61.朝霧さんの来訪
「来週、少しお時間いただけますか。直接、ご相談したいことがあります」
あの朝霧さんからのメッセージから、数日が経っていた。詳しい用件は、結局、最後まで教えてもらえなかった。それでも、あの改まった言い回しが、何か大切な話であることだけは、確かに伝わってきた。
訪問当日の朝、俺は、いつもより早く目が覚めてしまった。まだ日も昇りきっていない時間から、布団の中で、ただぼんやりと天井を見つめ続けていた。誰かを家に迎える、という経験自体、数えるほどしかなかった。まして、これまでずっと声だけの関係だった相手が、今日、初めて直接顔を合わせることになる。そう思うと、朝食も、あまり喉を通らなかった。
午前中は、落ち着かない気持ちのまま、自室を何度も片付け直していた。特に散らかっていたわけでもないのに、机の上の配置を、意味もなく整え直しては、また元に戻す。そんなことを、気づけば何度も繰り返していた。ヘッドセットの位置一つにも、いつも以上に気を配ってしまう自分に、思わず苦笑いが漏れた。
「今度、担当の朝霧さんが、うちに来ることになったんだ」
夕食の席で、俺は、母さんにそう切り出した。母さんは、箸を止めて、少しだけ驚いたような顔をした。
「え、お仕事の人が、直接家に来るの? 珍しいね」
「うん。なんか、大事な相談があるみたいでさ」
「そう。じゃあ、ちゃんとお茶とお菓子、用意しておかないとね」
「あ、そこまでしなくても大丈夫だよ」
「何言ってるの。息子がお世話になってる人なんだから、それくらい当然でしょう」
母さんの、その張り切った様子に、俺は思わず、小さく笑ってしまった。それでも、内心では、確かな緊張が、じわじわと、着実に込み上げてきていた。
これまで、朝霧さんとは、ずっと電話越しでのやり取りだけだった。声だけの関係が、まさか直接顔を合わせる形になるとは、正直、まったく想像もしていなかった。しかも、あちらは、俺の本当の姿――男であることを、既に知っている。それでも、実際に顔を合わせるとなると、また別の緊張感があった。
約束の日、玄関のチャイムが鳴った瞬間、俺は、思わず、大きく息を吸い込んだ。廊下を歩く数歩の間だけで、心臓が、いつになく激しく脈打っているのがわかった。ドアノブに手をかけたまま、俺は、しばらくの間、その場で立ち尽くしていた。
「は、はい、今行きます」
震える手で、ドアを開ける。そこに立っていたのは、想像していたよりもずっと、柔らかな雰囲気をまとった女性だった。
「初めまして、朝霧です。突然、押しかけるような形になってしまって、すみません」
丁寧に頭を下げる朝霧さんに、俺は、慌てて頭を下げ返した。その動作一つにも、確かな緊張が滲んでいたと思う。玄関先という、いつもとは違う空間で顔を合わせているという事実だけで、なんだか妙に落ち着かなかった。
「あ、いえ、こちらこそ、わざわざ来ていただいて、ありがとうございます……」
朝霧さんは、俺の姿を見ても、特に驚いた様子も、探るような視線も見せなかった。ただ、いつも通りの、あの穏やかな笑顔を向けてくれるだけだった。
「るかさん、というより、楓さん、とお呼びした方がいいですか?」
「あ、はい、それで大丈夫です」
自然な流れで、そう確認してくれるその気遣いに、俺は、思わず、肩の力が抜けるのを感じた。
「どうぞ、上がってください」
案内しながら、俺は、玄関から続く廊下を歩いた。普段、誰かをこの家に招くことなどほとんどないせいか、廊下がやけに長く感じられた。後ろをついてくる朝霧さんの足音を意識するだけで、なんだか妙にそわそわしてしまう。廊下の壁に貼られた、何年も前の家族写真が、ふと目に入った。
リビングに通し、母さんが淹れてくれたお茶を挟んで、改めて向き合う。それでも、しばらくの間、お互いに、どこかぎこちない沈黙が続いていた。
「あの、母です。いつも息子がお世話になっております」
母さんが、そう挨拶をしながら、お茶菓子を並べてくれた。朝霧さんは、丁寧にお礼を言いながら、それを受け取る。この何気ないやり取りを、遠くから眺めながら、俺は、なんだか不思議な感覚に包まれていた。ずっと画面の向こうの存在だった人が、今、確かに、この部屋の中にいる。その事実が、まだうまく実感として馴染みきっていなかった。
湯呑みから立ち上る、あの緑茶特有の香りが、いつもより濃く感じられた。緊張していると、こうした些細な感覚まで、妙に鮮明に感じ取ってしまうものらしい。母さんが焼いてくれたクッキーの甘い匂いも、その緊張を、ほんの少しだけ和らげてくれるようだった。
母さんが、俺の隣に座り直すと、リビングには、少し改まった空気が流れ始めた。
「あの、今日は、どういったご用件で……」
思わず、俺の方から、そう切り出す。朝霧さんは、少し居住まいを正すと、鞄から数枚の書類を取り出した。
「実は、いくつか、新しいオファーのお話が来ていて。今日は、それを一緒に確認させていただければと」
「オファー、ですか」
その一言を聞いた瞬間、また新たな緊張が、胸の奥に、確かに込み上げてきた。せっかく直接顔を合わせられて、少しは慣れてきたつもりだったのに。オファーの中身次第では、また、あの苦手な「人前に出る」という壁と、向き合うことになるかもしれない。そう思うと、自然と、体が強張ってしまう。
俺は、思わず、緊張気味に、隣に座る母さんの方をちらりと見た。母さんは、興味深そうに、そのまま身を乗り出した。
「へえ、楓、また新しいお仕事の話が来てるの?」
「うん、みたいで……」
うまく言葉が続かない俺に代わって、母さんが、朝霧さんに向き直った。
「すみません、この子、こういう話になると、途端に口数が減っちゃって。私からも、色々聞かせてもらってもいいですか」
「もちろんです」
朝霧さんは、そう快く頷くと、一つ一つ、丁寧に書類を並べ始めた。
「まず一つ目は、朝の情報番組への生出演のお話です」
「生出演……ということは」
母さんが、そう聞き返す。
「はい、お顔を出しての、スタジオ収録になります」
その言葉に、俺は、思わず、体が強張るのを感じた。母さんは、俺の様子をちらりと確認すると、静かに首を振った。
「これは、ちょっと難しいかな。楓、大丈夫?」
「う、うん……ごめん、これは、ちょっと……」
「承知しました。では、こちらは、お断りする方向でよろしいですか」
朝霧さんは、あっさりと、その書類を脇にどけた。
「続いて、雑誌のインタビュー撮影のお話です。こちらも、お顔出しが前提の企画になります」
「これも、顔出しなんですね……」
母さんが、少し困ったように呟く。俺は、思わず、俯いたまま、小さく首を横に振った。
「あ、うん、これも、ちょっと……」
「承知しました」
朝霧さんは、慣れた様子で、また一枚、書類を脇に重ねていく。
「三つ目は、ゲーム関連のイベントへの、登壇のお話です。こちらは、ステージ上での、実際の顔出しでのトークセッションになります」
「これも……」
「うん、ごめん、これも無理……」
俺は、思わず、消え入りそうな声で、そう答えた。母さんが、優しく背中をさすってくれる。
「無理しなくていいのよ。楓のペースで、決めていけばいいんだから」
その言葉に、俺は、少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
朝霧さんは、そこで一度、手元の書類を整理し直すと、最後の一枚を、静かに取り出した。
「実は、最後にもう一つだけ、ご相談したいお話があります」
「まだ、あるんですね……」
母さんが、少し身構えるように、そう呟いた。
「はい。これは、ZERO-DAY ONLINE公式からの、正式な依頼になります。次回の大型アップデートのPV撮影に、るかさんにご出演いただきたいという内容です」
「PV撮影、ですか」
俺は、思わず、顔を上げた。
「海洋マップ関連のPVということで、海洋機体を使うプレイヤーの中でも、特に知名度のあるるかさんに、ぜひにと。それと、今すぐにという急ぎのお話ではないので、そこはご安心ください。できれば早めに準備を進めておきたい、という段階のお話です」
「あ、そうなんですね……」
思わず、そう零す。急かされているわけではないという一言に、俺は、少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
「それに、るかさんが、外出に関して、少し難しさを抱えていらっしゃることも、既に先方には、私からお伝えしてあります。無理のない形で進められるよう、しっかり調整しますので」
その一言に、俺は、思わず、朝霧さんの顔を見つめた。まさか、そこまで気を回してくれていたとは、正直、想像もしていなかった。
「はい。ただ、こちらは、少し特殊な形での撮影になります。お顔を映すことはありません。ARES社の本社にある、専用のモーションキャプチャー用VRデバイスを使って、るかさんの実際の動きを、機体の動作に反映させる形での収録です」
「本社に、行く……ってことですよね」
母さんが、確認するように、そう尋ねた。
「はい。送迎の車も、こちらでご用意させていただきます。撮影スタジオも、外部の目に触れることのない、社内の専用施設になります」
俺は、しばらくの間、黙り込んだまま、その言葉を、頭の中で繰り返していた。顔は映らない。それでも、知らない場所に行って、知らない人たちに囲まれて、実際に体を動かして撮影する。それは、これまでの、画面の前だけで完結していた日々とは、明らかに違う挑戦だった。
「楓、どうする?」
母さんが、静かに、そう尋ねてきた。急かすでもなく、ただ、俺の答えを待ってくれている、その声だった。
「……正直、怖いです。すごく」
思わず、そう零す。それでも、不思議と、そこで言葉は止まらなかった。
「それでも、なんか、これくらいなら、頑張れば、なんとかなる気もします」
その一言に、母さんは、驚いたような、それでいて確かに嬉しそうな表情を浮かべた。朝霧さんも、静かに、しかしはっきりと頷いてくれた。
「無理のない範囲で構いません。少しでも不安があれば、いつでも中止してくださって大丈夫ですから」
「はい……ありがとうございます。やってみます」
そう答えた瞬間、自分の声が、思っていたよりもずっとしっかりしていることに、俺自身、少し驚いていた。
「そういえば、最初の三つのお話、あれって……」
ふと気になって、俺はそう尋ねてみた。朝霧さんは、少し悪戯っぽく微笑んだ。
「実は、あえて、高いハードルのものから順番にお見せしていたんです。るかさんが、どのあたりまでなら踏み出せそうか、その感触を掴むために」
「え、そうだったんですか……!?」
思わず、素っ頓狂な声が出てしまう。
「もちろん、すべて本当に来ていたお話です。それでも、いきなり最後のPVのお話だけを出すよりも、こうして段階を踏んでいただいた方が、るかさん自身、ご自分の限界を、確かめながら選べるかなと思って」
その気遣いに、俺は、思わず、なんとも言えない気持ちになった。あの緊張の連続にも、ちゃんと意味があったのだと思うと、少しだけ救われるような気がした。
書類をすべて片付け終えると、リビングには、どこかほっとしたような空気が流れた。母さんが、改めてお茶を淹れ直しに、席を立つ。
「それにしても、朝霧さんは、どうして俺のこと、最初に見つけてくれたんですか?」
ふと気になって、俺は、そう尋ねてみた。朝霧さんは、懐かしそうに、目を細めた。
「急上昇ランキングに、ぽつんと上がってきた配信を、たまたま見かけたんです。誰も選ばないような黄色い機体で、無心に戦っている姿が、なんだか妙に印象に残って」
「あの頃、本当に人気なかったですもんね、あの機体」
「ふふ、そうでしたね。それでも、あの不格好な機体で、真っ直ぐに戦っている姿に、なぜか目が離せなくなったんです。この子は絶対に伸びるって、直感的にそう思いました」
「その直感、当たってましたね」
「はい。それも、私が予想していたよりも、ずっと大きな形で」
朝霧さんは、そう言って、優しく笑った。あの頃の、まだ何も持っていなかった自分を、こうして初期から見出してくれていた人がいたのだと思うと、胸の奥が、じんわりと温かくなった。あの人気最下位の黄色い機体を選んだあの日の決断が、こんな確かな縁にまで繋がっていたのだと思うと、なんとも不思議な感慨があった。
「あの、ありがとうございます……なんて言えばいいのか、正直、うまく言葉が見つからないです」
思わず、そう零す。朝霧さんは、優しく首を振った。
「お礼を言われるようなことでは、ないんです。あの時の直感を、信じてみただけなので」
その飾らない言葉に、俺は、なんだか胸の奥が熱くなるのを感じた。
「実は、俺も、朝霧さんに、ちゃんと伝えたいことがあったんです」
思わず、そう切り出す。朝霧さんは、少し驚いたような顔で、俺を見つめた。
「最初の頃、俺、正直、自分に自信なんて全然なかったんです。それでも、朝霧さんが、いつも変わらず、丁寧に接してくれたから、なんとかここまでやってこれた気がします」
「楓さん……」
「だから、その、ありがとうございます。改めて、ちゃんと言葉にして伝えたかったんです」
「こちらこそ、こうして直接、気持ちを伝えてもらえて、本当に嬉しいです。担当として、これほど報われる瞬間は、なかなかないので」
その言葉に、俺は、思わず、また照れくさくなってしまった。声だけの関係だった頃には、決して感じることのなかった、確かな温もりが、今、この部屋の中に満ちているような気がした。窓から差し込む午後の光も、いつもより柔らかく、部屋全体を包み込んでいるように感じられた。
その後、しばらくの間、他愛のない話で盛り上がった。配信の裏話、これまでの企業案件の思い出話、それから、朝霧さん自身の仕事にまつわる苦労話。声だけの関係では、決して知ることのできなかった、朝霧さんの色々な一面に、俺は、素直に驚かされ続けていた。
「そういえば、配信で、俺、朝霧さんの名前、結構そのまま出しちゃってますよね……前にも、それとなく言われた気がするのに、ちゃんと直せてなくて、すみません」
ふと思い出して、俺はそう切り出した。朝霧さんは、少し困ったように、それでいて優しく笑った。
「正直に言うと、最初の頃は、何度か、直していただけないかとお願いしていたんです。それでも、るかさんが、あまりにも自然に、悪気なく呼んでしまうので……最近は、もう諦めています」
「あ……すみません」
「いえ、別に、悪いことをされているわけではないので。ただ、良いことでもない、というだけで」
朝霧さんの、そのどこか達観したような一言に、俺は、思わず、苦笑いを浮かべてしまった。
「実は、この仕事に就く前は、まったく違う業界にいたんです」
「え、そうなんですか?」
「はい。それでも、配信者という存在を、もっと近くで支えたいと思って、思い切って転職したんです。当時は、周りにずいぶん心配されました」
「そうだったんですね……なんか、意外です」
「よく言われます。それでも、今となっては、あの時の決断は、間違っていなかったと、胸を張って言えます」
朝霧さんの、そんな意外な過去に、俺は、思わず、興味津々になって身を乗り出した。仕事の話一つとっても、こんなにも知らないことばかりだったのだと、改めて実感させられる。
「大変だったこと、他にもいっぱいありそうですね」
「もちろんです。それでも、大変だった分だけ、こうして誰かの成長を間近で見届けられた時の喜びも、大きくなる気がします」
朝霧さんの、そのまっすぐな言葉に、俺は、なんだか、この人の仕事に対する真摯さを、改めて実感させられた。
気がつけば、外はすっかり夕暮れに染まっていた。
「そろそろ、お暇しますね。今日は、貴重なお時間、本当にありがとうございました」
玄関先まで見送りに出ると、朝霧さんは、丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、わざわざ来ていただいて、ありがとうございました」
俺も、深く頭を下げ返す。それでも、朝霧さんは、靴を履き終えた後、少しだけ、その場に留まった。
「楓さん、この度は、PV撮影のお話、引き受けてくださって、本当にありがとうございます。撮影日程が決まり次第、また改めてご連絡しますね」
「あ、はい……こちらこそ、よろしくお願いします」
そう答えながらも、俺の胸の中には、確かな緊張と、それでいて小さな期待のようなものが、同時に渦巻いていた。知らない場所へ、実際に足を運ぶ。その一歩が、これから自分にとって、どんな意味を持つことになるのか、その時の俺には、まだはっきりとはわかっていなかった。
「あの、これも何かの縁だと思うので、これから先も、無理のない範囲で、色々なことに挑戦していってくださいね」
その一言に、俺は、思わず、言葉に詰まった。何気ない一言のようで、その奥に、確かな何かが込められているような、そんな気がした。
「あ、はい……ありがとうございます」
うまく言葉が返せないまま、俺は、そう頷くことしかできなかった。朝霧さんは、静かに微笑むと、玄関を後にした。遠ざかっていくその後ろ姿を、俺は、しばらくの間、見送り続けていた。
閉まったドアを、俺は、しばらくの間、じっと見つめ続けていた。撮影当日、自分は、ちゃんと落ち着いていられるだろうか。不安は、正直、まだ拭いきれなかった。それでも、あの一言だけは、なぜか、いつまでも耳の奥に、静かに残り続けていた。
自室に戻る前、リビングを覗くと、母さんが、片付けをしながら、ふと声をかけてきた。
「朝霧さん、いい人だったね」
「うん、そうだね」
「楓のこと、本当に大事に思ってくれてるのが、話し方だけでも伝わってきたよ」
母さんの、その率直な感想に、俺は、思わず、素直に頷いた。
自室に戻り、ベッドに横になりながら、俺は、今日一日の出来事を、ゆっくりと振り返っていた。声だけの関係だった朝霧さんが、確かに、この目で見て、この耳で聞いた、一人の人間になった。その事実だけで、なんだか、世界が少しだけ広がったような、そんな感覚があった。
【朝霧美咲視点】
訪問の前日、私は、何度も、明日の会話の内容を、頭の中でシミュレーションし続けていた。仕事柄、様々な相手と対面してきたはずなのに、こんなにも緊張するのは、久しぶりのことだった。
今回持参する資料も、あえて、見せる順番にこだわって準備していた。まずは、高いハードルのお話から。その反応を見ながら、少しずつ、ちょうど良い落としどころを探っていく。楓さんが、どこまでなら踏み出せるのか。それを、正面から尋ねるよりも、実際の選択肢を通して、ご本人に確かめてもらう方がいいと思った。海洋マップ関連のPVの件についても、事前に、先方には楓さんの事情をお伝えした上で、急かさない形で進めさせてもらえるよう、念入りに調整を済ませておいた。
思えば、この仕事に就いたのは、配信者という存在を、もっと近くで支えたいという、単純な憧れがきっかけだった。実際に働き始めてみると、華やかな部分だけでなく、地道な調整や、時には厳しい交渉ごとも、数多く経験することになった。それでも、その一つ一つの積み重ねが、今の自分を確かに形作っているのだと思う。
るかさんの正体――楓さんという、一人の青年。声だけの関係が、ようやく、確かな形を持つことになる。それが、嬉しくもあり、同時に、少しだけ怖くもあった。実際に顔を合わせることで、何か大切なものが変わってしまうのではないか。そんな漠然とした不安も、正直、拭いきれなかった。
電車に揺られながら、私は、窓の外を流れる景色を、ぼんやりと眺めていた。手元のバッグには、事前に用意しておいた資料と、それから、念のため買っておいた手土産が入っている。こんなにも念入りに準備をするのは、いつぶりだろうかと、思わず苦笑いが漏れた。
あの騒動の最中、社内では、本当に、様々な声が飛び交っていた。「契約を見直すべきだ」という慎重な意見も、決して少なくはなかった。それでも、私だけは、るかさんを信じ続けたいと思っていた。あの純粋な戦いぶりを、間近で見続けてきた身として、これが不正であるはずがない。そう確信していたからだった。
正直、誰にも打ち明けられない、孤独な確信だった。それでも、こうして「仕様です」という形で、最終的な決着がついた今、あの頃の想いが、決して間違っていなかったのだと、確かに証明された気がしていた。
この仕事をしていて、一番嬉しいのは、こうして誰かの成長を、間近で見守れる瞬間だと思う。華やかに見える配信者という仕事も、その裏側には、数え切れないほどの努力と、時には孤独な葛藤が隠れている。それを知っているからこそ、少しでも力になりたいと、いつも心から思っていた。
訪問当日、玄関のドアが開いた瞬間、そこに立っていたのは、想像していたよりもずっと、繊細そうな青年だった。あの明るい配信の声とは、また違う、静かな佇まい。それでも、確かに、あの声の持ち主だと、すぐにわかった。
驚きや戸惑いは、不思議と、まったくなかった。むしろ、ようやく本当の姿に会えたという、確かな安堵感の方が大きかった。あの、少し伏し目がちな仕草も、言葉を選びながら話す慎重な話し方も、確かに、あの配信の中の楓さんと、どこか重なって見えた。演じているようでいて、根っこの部分は、きっと何一つ変わっていないのだろう。
リビングで、あの発見の瞬間の記憶を、正直に打ち明けた。少し、話しすぎてしまったかもしれない。それでも、楓さんの、あの驚いたような、それでいて確かに嬉しそうな表情を見て、話して良かったと、心から思えた。
それにしても、と私は思う。オファーを一つ一つ確認していく間、楓さんは、終始、緊張した様子だった。それでも、母親の存在に支えられながら、一つ一つ、自分の言葉で、丁寧に答えを返してくれていた。あえて難しい選択肢から見せる、という今回のやり方が、果たして正解だったのかどうか、正直、確信は持てないままだった。それでも、最後のPV撮影の話を、あの子自身の意思で「やってみます」と引き受けてくれた瞬間は、正直、胸が熱くなった。あの怖がりな楓さんが、自分の足で、新しい一歩を踏み出そうとしている。その姿を、間近で見届けられたことが、何よりも嬉しかった。
楓さんの方からも、思いがけず、感謝の言葉をもらえたことは、正直、想像していなかった。担当として、これまで支え続けてきたつもりだった相手から、こうして真っ直ぐに気持ちを返してもらえる。それは、この仕事を続けてきて、何よりの励みになる出来事だった。
帰り際、玄関先で、私は、最後にもう一言だけ、付け加えることにした。この度の縁も何かの巡り合わせだと思うので、これから先も、無理のない範囲で、色々なことに挑戦していってほしい。そんな思いを、率直な言葉に込めて、楓さんに伝えた。
その言葉に、楓さんは、少し驚いたような顔をした後、静かに頷いてくれた。その反応の意味を、その時の私は、正確には理解していなかった。それでも、なぜか、その一言だけは、どうしても伝えておきたかった。
帰り道、夕暮れの空を見上げながら、私は、今日という日を、改めて振り返っていた。ずっと画面越しでしか知らなかった相手と、こうして直接言葉を交わせたことは、私にとっても、かけがえのない経験になった。
これから先も、あの人らしいペースで、確かに前へと進み続けてくれますように。私は、そんな願いを、静かに、心の中で呟いていた。
声だけの関係から、確かな形を持った関係へ。今日という日を境に、私自身の中でも、何かが静かに変わり始めているような、そんな予感があった。これから先、あの人が、どんな景色を見せてくれるのか。それを、これからも、担当として、そして一人の理解者として、見届け続けたいと思った。




