
「クリエイターサポート担当が、既に段階を踏んで、丁寧に調整を進めています。無理のない範囲で、着実に」
「その『無理のない範囲』というのが、私どもからすると、正直、機会損失にしか見えないんですよ」
男の声に、わずかに苛立ちが滲む。
「一人一人のプレイヤーには、それぞれ、私どもが把握しているだけでも、様々な事情があります。詳しい内容は、個人情報に関わるため、こちらではお伝えできません。それでも、そうした事情を無視して、数字だけを追い求めるようなことは、うちのポリシーとして、絶対にできないんです」
私は、はっきりと、そう言い切った。数字だけを見れば、確かに、男の言い分にも一理あるのかもしれない。それでも、その数字の向こうにある、一人一人の顔を思い浮かべると、簡単に頷くわけにはいかなかった。
「事情、ですか」
男は、少し訝しげな表情を浮かべた。それでも、それ以上、深く追及してくることはなかった。この手の話題には、あまり深入りしたくない。そんな空気が、男の表情から、かすかに伝わってきた。
「るかさんも、神代さんも、皇帝牙さんも、今この瞬間が、間違いなく一番の旬です。この波を、最大限に活用しない手はない」
「うちのプレイヤーたちには、それぞれのペースがあります。無理に急かして、潰してしまっては、元も子もありません」
私は、静かに、それでいて確かな芯を持って、そう言い返した。
男は、しばらくの間、何かを見極めるように、こちらをじっと見つめていた。それでも、私は、視線を逸らさなかった。ここで一歩でも引けば、この先も、同じような要求が、際限なく続いていくことになる。それだけは、絶対に避けなければならなかった。長年、この立場を預かってきた経験が、そう私に教えてくれていた。
それから、少し間を置いて、私は、あえて、こちらから切り込むことにした。
「それより、一つ、確認させていただきたいことがあります」
「何でしょうか」
「今回のミラーユニットの調整ミス、あれは、敵運用チームが、ボーナス欲しさに、マッチング調整を甘くしたことが原因だったと聞いています。それでも、あのタイミングで、あれほどまでに踏み込んだ判断をしたことに、正直、少し引っかかりを覚えています」
私は、男の反応を、注意深く窺いながら、言葉を続けた。
「御社の方から、敵運用チームに対して、実装を早めなければ、査定や評価に響く。そういった類の、何らかの圧力をかけていたということは、なかったでしょうか」
男は、一瞬、表情を変えなかった。それでも、その一瞬の静けさの中に、確かな何かが、ほんの少しだけ、揺らいだように見えた。
「弊社の行動について、そちらから、とやかく言われる筋合いはないと思いますが」
男は、そう言うと、静かに、それでいて、はっきりとした口調で、そう返してきた。取り付く島もない、その言い方だった。
「それは、答えになっていない気がしますが」
「答える義理も、ないもので」
男は、そう言い残すと、あっさりと、話題を切り替えてしまった。
まるで、糠に釘を打っているような、そんな手応えのなさだった。それでも、この一瞬の反応だけで、私は、確かな何かを感じ取っていた。少なくとも、この男が、何も知らないという顔ではなかったことだけは、確かだった。
「まあ、いいでしょう。それより、本題です」
男は、あっさりと話題を切り替えた。
「るかさんたちを、もっと積極的に商業展開に活用すべきだ、という点については、変わりません。御社にとっても、悪い話ではないはずです」
「うちのプレイヤーたちは、御社の資産ではありません」
私は、はっきりと、そう言い切った。
「あくまで、彼らは、うちのお客様です。契約で縛られた社員でも、専属の駒でもない。一人一人が、それぞれの意思で、このゲームを楽しんでくれている、大切なお客様なんです」
「お客様、ですか」
男が、少し意外そうな顔をした。
「ええ。だからこそ、こちらの都合で、一方的に振り回すようなことは、絶対にできません」
「理想論としては、わかります。それでも、ビジネスとしての現実も、無視するわけにはいかないでしょう」
「もちろん、承知しています。それでも、譲れない一線というものが、こちらにもあります」
これは、単なる建前ではなかった。ゲームというものは、突き詰めれば、遊んでくれる人がいて初めて成り立つものだった。その根本を見失えば、どれだけ精巧なシステムを作り上げても、いずれ必ず、足元から崩れていく。そのことを、私は、これまでの長いキャリアの中で、何度となく思い知らされてきた。
「以前、別のタイトルで、似たような話を聞いたことがあります」
私は、静かに、そう切り出した。
「人気に乗じて、プレイヤーを商業的に利用しすぎた結果、コミュニティ全体から、確かな不信感を持たれてしまった。そういう事例は、決して珍しくありません。一度失った信頼は、簡単には取り戻せないものです」
「それは、あくまで、他社の話でしょう」
「ええ。それでも、他山の石とするべき教訓だと、私は思っています。うちは、同じ轍だけは、絶対に踏みたくありません」
男は、しばらくの間、こちらをじっと見つめていた。それでも、私は、視線を逸らさなかった。
「わかりました。今日のところは、この辺りにしておきましょう」
男は、そう言うと、静かに席を立った。
「それでも、この話は、また改めて」
短くそう言い残すと、男は、会議室を後にしていった。
一人残された会議室で、私は、大きく息を吐いた。全身から、確かな疲労感が広がっていく。
(また改めて、か……)
この手の話が、今日で終わるとは、正直、まったく思っていなかった。それでも、譲れない一線だけは、これからも、絶対に守り抜かなければならなかった。
思えば、この仕事を続けていく限り、こうした綱引きは、これからも、ずっと繰り返されていくのだろう。それでも、その一つ一つに、真摯に向き合い続けること。それこそが、この立場を預かる者としての、確かな責任なのだと思う。
うちのプレイヤーたちは、商品でも、資産でもない。一人一人が、確かな意思を持った、大切なお客様なのだから。
「一ノ瀬さん、大丈夫ですか」
部下の一人が、心配そうに声をかけてきた。他のスタッフたちも、いつの間にか、心配そうな面持ちで、こちらを見守っていた。どうやら、会議室での剣呑な空気は、外にも、うっすらと漏れ伝わっていたらしい。
「はぁ……正直、まったく大丈夫じゃないよ」
思わず、そんな本音が漏れる。普段は、あまり弱音を吐かない私の、その珍しい様子に、スタッフたちも、少しばかり驚いた顔をしていた。
「また、あの人ですか。今度は何を?」
「相変わらず、るかさんたちを、もっと商業的に使い倒せの一点張りだよ。三人合同インタビューだの、海外メディア展開だの……。挙げ句の果てには、今回の調整ミスまで、こっちのスケジュール管理のせいにされそうになった」
「それは、さすがに、無茶苦茶ですね……」
部下の一人が、呆れたように、そう零した。
「まったくだ。あの子たちは、うちの商品じゃない。お客様なんだよ。それを、いつまで経っても、わかってもらえない」
愚痴めいた言葉が、次から次へと、口をついて出てくる。それでも、こうして、信頼できるスタッフたちに、思いの丈を吐き出せることが、正直、何よりの息抜きになっていた。
「一ノ瀬さんが、いつも体を張って、あちら側と渡り合ってくれてるおかげで、私たちは、安心して開発に集中できてます」
別のスタッフが、そう静かに言葉をかけてくれた。その一言に、私は、思わず、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「ありがとう。まあ、こういう役回りも、誰かがやらなきゃいけないことだからな」
そう言いながら、私は、ようやく、少しだけ肩の力を抜くことができた。一人で抱え込まなくても、こうして支えてくれる仲間がいる。それだけで、また明日からも、頑張れる気がした。
思えば、この会社に入った当初は、こんなにも交渉事に追われる日々が待っているとは、想像もしていなかった。ただ、良いゲームを作りたい。その一心で、この業界に飛び込んできたはずだった。それでも、こうして誰かを守るために闘うこともまた、良いゲームを作り続けるために、避けては通れない道なのだと、今なら、はっきりと理解できる。
「それより、次の海洋マップの開発進捗、まとめておいてくれ」
「了解しました」
部下が、慌ただしく資料を抱えて出ていくのを見送りながら、私は、もう一度、窓の外を見上げた。
スポンサーとの関係は、これからも、簡単なものではないだろう。それでも、この仕事を続ける限り、譲れない一線だけは、絶対に守り抜くつもりだった。
あの子たちが、これからも、自分自身のペースで、心から楽しんでゲームを続けられるように。それだけは、何としても、守り抜きたかった。
思えば、この仕事に就いた頃、私自身、こうした綱引きの日々が、こんなにも長く続くとは、正直、想像もしていなかった。それでも、こうして一つ一つ、譲れない一線を守り抜いてきたからこそ、今のこのゲームがあるのだと思う。プレイヤーたちが、心から楽しんで遊んでくれる、その一点だけは、これからも、決して譲るつもりはなかった。
窓の外に広がる空を見上げながら、私は、静かに、そして確かに、決意を新たにしていた。この先も、どんな圧力がかかろうとも、あの子たちの居場所だけは、必ず守り抜いてみせる。
【ハチ視点】
「るかさん、今日も元気そうで良かったよ」
いつも通りの防衛戦の合間、俺は、るかさんに、そう声をかけた。
「あ、ハチさん! はい、なんとか元気にやってます」
あの過酷なミラーイベントから、しばらく経った。それでも、るかさんの中には、まだ確かな疲労の色が、少しだけ残っているような気がした。
「あの時は、本当にすごかったよね。まさか、自分自身のミラーユニットと戦うことになるなんて」
「いやー、本当に、あれは大変でした。今思い出しても、心臓に悪いです」
るかさんが、そう言いながら、苦笑いを浮かべた。
あの日の出来事を、俺は、配信越しに、固唾を呑んで見守っていた。あれほどまでの死闘を、見事に乗り越えたるかさんの姿には、正直、心の底から感動させられた。
自分自身のミラーと向き合うという、あの異様な状況。並のプレイヤーであれば、恐怖のあまり、まともに戦うことすらできなかったかもしれない。それでも、るかさんは、最後まで、あの独特の粘り強さを貫き通してみせた。あの光景を目の当たりにして、俺は、改めて、るかさんという人の芯の強さを、思い知らされた気がした。
「俺なんかは、ずっとエンジョイ勢のままだけどさ。それでも、るかさんの頑張りを見てると、なんか、俺も、もう少し頑張ってみようかなって、思えるんだよね」
「え、そんな、大袈裟ですよ」
「いやいや、本当に。るかさんは、いつも、深く考えずに、目の前のことに全力でぶつかってるだけなのに、それが結果として、ものすごい結果に繋がってる。俺には、なかなか真似できない生き方だなって、いつも思ってるよ」
俺の言葉に、るかさんは、少し照れくさそうに、頬を掻いた。
「そんな、大した考えがあるわけじゃ、全然ないんですけどね」
「それがいいんだよ、きっと。深く考えすぎないからこそ、見えてくるものもあるんだと思う」
俺自身、これまで、ずっとエンジョイ勢として、気ままにこのゲームを楽しんできた。それでも、るかさんの姿を見ていると、自分なりのペースで、もう少しだけ、本気で何かに向き合ってみるのも、悪くないのかもしれないと、そんな気持ちが、少しずつ芽生え始めていた。
思い返せば、るかさんと初めて出会ったあの日から、もう随分と長い時間が経っていた。あの頃はまだ、こんなにも大きな存在になるとは、正直、想像もしていなかった。それでも、当時から変わらないのは、るかさんの、あの飾らない自然体な人柄だった。有名になっても、忙しくなっても、こうして俺のような、ただのエンジョイ勢にも、変わらず気さくに接してくれる。その姿勢にこそ、俺は、ずっと惹かれ続けてきたのかもしれなかった。
周りがどれだけ騒がしくなっても、るかさん自身の芯だけは、まったくブレていない。それこそが、るかさんの一番の魅力なのだと、俺は改めて思う。
「そういえば、次の大型アップデート、海洋マップが来るって噂、聞きました?」
るかさんが、ふと、そう切り出した。
「え、まじで!? それ、るかさんの機体、ついに本領発揮できるやつじゃん!」
「はい! なんか、そうみたいです。今から、すごく楽しみで」
嬉しそうに笑うるかさんの表情に、俺も、思わず、釣られて笑顔になった。
「その時は、俺も、海で思いっきり遊ばせてもらうよ。るかさんの機体の勇姿、しっかり見届けさせてもらうから」
「はい、ぜひ!」
こうして、いつも通りの気楽なやり取りを交わせることが、俺にとっては、何よりの幸せだった。派手な結果も、大きな注目も、俺には縁遠いものかもしれない。それでも、こうして誰かと、気兼ねなく笑い合える時間こそが、俺にとっての、確かな宝物だった。
「よし、それじゃ、今日も一緒に頑張ろっか」
「はい、よろしくお願いします!」
いつも通りの防衛戦へと、俺たちは、揃って向かっていった。この何気ない日常こそが、俺にとっての、かけがえのない居場所なのだと、改めて実感しながら。
派手な結果を追い求めるのも、悪くはないのだろう。それでも、俺は、俺なりのペースで、これからも、このゲームを楽しみ続けていきたいと思う。誰かと比べる必要なんてない。ただ、自分自身が心から楽しいと思える形で、この世界と向き合い続けていければ、それで十分だった。




