32.桜庭の記憶
朝、いつも通り目を覚まし、階下に降りる。母さんはキッチンで朝食の準備をしていた。
「おはよう、楓」
「おはよう」
あっさりとした挨拶を交わしながら、朝食を済ませる。予選も、後半戦に差し掛かっていた。俺は相変わらず、防衛戦と予選対戦を行き来しながら、いつも通りの配信を続けていた。
テーブルの上に置かれたスマホの画面には、いつの間にか、たくさんの通知が溜まっていた。何気なく目をやると、そのほとんどが、あの考察動画に関連するものだった。
「なんか、最近やたら通知が多いんだよね……」
誰に言うでもなく、そう呟く。母さんは、味噌汁をよそいながら、軽く肩をすくめてみせた。
「楓が有名になった証拠じゃない?」
「いや、なんか、そういうのとはちょっと違う気がするんだけどな……」
曖昧に笑いながら、俺は箸を進めた。
朝食を済ませ、自室に戻る。ヘッドセットを手に取りながら、俺は小さく伸びをした。今日もまた、いつも通りの一日が始まる。そんな予感を抱きながら、俺は配信の準備を進めた。
「みなさん、おはようございます! 今日も予選、頑張っていきますよ」
配信を開始すると、コメント欄には、いつも通りの温かい挨拶が並んだ。
【コメント】おはよう
【コメント】潜水判定説、あれからも話題続いてるね
【コメント】Code-Xさんの動画、再生数すごいことになってる
「へえ、そんなに伸びてるんですね……なんか、自分のことなのに実感湧かないです」
画面の隅の登録者数にも、ふと目をやる。数字は今日も、着実に伸び続けていた。この考察の盛り上がりも、その伸びに一役買っているのかもしれない。そう思うと、複雑な気持ちが胸をよぎった。
「あ、そういえば、Code-Xさんの動画、俺もまだちゃんと見てなかったです。ちょっと覗いてみますね」
軽い気持ちでそう言いながら、俺は配信画面の隅に、その動画のサムネイルを表示させてみた。「潜水艦型機体」「隠密判定」といった文字が、次々と目に飛び込んでくる。
「うーん、なんか難しい単語がいっぱい……」
動画の内容自体は、正直あまりピンとこなかった。それでも、こうして自分の知らないところで、誰かが真剣に自分のことを分析してくれているという事実に、なんとも言えない不思議な気持ちが込み上げてきた。
【コメント】これ見てもわからないの逆にすごい
【コメント】るからしいと言えばるからしいけど
【コメント】本人が一番謎に包まれてるの草
「いや、みなさんの方が詳しいんじゃないですか、これ……」
思わず苦笑しながら、俺はそう返した。
軽口を返しながら、俺は防衛戦の通知に従って歩き出した。道中、討伐対象の反応が視界に浮かび上がる。いつも通り両腕を構え、迫る一撃を受け止めた。
「インパクトスマッシャー!」
いつも通りの一撃で、敵の姿が崩れ落ちる。続けて現れた二体目にも、同じ要領で対処していく。ガードして、踏み込んで、殴る。この単調な繰り返しの裏で、今日もまた、誰かが自分の知らない真実に近づいているのかもしれない。そう思うと、なんだか奇妙な気分だった。
予選の対戦も、一つ順調にこなすことができた。対戦相手のプレイヤーは、開始前から落ち着いた様子で、丁寧に一礼してから構えを取ってくれた。実力も申し分なく、序盤はかなり押される場面もあったが、最終的にはいつも通りの流れで決着がついた。
相手のプレイヤーは終始丁寧な態度を崩さず、対戦後も「良い試合でした」と声をかけてくれた。以前のような、殺伐とした空気は、もうほとんど感じられなくなっている。むしろ、対戦相手として真剣に向き合ってくれる姿勢に、俺は素直に感謝の気持ちを抱いていた。
「ありがとうございました! すごく勉強になりました」
そう声をかけると、相手は少し驚いた様子を見せたあと、小さく笑って頷いてくれた。
「こちらこそ、勉強させてもらいました。噂には聞いていましたが、実際に戦ってみると、想像以上でしたね」
その一言に、俺は思わず照れくさくなった。
「いや、なんか、そんな大したことしてないと思うんですけど……」
「いえ、その謙虚さも含めて、るかさんらしいなと感じました。また機会があれば、ぜひお手合わせ願いたいです」
相手はそう言い残すと、静かに一礼して、その場を後にした。こういう何気ないやり取りの積み重ねが、予選という舞台を、少しずつ自分にとって身近なものに変えてくれている気がした。
配信の合間、ハチからメッセージが届いた。
「るかちゃん、予選順調そうだね! このまま本戦も行けそう?」
「あ、ハチさん! なんとか一つずつ勝ち進んでます。まだ実感湧かないですけど」
メッセージを打ちながら、俺は改めて、ここまで積み重ねてきた予選の道のりを振り返っていた。一つ一つの対戦を、いつも通りのやり方で乗り越えてきただけなのに、気づけば随分と遠くまで来ている気がする。
「るかちゃんらしいなあ。まあ、そのマイペースさが強みなんだろうね」
「そう言ってもらえると、なんか安心します」
電話越しの気軽なやり取りに、俺は改めて、こういう存在のありがたさを噛み締めていた。誰かがそばで支えてくれているという実感が、大きな舞台への不安を、少しずつ和らげてくれている。
「予選終わったら、また一緒に防衛戦回ろうよ。世界大会前の息抜きも大事だしね」
「ぜひお願いします! なんか、ハチさんと回るのが一番リラックスできる気がします」
「それはよかった。俺も、るかちゃんとの防衛戦、結構楽しみにしてるんだよね」
軽いやり取りに、俺は思わず頬が緩んだ。こうして気軽に励ましてくれる存在がいるだけで、大きな舞台への緊張も、少しずつ和らいでいく気がする。
「そういえば、あの潜水判定説の話、ハチさんはどう思ってるんですか?」
ふと気になって、俺はそう尋ねてみた。
「うーん、正直よくわかんないけど、るかちゃんがるかちゃんであることは変わらないと思うよ。難しいことはよくわかんないけど、一緒にいて楽しいのが一番だしね」
その言葉に、俺は思わず笑ってしまった。
「なんか、ハチさんのそういうところ、すごく助かります」
「そう? まあ、俺は俺のペースでやってるだけだから」
あっけらかんとしたその返答に、俺は改めて、この人と過ごす時間の心地よさを実感していた。
配信を終え、いつものように現実へと戻る。夕食の席で、母さんが尋ねてきた。
「楓、予選、順調なの?」
「うん、なんとか。まだ何試合か残ってるけど」
「そう、頑張ってるのね」
母さんの声には、いつも通りの穏やかな響きがあった。それだけで、俺は自然と肩の力が抜けていくのを感じた。
「うん。なんか、最初の頃と比べると、対戦相手の人たちの態度も随分変わった気がする」
箸を進めながら、俺はしみじみとそう呟いた。
「そうなの? どんな風に?」
「前は結構、警戒されてる感じがあったんだけど、最近はちゃんと対等に見てもらえてるっていうか」
母さんは、その話に静かに耳を傾けてくれていた。
「それは、楓が積み重ねてきたものが、ちゃんと伝わってるってことなんじゃない」
あっさりとした一言だったけれど、その温かさに、俺はいつも救われている。
食後、部屋に戻ってから、俺はもう一度、今日一日を振り返ってみた。潜水判定説という仮説が、少しずつ世間に浸透していく様子を、俺はどこか他人事のような気持ちで見守っていた。それでも、真相がどんな形であれ、いつか自分自身のことを、もっとちゃんと知る日が来るのかもしれない。そんな予感が、胸の奥に静かに残っていた。
これまでの人生では、自分自身のことを深く知ろうとする機会は、ほとんどなかった気がする。それが今、こうして誰かの手によって、少しずつ明らかにされていく。奇妙な巡り合わせだと思いながらも、俺はその過程を、不思議と嫌だとは感じていなかった。
あの動画で見た「潜水艦型機体」という言葉を、俺は改めて思い出した。イエローサブマリンという名前をつけたのは自分だけれど、その中身については、実はほとんど何も知らないのかもしれない。そう考えると、なんとも不思議な気持ちになった。
自分の機体のことすら、自分より詳しい人がいる。それは、少し悔しいような、それでいて、どこか安心するような、そんな複雑な感覚だった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。予選も、あと少しで終わりを迎える。その先に待つ世界大会という舞台のことを思うと、期待と不安が入り混じった、複雑な気持ちになった。
それでも、これまでの日々を思い返せば、いつも通り、なんとかなってきた。技術も戦略もないまま、ただ目の前のことに飛び込み続けてきた結果が、今のこの場所に繋がっている。世界大会も、きっと同じやり方で乗り越えられるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は静かに目を閉じた。明日もまた、いつも通りの一日が待っている。それだけで、今は十分だった。
【ARES Entertainment デバッグ担当 桜庭真琴(26歳)視点】
Code-Xと名乗る考察系動画投稿者の「潜水判定説」を目にしたとき、私は思わずデスクの上のコーヒーを取り落としそうになった。
朝の作業を始める前、いつものように業界内の動向をチェックしていた時のことだった。SNSのタイムラインに、その動画のサムネイルが流れてきた。何気なくクリックした瞬間、画面に映し出された考察の内容に、私は思わず息を呑んだ。
まさか、外部の人間がここまで肉薄してくるとは、正直想像していなかった。しかも、断片的な状況証拠だけを頼りに、これほど正確な仮説に辿り着くとは。プロの開発者でさえ、ここまで的確に問題の核心を言い当てるのは、そう簡単なことではない。
私は、しばらくの間、動画を繰り返し見返していた。「隠れる系の効果」「潜水艦型機体」「地上にいながら潜水中として扱われている可能性」。どの言葉も、これ以上ないほど核心に迫っていた。
シャドーダイビングというスキルを、潜水判定システムを流用する形で実装したのは、他でもない私自身だった。当時は、まだ海洋マップが実装される前で、開発優先度としては決して高くない案件だった。人手も時間も限られる中、既存の判定システムを流用することで、なんとか工数を抑えようとした。それが、あの実装だった。
振り返れば、あの判断が、すべての発端だったのかもしれない。それでも、当時の状況を思えば、他に取れる選択肢は、正直あまりなかった。締め切り、予算、人員。どれもが制約となって、日々の選択に重くのしかかる。あの日の自分もまた、そうした制約の中で、精一杯の判断を下しただけだった。
正式サービス開始前のプール移行処理で、誤ってこのスキルが初期ランダム付与プールに紛れ込んでしまった――その事実に気づいたのは、随分後になってからのことだった。
あの頃のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられるような感覚がある。プール移行の作業自体は、複数の部署が関わる、大規模で煩雑な工程だった。連日の深夜作業と、次々に積み上がるタスクリスト。あの頃の記憶は、今も鮮明に蘇ってくる。私が担当していたシャドーダイビングのデータも、本来であれば「開発中・未実装」のフラグが立てられ、除外リストに含まれているはずだった。それが何らかの手違いで、フラグの設定が漏れてしまっていた。原因を辿ろうとしたこともあったが、当時の作業ログは既に上書きされており、正確な経緯を特定することはできなかった。
気づいた時にはもう、既に何人かのプレイヤーに付与されてしまっていて、回収するにも、既に手にしたものを取り上げるわけにもいかず、結局そのまま放置する形になった。
それでも、まさかその「誤って付与されたスキル」を引き当てたプレイヤーが、こんな形で世界中の注目を集めることになるとは、当時の私には想像もつかなかった。数万分の一という、天文学的な確率の巡り合わせ。それが、よりによってこんな異常な結果を生み出す組み合わせになるとは、誰にも予測できるはずがなかった。
パソコンの画面に向き直り、私は深く息を吐いた。あの実装の詳細を思い出しながら、私はもう一度、自分の作業ログを引っ張り出してみた。潜水判定処理、無敵状態の終了処理、そしてクリティカル計算のロジック。どれもこれも、陸上・水中・空中を同一ロジックで処理する、物理演算エンジンの根幹部分に、複雑に絡み合っている。
コードを読み返しながら、私は当時の自分の判断を、改めて検証していった。潜水判定がオンになると、一定時間、被弾判定が無効化される。本来はそこから数秒後、自動的に判定が解除されるはずだった。それなのに、もし何らかの理由で、この解除処理が正しく機能していなかったとしたら――。
改めてコードの詳細を追っていくと、確かに、判定解除の条件式に、いくつかの想定していなかった分岐が存在することに気づいた。陸上・水中・空中という三つの環境を、同一のロジックで処理する設計自体が、そもそも無理を抱えていたのかもしれない。当時の自分は、その無理に気づかないまま、実装を進めてしまっていた。
今の技術力があれば、もっと丁寧な設計ができたかもしれない。それでも、当時の自分にできることは、限られていた。過去の自分を責めても、何も変わらない。今できることに集中しよう、と私は自分に言い聞かせた。
背筋に、冷たいものが走った。もしそうだとすれば、陸上にいながら、システム上はずっと「潜水中」の状態が続いていることになる。これは、単なる小さなバグでは済まされない、根深い問題だった。手が震えるのを感じながら、私はさらに詳しくコードを追い続けた。
もし本当に、あのプレイヤーの機体で、この判定が正しく終了処理されずに固定されてしまっているのだとしたら――その先に何が起きるかは、技術者としての直感で、ある程度予測がついた。
潜水判定が固定されたまま解除されないとすれば、被弾判定は常に無効化され続ける。さらに、この判定と連動して実装されていたクリティカル確定処理も、同様に固定されたままになっているとすれば――本来は大型武器カテゴリには適用されないはずのクリティカル倍率が、パイルバンカーのような武器にも、常時発動し続けている可能性がある。
これまで話題になっていた「常時無敵」「毎回発動する必殺の一撃」――そのすべてが、この一つのバグから説明できてしまう。パズルのピースが、恐ろしいほど綺麗に噛み合っていく感覚があった。
「……これは、報告しないと」
誰にともなく呟いて、私は白峰さんへの連絡先を開いた。これまで散々「また異常なし」を繰り返してきた彼に、ようやく具体的な手がかりを渡せるかもしれない。そう思うと、緊張と、ある種の高揚感が同時に込み上げてきた。
白峰さんとは、これまでも何度か情報交換をしてきた仲だった。生真面目で、常に慎重な彼のことだから、きっとこの報告書も、隅々まで丁寧に検証してくれるはずだ。そんな信頼が、私の中にはあった。
それでも、心のどこかで、複雑な感情も渦巻いていた。あの配信者――るかは、何も悪いことをしていない。ただ、偶然引き当てたスキルを、偶然の巡り合わせで使いこなしているだけだ。それなのに、こうして自分の実装ミスが、彼女を巡る大きな騒動の火種になっている。申し訳なさと、そしてどこか、彼女の逞しさへの敬意にも似た感情が、胸の中で入り混じっていた。
誰かを傷つけるつもりなど、微塵もなかった。それでも、意図せず誰かを傷つけてしまうことがある。それが、ものづくりに携わる人間の、避けられない宿命なのかもしれない。逃げ出したい気持ちがなかったと言えば嘘になる。それでも、逃げるという選択肢だけは、絶対に取りたくなかった。
メッセージを打ちながら、私はふと、あの必殺技命名企画の配信を思い出していた。無邪気に、まっすぐに、目の前のことを楽しんでいる、あの姿。自分の実装したバグが、こんな形で誰かの日常を彩っているのだとしたら――それもまた、悪くない巡り合わせなのかもしれない。そんなことを、柄にもなく考えてしまった。
技術者として、バグは本来、あってはならないものだ。それでも、あのバグがなければ、今のあの配信者の輝きも、生まれていなかったかもしれない。皮肉なようで、どこか救いのある巡り合わせに、私は複雑な感慨を抱かずにはいられなかった。
白峰さんへの報告書を書き上げながら、私は今後の対応について、頭の中で整理を進めていった。この事実を、どう扱うべきか。剥奪はできない。既に手にしたものを、本人の落ち度もないまま取り上げるのは、あまりにも理不尽だ。修正も、エンジンの根幹に関わるため、簡単にはいかない。下手に手を加えれば、他の機能にまで影響が及びかねない。だとすれば、残された選択肢は限られている。
一つ一つの選択肢を検討しながら、私は改めて、この問題の根深さを実感していた。技術的な修正が困難である以上、この状況とどう向き合っていくかは、もはや技術の問題ではなく、運営としての「姿勢」の問題になってくる。
隠し続けることも、一つの選択肢ではある。それでも、いずれ限界が来ることは目に見えていた。これだけ多くの考察者が、既に真相の周辺にまで迫ってきている。時間の問題で、いずれ誰かが核心に辿り着くだろう。だとすれば、運営側から、ある程度の透明性を持って対応する方が、長期的には賢明な判断のはずだった。隠し通そうとして後手に回るより、先手を打って誠実に向き合う方が、結果的に信頼を守ることに繋がる。それが、私なりの結論だった。
窓の外はすっかり夜になっていた。報告書の最後に、私は一つの提案を書き添えることにした。「この件については、いずれ然るべきタイミングで、透明性を持って対応を検討すべきではないか」。それが、技術者としての、そして一人の人間としての、私なりの誠意だった。
深呼吸を一つして、私は送信ボタンをクリックした。これで、この件は白峰さんの手に委ねられることになる。あとは、運営全体として、どういう判断が下されるのか。それを見守ることしか、今の私にはできなかった。
オフィスの明かりを落としながら、私はもう一度、あの配信のことを思い浮かべた。どうか、これから先も、あの人らしい配信を、変わらず続けていってほしい。そんな、開発者としては少し場違いな願いを、私は密かに抱いていた。




