33.近づく影
朝、いつも通り目を覚まし、階下に降りる。母さんはキッチンで朝食の準備をしていた。
「おはよう、楓」
「おはよう」
あっさりとした挨拶を交わしながら、朝食を済ませる。予選も、いよいよ大詰めを迎えていた。俺は相変わらず、いつも通りのペースで、防衛戦と予選対戦をこなし続けていた。窓の外は今日もよく晴れていた。
朝食を済ませ、自室に戻る。ヘッドセットを手に取りながら、俺は小さく伸びをした。今日もまた、いつも通りの一日になるはずだった。それでも、この日を境に、少しずつ空気が変わり始めていることに、俺はまだ気づいていなかった。
「みなさん、おはようございます! 今日で予選も一区切りみたいです」
画面の隅の登録者数にも、ふと目をやる。数字は今日も、着実に伸び続けていた。予選という新しい舞台に立ってからというもの、その伸び方にも、以前とは違う勢いが感じられた。
配信を開始すると、コメント欄には、いつも通りの温かい挨拶が並んだ。
【コメント】おはよう
【コメント】予選お疲れ様、あと少しだね
【コメント】そういえばCode-Xさんの新しい動画、また出てたよ
【コメント】あの人、更新頻度もすごいよな
「え、また新しいのが出てるんですか? ちょっと確認してみますね」
最近では、Code-Xの新作動画が出るたびに、こうして確認するのが、ちょっとした日課のようになっていた。自分に関する話題のはずなのに、まるで連載小説の続きを追いかけるような、そんな不思議な感覚だった。
教えてもらったリンクを開いてみると、Code-Xの落ち着いた声が流れ出した。今回の動画は、これまでの考察をさらに一歩進めた内容になっていた。
「潜水判定説を前提に、被弾記録とダメージ判定のログを、改めて時系列で並べ直してみた。すると、ある一つの共通点が浮かび上がってきた」
動画の編集は、以前にも増して丁寧に作り込まれていた。画面には、これまでの戦闘記録を整理したグラフのようなものが映し出されていた。
「パイルバンカーによる一撃には、毎回、通常ではあり得ない威力の上乗せが発生している。これは、本来クリティカルの概念が存在しないはずの大型武器カテゴリにしては、極めて不自然な現象だ」
淡々とした口調の中に、確かな熱量が滲んでいた。画面の切り替わりとともに、これまで蓄積されてきた膨大なデータの一覧が表示された。動画はさらに続き、過去数十回分の戦闘データを比較検証する様子が映し出されていく。
「一つ一つのデータを見れば、単なる偶然のようにも思える。それでも、これだけの回数、同じ現象が繰り返されているとなると、話は変わってくる。何らかのシステム的な要因が、常に一定の条件下で作用していると考える方が、はるかに自然だ」
俺は思わず身を乗り出した。
「なんか、どんどん核心に近づいてる気がします……」
呟きながら、俺は妙な緊張感を覚えていた。他人事のはずなのに、この考察が進むたびに、自分の内側にある何かが、少しずつ暴かれていくような、そんな感覚があった。
【コメント】これはガチで運営側の技術者レベルの分析だな
【コメント】Code-Xさん、もはやプロの領域
【コメント】でも本人はあんまりピンと来てないの草
軽口交じりのコメントに、俺は苦笑した。
「いや、本当にすみません。言われてる内容の半分くらいしか理解できてないです」
正直な告白に、コメント欄がまた賑やかに反応する。それでも、この温度差込みで、視聴者たちは楽しんでくれているようだった。
それでも、確かなことが一つあった。この考察が、少しずつ、これまで自分でも気づいていなかった何かに近づいているという実感だった。
自分自身のことなのに、他人の手によって少しずつ明らかにされていく。この奇妙な感覚に、俺はいまだに慣れることができずにいた。それでも、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、真相にたどり着く日を、どこか楽しみにしている自分すらいた。
防衛戦の通知が届き、俺はいつも通り、担当エリアへ向けて歩き出す。道中、討伐対象の反応が視界に浮かび上がった。いつも通り両腕を構え、迫る一撃を受け止める。
「インパクトスマッシャー!」
いつも通りの一撃で、敵の姿が崩れ落ちる。続けて現れた二体目、三体目にも、同じ要領で対処していく。この技名を叫ぶたびに、今では自然と、あの考察のことが頭をよぎるようになっていた。自分の何気ない一撃の裏に、こんなにも複雑な仕組みが隠れているとは、いまだに実感が湧かない。
【コメント】この一撃の裏にそんな仕組みがあるとは
【コメント】本人が一番実感なさそうなの草
【コメント】でも確かに言われてみれば毎回同じ威力出てるよな
軽口交じりのコメントを眺めながら、俺は思わず苦笑した。自分にとっては当たり前になっていたはずの一撃が、こうして分析されるたびに、新しい発見のように感じられる。
予選対戦も、一つ順調に終えることができた。対戦相手との簡単な挨拶を交わし、俺は拠点への帰路についた。今日もまた、いつも通りの一日が過ぎていく。そう思っていた矢先のことだった。
拠点に戻る途中、俺はふと、コメント欄の空気が、少しだけ変わっていることに気づいた。
【コメント】潜水判定説、盛り上がってるのはいいけど、なんか変な方向に発展してる人もいるよな
【コメント】あれは無視でいいと思う
【コメント】一部の過激な人たちが、また変なこと言い出してる感じ
「え、なんかそういう話もあるんですね……」
詳しく聞いてみようとしたが、コメントはそれ以上詳しく語られることなく、話題は自然と移り変わっていった。それでも、「過激な人たち」という言葉の響きが、なぜか耳の奥に残り続けた。これまで経験してきた炎上とは、また少し違う種類の不穏さを、俺はそこに感じ取っていた。
【コメント】あんまり気にしない方がいいよ
【コメント】一部の声がでかいだけだから
【コメント】るかは今まで通りでいて
視聴者たちの気遣いに、俺は素直に感謝しながらも、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。それでも、具体的に何が起きているのかもわからないまま、深く気にせず、いつも通り配信を続けた。
振り返ってみれば、これまでも似たような予感を覚えたことが、何度かあった気がする。そのたびに、なんとか乗り越えてきた。今回もきっと、同じように乗り越えられるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は残りの配信時間を、いつも通りの調子で過ごしていった。
配信の合間、朝霧さんから短いメッセージが届いた。「Code-Xさんの新しい動画、拝見しました。分析の精度がさらに上がっていますね。ただ、一部のSNS上で、少し過激な言説も見られ始めています。念のため、こちらでも注視しておきます」という一文だった。
「あ、朝霧さんも気づいてたんですね……なんか、私も少し気になってました」
返信を打ちながら、俺は漠然とした不安を覚えていた。それでも、具体的に何が起きているのか、この時点ではまだ、はっきりとはわからないままだった。
このまま何も聞かずに終わらせるのは、なんだか落ち着かなかった。もう少し詳しく聞いてみようと、俺は返信を続けた。
「あの、その過激な言説っていうのは、具体的にどんな感じなんですか?」
「今のところ、まだ特定の個人や団体を名指しできるほどの規模ではありません。ただ、一部で不穏な動きがあるのは事実です。何か大きな進展があれば、必ずすぐにお伝えします」
「そういうのって、事前に防ぐことってできないんですか?」
「正直なところ、完全に防ぐのは難しいです。ただ、こちらでも継続的にモニタリングを行っていますので、何か動きがあれば、早期に察知できる体制は整えています」
「わかりました……なんか、急に怖くなってきました」
声が、思っていたより小さく震えていた。これまで経験してきた炎上とは、また違う種類の怖さが、そこにはあった。
「大丈夫です。何かあっても、るかさんを守るのが私の仕事ですから」
力強いその一言に、俺は少しだけ安堵した。それでも、胸の奥の不安は、完全には消えてくれなかった。誰かが守ってくれているという安心感と、それでも拭いきれない漠然とした恐怖。その両方を抱えたまま、俺は通話を終えた。
配信を終え、いつものように現実へと戻る。夕食の席で、母さんが尋ねてきた。
「楓、今日は何か気になることでもあった? なんか、ちょっと考え込んでる顔してるけど」
「うーん、なんか、うまく言えないんだけど……ちょっと嫌な予感がするというか」
箸を止めて、俺は言葉を選びながら、正直な気持ちを吐露した。具体的な根拠は何もない。それでも、この胸の奥のざわつきだけは、確かなものとして存在していた。
「そう。無理に言葉にしなくていいから、気をつけてね」
母さんの気遣いに、俺は小さく頷いた。具体的な言葉にできないその予感が、この先、どんな形を取ってくるのか。この時の俺には、まだ知る由もなかった。
「何かあったら、いつでも話してね。無理に一人で抱え込まなくていいから」
「うん、ありがとう」
母さんの優しさに、俺は改めて救われる思いだった。言葉にならない不安を、無理に言葉にさせようとせず、ただそこにいてくれる。その距離感が、今の自分には何よりありがたかった。
母さんのその一言に、俺は改めて安心感を覚えた。言葉にできない不安を抱えていても、こうして見守ってくれる存在がいるというだけで、随分と心が軽くなる。
食後、部屋に戻ってから、俺はもう一度、今日の出来事を振り返ってみた。潜水判定説はさらに核心に近づき、予選も順調に進んでいる。それなのに、心のどこかに、拭いきれない小さな違和感が残り続けていた。
スマホを開いて、SNSのタイムラインを軽く眺めてみる。表面上は、いつも通りの賑やかさだった。それでも、意識して探してみると、確かに以前とは少し違う種類の投稿が、ちらほらと目についた。攻撃的とまでは言えないまでも、どこか棘のある物言い。その数は、まだそう多くはない。それでも、確実に増え始めているような気がした。
ベッドに横になり、天井を見上げる。この違和感の正体を、俺はまだ言葉にすることができなかった。それでも、何かが少しずつ動き出しているような、そんな予感だけは、確かに感じ取っていた。
これまでの日々を振り返れば、良いことも悪いことも、いつも唐突にやってきた。今回もまた、その繰り返しの一つに過ぎないのかもしれない。それでも、この漠然とした不安だけは、これまでとは少し違う質のものであるように感じられた。
スマホの画面を閉じて、俺は静かに目を閉じた。明日、この予感がどんな形を取るのか、今はまだ、何もわからないままだった。それでも、どんな形であれ、いつも通り、目の前のことに向き合っていくしかない。そう自分に言い聞かせながら、俺はゆっくりと眠りに落ちていった。
【神代レン視点】
自分の配信のコメント欄に、見慣れない言葉が増え始めていることに気づいたのは、数日前のことだった。
あの完敗の日から、俺の中では、既に一つの結論が固まりつつあった。これだけ話題になった対戦で、運営がこの期間、何も対応しないというのは、感情を抜きにして考えれば、意図的な不正である可能性は低い。おそらくは、パッシブ系のスキルが原因で、何らかの崩し方があるのだろう。そう自分なりに納得し、少しずつ、以前ほどの敵意を抱かなくなっていた。
それなのに、俺のファンたちの熱量は、そんな俺の変化とは裏腹に、むしろ増していく一方だった。
最初は、単なる熱心な応援コメントだと思っていた。それが次第に、明らかに度を越した内容へと変わっていった。「るかは絶対にチートだ」「証拠を集めて突きつけてやる」「レンさんの代わりに俺たちが動く」――そんな言葉が、俺の配信のコメント欄に、次々と書き込まれるようになっていた。
最初のうちは、軽く受け流していた。誰しも、応援する対象のために熱くなることはある。それ自体は、悪いことではない。応援してくれる気持ち自体は、素直にありがたいと思っていた。
それでも、その熱量が、次第に危うい方向へと傾いていくのを、俺は肌で感じ始めていた。
「るかの配信、切り抜いて編集すれば、いくらでも悪く見せられる」
「決定的な証拠、俺が作ってやる」
そんな書き込みを目にした瞬間、俺は思わず画面の前で固まった。冗談で済ませられるレベルを、明らかに超えている。画面越しにもかかわらず、俺は思わず息を呑んでいた。
「……おい、待て」
誰にともなく呟きながら、俺はコメント欄に向けて、はっきりとした言葉を打ち込んだ。
「証拠の捏造は絶対にやめろ。俺はそんなことを望んでいない」
自分なりに、はっきりと釘を刺したつもりだった。この程度の一言で、事態が収まってくれることを、俺は密かに期待していた。それでも、コメント欄の熱量は、そう簡単には収まらなかった。
「レンさんは優しすぎる」
「俺たちがレンさんの代わりに戦う」
好意的なはずの言葉が、今はどうしようもなく不気味に響いていた。応援という名の下に、いつの間にか歯止めが利かなくなっている。その様子を目の当たりにして、俺は言いようのない焦燥感を覚えていた。誰かのために、と信じて疑わない行動が、時として一番厄介な暴走に繋がることがある。そのことを、俺は今、目の当たりにしていた。
正直なところ、俺はもう、るかのことをチートだとは思っていなかった。あの理不尽な敗北の後、冷静に状況を整理すればするほど、意図的な不正である可能性は薄いという結論に、自分自身、辿り着いていた。それでも、その考えを、まだ公の場で明言する勇気は持てずにいた。時間が経てば経つほど、その一歩を踏み出すハードルは、むしろ高くなっていく気がしていた。
宣戦布告をした時の自分と、今の自分。考えが変わったことを認めるのは、簡単なようでいて、実はとても難しい。プライドという厄介な感情が、素直な発言を邪魔してくる。それでも、いつまでもこのままでいいはずがないことも、頭ではわかっていた。
努力を積み重ねてきた人間として、間違いを認めることの重要性は、誰よりも理解しているつもりだった。それでも、いざ自分自身のこととなると、なかなか一歩を踏み出せずにいる。この矛盾に、俺は密かに苦しんでいた。
自分の言葉一つで、これまで積み重ねてきたファンとの関係が、大きく揺らいでしまうかもしれない。そんな臆病な計算が、頭のどこかにあったことは、否定できなかった。これまで応援してくれた人たちを、突然裏切るような形になりはしないか。そんな不安が、俺の口を重くしていた。
それでも、今日目にしたあの書き込みは、看過できるものではなかった。証拠を捏造するという行為は、俺が最も嫌悪してきた種類の不正そのものだった。それを、自分を応援してくれているはずの人間がやろうとしている。この事実に、俺は強い憤りを覚えずにはいられなかった。
「一度、はっきりさせておかないといけないな……」
深く息を吐きながら、俺はその決意を、改めて自分の中で固めた。
誰にともなく呟きながら、俺は次の配信で、この件について、きちんと言及することを決意した。ファンの暴走を、これ以上放置するわけにはいかない。それは、自分自身の信念を守るためでもあった。
これまで積み上げてきた努力を、こんな形の不正行為に利用されるくらいなら、多少ファンを失うことになったとしても、正しいことを正しいと言うべきだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は配信の構成を練り始めた。
どこまで具体的に踏み込むべきか、どんな言葉を選ぶべきか。台本のようなものを書いては消し、書いては消しを繰り返す。これほど言葉選びに悩んだのは、これまでの配信活動の中でも、初めてのことだった。
それでも、心のどこかで、小さな不安も残っていた。もし自分の言葉が、事態をさらに悪化させてしまったら――そんな懸念を抱えながら、俺はその夜、なかなか寝付けずにいた。
寝返りを打ちながら、天井を見上げる。俺はこれまでの自分の行動を、改めて振り返っていた。宣戦布告、完敗、そして今回のこの決意。すべてが、自分なりに正しいと信じた選択の積み重ねだった。それでも、その一つ一つが、こんなにも大きな波紋を広げていくとは、正直、想像していなかった。
あの日、勢いのままに宣戦布告をした自分を、今更ながら少し恨めしく思う。それでも、あの時の自分がいなければ、今の自分もまた存在しなかったはずだ。後悔と、それでも前を向くしかないという覚悟。その両方を抱えながら、俺は自分の選択を、静かに受け止めようとしていた。
努力というものの意味を、俺はこれまで、ずっと自分なりに信じてきた。それが今、思わぬ形で試されている。この試練を、どう乗り越えていくか。それもまた、これからの自分にとって、大切な課題の一つになるのだろう。
明日の配信で、自分がどんな言葉を選ぶべきか。何度もシミュレーションを繰り返しながら、俺はその夜を過ごした。
強すぎる言葉は、かえって反発を招くかもしれない。かといって、曖昧な言い方では、伝えたいことが伝わらない。バランスの取れた、それでいて誠実な言葉を選ぶ必要があった。何度も台詞を練り直しながら、俺は少しずつ、明日への覚悟を固めていった。




