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ZERO-DAY ONLINE ~チュートリアルを飛ばしたら不人気機体で世界最強になってました~  作者: 白い鴉


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3/24

3.チュートリアル、始めます

```

ZERO-DAY

チュートリアルを開始しますか?


      [チュートリアル開始] [スキップ]

```


 目の前に浮かぶ、二つの選択肢。


 俺は椅子に座り直し、姿勢を正した。ここからが本番だ。ゲームの基本を学んで、それから実戦。初配信の流れとしては、たぶん王道のはず。深呼吸をひとつ。手のひらの汗を、そっとズボンで拭う。


「よーし、ちゃんとチュートリアルからやりますよ! 変な操作ミスとかしないように、ね!」


 配信を意識して、いつもより少しだけ声を張る。我ながら、けっこう「るか」っぽく言えた気がする。


 ……このときコメント欄に「フラグ」という単語が流れていたことに、俺はまだ気づいていなかった。


【コメント】その発言がフラグ

【コメント】絶対事故る

【コメント】見た事あるやつだ


「なになに、みんな信用ないなー! ちゃんとやりますって!」


 少し拗ねたように口を尖らせてみせる。実際に拗ねてるわけじゃなく、配信用のリアクションのつもりだ。慣れないなりに、少しずつ「るか」としての振る舞いが板についてきた気がする。


 ふと、選択肢の周りに小さな説明アイコンが浮かんでいるのに気づいた。指先で軽く触れてみると、「チュートリアルでは基本操作・変形システム・武器の扱いを学べます」という一文が表示される。


「へー、変形とかもあるんだ。ふむふむ」


【コメント】ベータテスト参加してたけど、チュートリアルそこそこ長いから覚悟した方がいいよ

【コメント】↑親切なベータ勢だ

【コメント】チュートリアルだけで一通りの操作は覚えられるように作られてるらしい


「あ、ベータテストの人だ! 情報ありがとうございます! ちゃんと聞いておきますね!」


 律儀にお礼を言いつつも、その助言をきちんと覚えておく気は、正直あまりなかった。


 読んだそばから、内容はほとんど頭に残っていなかった。それでも、なんとなく「ちゃんと読んだ気」にはなれる。それで十分だった。長々とした説明文を最後まで目で追う集中力には、正直、昔から自信がない。


 小学生の頃、新しいゲームを買ってもらうたびに、説明書を放り出して電源を入れる子供だった。母さんに「説明書くらい読みなさい」と言われても、「触ればわかるもん」と返して、実際なんとかなってきた。テストの問題文すら最後まで読まずに、設問の意図を勘で当てにいくタイプだった。当たることも外れることも半々だったけど、外れても「まあいっか」で流してきた。そういう人間が、大人になったからって急に説明を読むようになるわけがない。


【コメント】読んだ気になってるだけで草

【コメント】絶対頭に入ってない


「うるさいなー! ちゃんと見てるって!」


 軽口を返しながら、視界の端に浮かぶ他のアイコンにも、何気なく触れてみた。装備欄、ステータス欄、マップ表示――どれもまだ空欄か初期値のままで、詳しいことは何もわからない。


「うわ、これも項目多いなぁ。まあ、チュートリアルでちゃんと教えてもらえばいいか」


 そう独りごちて、ウィンドウを閉じる。今はまだ焦らなくていい。これから始まるチュートリアルで、必要なことは一通り学べるはず――このときの俺は、それを一ミリも疑っていなかった。


「あ、そうそう、初見の人もいるかもなんですけど、まだ全然フォロワー少ないので、良ければチャンネル登録もお願いしますねー」


 覚えたての定番挨拶を、ぎこちなく口にする。


【コメント】配信頻度どのくらいでやるの?

【コメント】毎日やるとかもう決めてる?


「え、頻度ですか? うーん、まだ全然決めてなくて……とりあえず、続けられそうならまた明日もやろうかな、くらいの気持ちです」


 その場しのぎの返事だったけど、コメント欄はそれで満足してくれたらしい。「毎日やります!」なんて大それた宣言は、まだ怖くてできなかった。続かなかったときに、嘘つきになりたくない。


 学校をやめたときも、そうだった。「明日は行く」って自分に約束して、破って、また約束して、破って。約束を破るたびに、自分がすり減っていく感覚があった。だからもう、守れるかわからない約束はしない。「続けられそうなら続ける」。それが、今の俺に言える精一杯の誠実さだった。


「あと、ここのチュートリアル、なんか変形システムとか武器の扱いとか、いろいろ教えてくれるらしいので、しっかり覚えていこうと思います。ちゃんと真面目にやりますからね! 今日は」


 視聴者へのアピールのつもりで、胸を張ってみせる。コメント欄は半信半疑の反応だったけど、俺自身は本気でそのつもりだった。


 少なくとも、この瞬間までは。


 視聴者数にちらりと目をやる。十五人ほどが、今の様子を見守っている。始めたばかりにしては悪くない数字だ、と自分に言い聞かせる。


「よし、じゃあ改めて。チュートリアル、始めます!」


 高らかに宣言して、「チュートリアル開始」のボタンに向けて、意気揚々と手を伸ばした。


 ――その瞬間だった。


「――楓ぇ、あんたが前に頼んでた漫画の荷物届いたわよー! ドアの前に置いておくわねー!」


 階下から、母さんの声が響いた。


 フルダイブ機器には、緊急対応機能というものが搭載されているらしい。神経ごと接続を持っていかれるこの仕組みだと、たとえば火事なんかで外から呼びかけられても、まったく気づけない。そういう事態を防ぐために、規定より大きな声や物音を感知すると、強制的にプレイヤーの意識へ割り込ませる仕様になっているんだそうだ。普段は作動する場面なんてまずないはずのその機能が、よりによって今この瞬間、しっかり仕事をしてしまった。


「え!?」


 完全に不意を突かれた。心臓が跳ね、伸ばしていた手が反射的にびくりと震える。


「あっ!」


 声が出たのと同時に、指先はボタンの位置を大きく外れ――すぐ横、半透明で小さく表示されていた「スキップ」の文字に、ぱちん、と触れてしまった。


```

チュートリアルをスキップしました。

```


 時間が、止まった気がした。


「……あ」


 声にならない声が漏れる。頭の中では、いろんな思考が高速で駆け巡っていた。今、何を押した? スキップ? スキップって、あのスキップ? チュートリアルの? まさか、確認画面もなしに?


 あった。確認画面なんてなかった。ワンタップで、即実行。なんて親切設計なんだ、逆に。


 画面が白く点滅し、周囲の景色が凄まじい速度で切り替わっていく。説明ウィンドウらしきものが、次々と表示されては、確認する間もなく消えていく。まるで、早送りされた授業を無理やり見せられているみたいだった。


 「基本操作:移動は――」という文字が一瞬見えたと思ったら、すぐ次のウィンドウに上書きされた。「変形システムについて」というタイトルらしき文字も、読む間もなく流れていく。「武器の装備と――」「ステータス画面の見方――」「戦闘中の回避行動――」「スキルの取得と発動条件――」「フレームメーカーごとの特徴――」「PvPマッチングの仕組み――」。


 「フレームの変形はこのボタンで――」という一文と、ボタンらしき記号が一瞬映った気もした。でも、掴もうとした情報は指の間からこぼれ落ちて、次の瞬間にはもう別の説明に変わっていた。


 この間、体感で十秒もなかったと思う。その十秒足らずの間に、これから先の俺に必要だったはずの情報のほとんどが、まとめて流れ去っていった。


「え、ちょ、待って、待って!?」


 慌てて両手を振ってみたけど、ウィンドウは止まる気配もない。画面には無情にも、こんな一文だけが表示された。


```

チュートリアルは終了しました。

戦場へ転送します。

```


「ええええ!?」


 俺の叫び声が、配信画面いっぱいに響いた。コメント欄は、それを上回る勢いで加速していく。


【コメント】wwwwwwwww

【コメント】言った瞬間で草

【コメント】見事なフラグ回収

【コメント】お母さんの声www

【コメント】完全に親フラで草生えた

【コメント】伝説の誕生を見た

【コメント】さっき真面目にやるって言ってたのに


「あ、あはは……なんか、お母さんに急に声かけられて、びっくりして手が滑ったっていうか……」


 言い訳がましいのは自分でもわかってる。でも、実際そうとしか説明のしようがなかった。ここまでの流れを整理すると――真面目にやると宣言して、母さんの声で手が滑って、チュートリアルが消滅した。以上。悪いのは誰だ。俺か。俺だな。


 少しだけ、母さんに申し訳ない気持ちもよぎった。本当ならすぐ玄関まで荷物を取りに行くべきなんだろうけど、今はフルダイブの真っ最中で、しかも配信中だ。すぐには動けない。


 それにしても、あの漫画、注文したのなんて二週間も前のことだ。よりによって今日、この瞬間に届くか? 神様がいるとしたら、絶対に俺で遊んでる。文句のひとつも言いたいところだけど、母さんは何も悪くない。荷物を届けてくれた配達員さんも悪くない。じゃあ誰が悪いのかって、確認画面を用意しなかった運営と、ボタンの真横にスキップを置いた設計と、あと、動揺して手を滑らせた俺だ。……主に俺だな。


【コメント】親には勝てない

【コメント】あるあるすぎる

【コメント】操作方法一切知らないまま始まるやつじゃん

【コメント】でもそれもう詰みなのでは

【コメント】一瞬、変形がどうとか見えた気がする

【コメント】早すぎて自分もよくわからんかった

【コメント】まあ流し見程度の情報だししゃーない


 視聴者の一人が拾った「変形」という単語に、俺は軽く反応する。


「あ、変形とか言ってた気もしますね。でも一瞬すぎて、私もよくわかんなかったです……」


 その程度の認識で、この話題は終わってしまった。この「変形」の二文字がどれだけ重要な情報だったのか、俺も、視聴者も、この時点では誰一人気づいていなかった。


 慌てて、もう一度メニュー画面を開いてみる。「チュートリアル」の項目を探すと、表示されたのは「チュートリアル:受講済み」という、あまりにも味気ない一文だった。


「じゅ、受講済み……? してないしてない! 一秒も受講してないですって!」


 もう一度受け直せないかと、それらしいボタンを片っ端から押してみた。長押ししてみる。連打してみる。一度メニューを閉じて開き直してみる。何度試しても、結果は同じ。「受講済み」の三文字が、無慈悲に表示され続けるだけだった。


 システム的には、俺は確かにチュートリアルを「完了」してるらしい。スキップも完了のうち、ってことか。理屈はわかる。わかるけど、納得はできない。世の中の「手続き上は問題ありません」ってやつの理不尽さを、ゲームの中でまで味わうことになるとは思わなかった。


「運営さーん! ここに、チュートリアルを一文字も読んでないのに受講済みにされた人がいまーす!」


【コメント】自業自得なんだよなぁ

【コメント】届け、この叫び

【コメント】運営もまさかスキップする奴がいるとは思ってなかった説


 メニューの隅々まで指を這わせて、ようやく見つけたのは「よくある質問」という項目だった。開いてみると、文字がびっしり並んだページが現れる。目次だけで十項目以上。その時点で、俺の心はもう折れかけていた。


「うわ、これ全部読むの? ……無理かも」


 結局、内容を読み進めることなく、そっとページを閉じた。


 一瞬、アカウントを作り直せばやり直せるんじゃないか、という考えも頭をよぎった。でも、せっかく作った「るか」や、ここまで見てくれた視聴者のことを考えると、それはなんか違う気がした。何より、あのキャラクリをもう一回やるのは、単純に面倒くさい。三十分かけたんだぞ、あれ。


「うそ、これもう二度とできないやつ……?」


【コメント】詰みで草

【コメント】潔く諦めた方がいい

【コメント】これもう伝説の始まりだろ

【コメント】運営に問い合わせてみたら?


「あ、それいいですね! でも、なんか問い合わせフォームとかも、探すの面倒くさそうだし……」


 言いながら、俺はもう半分諦めていた。面倒だと感じたことを粘り強く調べ直す根気は、生憎持ち合わせていない。


【コメント】めんどくさがりすぎ

【コメント】じゃあ俺が代わりに問い合わせフォーム探して聞いてみるわ

【コメント】親切か


「え、いいんですか!? ありがとうございます! 助かります!」


 思わぬ申し出に、俺は素直に頭を下げた。自分でやる気にはならないことでも、誰かがやってくれるなら、ありがたく甘えさせてもらう。そのくらいの図々しさは、この短い配信時間の中で、少しずつ身についてきていた。


「大丈夫大丈夫! なんとかなるっしょ! たぶん!」


 根拠? そんなものはない。でも、ここでうじうじ悩んでても、消えたチュートリアルは戻ってこない。だったら、笑って前に進むしかない。……半分は視聴者向けの強がりで、もう半分は、本気でそう思ってた。


 内心では、少しだけ焦りもあった。始めたばかりの配信でいきなりこんな失敗をやらかして、印象が悪くなってないだろうか。せっかく好意的なコメントをもらえてたのに、「なんだ、ただのおっちょこちょいか」って呆れられたら――。


 そんな不安がよぎったけど、コメント欄を見る限り、心配は杞憂だったらしい。


【コメント】初手からこれは逆に才能ある

【コメント】むしろ次回作予告みたいで面白い

【コメント】このまま突っ込んでいくスタイル好き


 その反応に、ほっと息が漏れた。


 ……もしこれが、現実の教室での出来事だったら。失敗した瞬間の空気の重さ、向けられる視線の冷たさ――そういうものを、俺は嫌というほど知ってる。でも、画面の向こうの人たちは、失敗すらも笑いに変えて受け止めてくれる。その違いが、俺にはたまらなく新鮮だった。


 失敗しても、それはそれでネタになる。そう思えるだけで、気持ちがふっと軽くなる。


 ――視界が切り替わった。


 転送の瞬間、内臓がふわりと浮くような感覚があって、次に足の裏が固い地面を捉えた。


 目の前に広がったのは、見たこともない景色だった。遠くで何かが爆発する光と音。地面はところどころ抉れ、瓦礫が転がっている。空には見たこともない形の機体が飛び交い、時折、重々しい金属音が響いてくる。空気の匂いまで再現されてるのか、焦げたような、金属質の匂いがかすかに鼻をかすめた。


 足元を見下ろすと、俺は――「るか」は、キャラクリで作ったままの、なんの装備もない生身の姿で突っ立っていた。ストリート系の私服にスニーカー。戦場に、私服にスニーカー。控えめに言って、場違いにも程がある。


「え、待って、私、このカッコでここにいるの!? せめて何か装備とかは!?」


【コメント】私服で戦場は草

【コメント】ピクニックじゃないんだよ

【コメント】完全に転送事故の被害者w


 あまりの光景に、しばらく声が出なかった。想像してたチュートリアルの雰囲気とは、あまりにもかけ離れてる。まさか、いきなりこんな場所に放り出されるとは。


 視線を巡らせると、遠くにEDFの制式らしい装備を纏ったプレイヤーたちの姿が見えた。統率の取れた動きで、隊列を組んで移動している。その先には、蜘蛛のような、甲殻類のような、有機的で禍々しいシルエットの何かがうごめいていた。あれがたぶん、INVADERってやつなんだろう。想像してたよりずっと不気味で、俺は思わず身を固くした。


【コメント】あれがINVADERか

【コメント】デザイン怖すぎる

【コメント】近づかない方がいいよ、マジで


「わ、わかりました。近づかないようにします……」


 素直に頷きながら、足は自然と後ずさっていた。得体の知れないものへの恐怖心だけは、こういう時ちゃんと働くらしい。


 遠くのINVADERは、プレイヤーたちの一斉射撃を浴びて、悲鳴なのか駆動音なのかわからない不快な音を上げていた。金属なのに、生き物みたいに身をよじる。あの気持ち悪さは、映像で見るのと、フルダイブで「その場にいる」のとでは、まるで迫力が違った。


(あんなのと、戦うのか。俺が。この私服で)


 いや、たぶん何か、機体的なものに乗って戦うんだろう。トレーラー映像ではそうだった。問題は、その機体をどこでどう手に入れるのか、まるでわからないってことだ。チュートリアルで説明されたはずの、その全部が。


 視聴者数は、いつの間にか二十人を超えていた。数字が増えるのを横目で確認しながら、軽く咳払いをする。せめて、この状況にビビり散らかしてることだけは、あんまり悟られたくない。


「……えーっと」


 誰に聞くでもなく、俺は呟いた。


「これ、なにすればいいんだろう」


 右も左もわからないまま、とりあえず周囲を見渡す。遠くに、何か施設らしき建物が見えた。あそこに行けば、何かヒントがあるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、俺はゆっくりとその方向へ視線を向けた。


 一瞬、あの教室の記憶がフラッシュバックしかけた。何もわからないまま、大勢の視線の中に立たされてる感覚。喉の奥が、きゅっと締まりかける。


 ……でも、今は違う。ここには、直接俺を見てる人は誰もいない。画面越しの視線は、あの教室の視線とは違う、どこか柔らかいものに感じられた。小さく息を吐いて、その感覚を振り払う。


 振り返れば、今日一日、予定外のことばかりだった。キャラクリから配信開始まではなんとか順調だったのに、肝心のチュートリアルで、まさかこんな結末を迎えるとは。それでも、視聴者たちは呆れるどころか、この状況そのものを楽しんでくれてるみたいだった。


 考えてみれば、俺の人生、ずっとこうだった気がする。計画通りに進んだことなんて、ほとんどない。学校だってそうだ。「普通に卒業して、普通に進学する」っていう、みんなが当たり前にこなすルートから、俺はあっさり転げ落ちた。


 でも――今日のこの事故は、あの時の挫折とは、なんだか手触りが違った。確かに失敗した。取り返しもつかない。なのに、笑ってる自分がいる。画面の向こうにも、一緒に笑ってくれる誰かがいる。失敗が、初めて「終わり」じゃなくて「始まり」に見えた。


(まあ、なんとかなる……のかな。たぶん)


 説明がないなら、触って覚えればいい。どうせ俺は、昔から説明書を読まずにゲームをやってきたんだ。今回は強制的にそのスタイルになっただけ。むしろ、いつも通りとも言える。


 根拠のない楽観は、いつだって俺の数少ない武器のひとつだ。今この瞬間も、それだけを頼りに、俺は目の前に広がる見知らぬ戦場を、もう一度見渡した。


 ――このときの「これ、なにすればいいんだろう」という一言が、後にどれだけ多くの人間を振り回すことになるか。


 この瞬間の俺は、まだ何ひとつ知らない。





【上比留真由美(楓の母、視点)】


 息子の部屋のドアの前に、頼まれていた漫画の箱を置く。


「楓ぇ、あんたが前に頼んでた漫画の荷物届いたわよー! ドアの前に置いておくわねー!」


 声をかけても、返事はなかった。いつものことだ。最近の楓は、部屋にこもってヘッドセットのようなものを被っていることが多い。何をしているのかは、正直よくわからない。ゲームをしているんだろう、というくらいの理解しかなかった。


 高校を辞めると言い出したとき、正直、頭が真っ白になった。けれど、怒鳴っても、説得しても、あの子の心が動かないことだけは、なんとなくわかっていた。だから、何も聞かないことにした。聞いて、追い詰めて、それでもっと閉じこもってしまったら、元も子もない。


 台所に戻りながら、真由美はふと思う。最近、楓の部屋から聞こえてくる声が、少しだけ変わった気がする。以前は物音ひとつしなかったのに、ここ数日は、時々、くぐもった話し声のようなものが漏れ聞こえてくる。


 何をしているのかは知らない。でも、何かが動き出しているような、そんな予感だけはあった。


 母親としてできることは、多くない。ただ、いつも通りご飯を作って、いつも通り声をかけて、あの子が部屋から出てくる日を待つ。それだけだ。


 真由美は小さくため息をついて、夕飯の支度に戻った。

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