29.世界大会、その入り口
朝、いつも通り目を覚まし、階下に降りる。母さんはキッチンで朝食の準備をしていた。
「おはよう、楓」
「おはよう」
あっさりとした挨拶を交わしながら、朝食を済ませる。特に変わり映えのしない、いつも通りの朝のはずだった。それが今日という日を境に、大きく動き出すことになるとは、この時の俺はまだ知らなかった。
朝食を済ませ、自室に戻る。ヘッドセットを手に取りながら、俺は小さく伸びをした。今日もまた、いつも通りの一日が始まる。そう思っていた矢先、いつもとは違う種類の告知が、運営から届いていた。
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世界大会予選、開幕のお知らせ
参加資格を満たすプレイヤーには、エントリー案内が順次届きます
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「え、世界大会……?」
思わず声が漏れた。名前だけは何度か耳にしたことがあった。ZERO-DAYの頂点を決める、最大規模の大会。世界中のトッププレイヤーが集う舞台だという話を、以前どこかで聞いた記憶がある。
これまでも、皇帝牙のような世界トップクラスのプレイヤーの名前を、噂話程度に耳にしたことはあった。それでも、その舞台に自分が関わることになるとは、正直今の今まで考えたこともなかった。
配信を開始し、この件を視聴者に報告する。
「みなさん、あの、世界大会の予選が始まるらしいです」
緊張気味にそう告げると、コメント欄の反応が返ってくるまでの、ほんの一瞬の間が、やけに長く感じられた。
【コメント】キタ!
【コメント】ついに来たか、この時が
【コメント】るかも出場資格あるんじゃない?
「え、私にも来るんですか、そのエントリー案内って」
半信半疑のまま、俺はコメント欄の反応を眺めていた。世界大会という単語の重みに、正直まだ実感が追いついていない。
【コメント】ランキング条件満たしてれば普通に来るでしょ
【コメント】むしろ今の実力なら余裕で資格あると思う
【コメント】世界大会でるかの雄姿が見れるとか胸熱すぎる
賑やかなコメントを眺めながら、俺はどこか他人事のような感覚を拭えずにいた。世界大会という響きが、まだ自分とは縁遠い世界の出来事のように思えてしまう。これまで戦ってきたINVADERや、対人戦の相手たちとは、また違う次元の戦いが待っているのかもしれない。そう考えると、期待よりも先に、漠然とした不安が胸をよぎった。
そうこうしているうちに、画面に新しい通知が表示された。
```
世界大会予選エントリー資格を確認しました
エントリーしますか?
```
「あ、本当に来た……」
しばらく画面を見つめたまま、俺は動けずにいた。エントリーする、しないの二択。それだけのことなのに、なぜか妙な緊張感が押し寄せてくる。これまでのPvPとは、明らかに種類の違う重みが、この選択には込められている気がした。
【コメント】迷う理由ある?
【コメント】出ない理由の方が少ないと思うけど
【コメント】まあ、るかのことだから今更驚かないけど
軽口交じりのコメントに、俺は思わず苦笑した。
「いや、出ない理由はないんですけど……なんか、急に現実味帯びてきて、ちょっと怖くなっただけです」
これまで何度も、予想外の出来事に飛び込んできたはずだった。それでも、今回ばかりは、これまでとは種類の違う緊張感があった。世界という単位の大きさが、これまでの防衛戦や対人戦とは、まるで比較にならないほどの重みを持って迫ってくる。
深呼吸を一つして、俺はエントリーボタンに指を伸ばした。
画面に表示された注意事項に、俺はもう一度目を通した。エントリー後のキャンセルは原則不可、予選スケジュールは追って通知、対戦形式は一対一のトーナメント制。読めば読むほど、これが紛れもなく本格的な大会なのだと実感させられる。
「よし……エントリー、します!」
画面に「エントリー完了」の文字が表示される。それだけのことなのに、心臓がまだ早鐘を打っていた。
【コメント】エントリーおめでとう!
【コメント】これで正式に世界大会出場権利者だな
【コメント】予選、頑張れ!
温かいコメントの数々に、俺は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「ありがとうございます……なんか、実感がまだ全然湧かないですけど、頑張ります」
改めて画面を見渡すと、これまで積み重ねてきた配信の記録が、ずらりと並んでいた。初撃破、必殺技の命名、そして数々の騒動。その一つ一つが、今日この瞬間に繋がっているのだと思うと、不思議な感慨が込み上げてくる。
配信の合間、朝霧さんから通話の申請が届いた。
「るかさん、エントリーの件、確認しました。おめでとうございます」
「あ、朝霧さん! なんか、勢いでエントリーしちゃったんですけど、大丈夫でしたよね?」
電話越しにそう尋ねながら、俺は内心、少しだけ不安を抱えていた。もし何か手続き上の不備があったら、という漠然とした心配が、頭の片隅をよぎっていた。
「もちろんです。むしろ、この機会を逃す手はないと思っていました。予選から本戦まで、スケジュール調整はこちらで進めますので、るかさんは今まで通り、配信に集中していただければ大丈夫です」
その言葉に、俺は少し安堵した。大きな出来事が重なるたびに、細々とした調整まで一人で抱え込まなくていい。それだけで、随分と気持ちが楽になる。
いつも通りの、頼もしい言葉だった。
「あの、朝霧さん。正直、世界大会って聞くと、もっと選ばれた一部の人だけが出れるものだと思ってたんですけど」
「もちろん、狭き門ではあります。ただ、るかさんは既に世界的に注目されている実力者ですから、資格を得ること自体は、当然の流れだったと思いますよ」
そう言われても、俺自身はまだ、自分がそこまでの実力者だという実感を持てずにいた。それでも、朝霧さんがそう言うのなら、少しは自信を持ってもいいのかもしれない。
「予選というのは、具体的にどんな形式なんですか?」
「地域ごとに分かれたブロックで、勝ち抜き形式の対戦が行われます。ランキング上位者はシード権がありますが、るかさんの場合は、通常の予選ルートからの参加になりますね」
「シード権、私にはまだないんですね」
「ええ。ですが、今の勢いを考えれば、次回大会からは十分に狙える位置にいると思います。まずは今回、通常ルートでの実績を積んでいきましょう」
「なるほど……対人戦、また増えるってことですね。この間のこと思うと、正直ちょっと緊張します」
「大丈夫です。あの時とは違って、今回は正式な大会という形式です。何かあれば、必ず私がサポートしますので」
その言葉に、俺は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。誰かがこうして支えてくれているという事実だけで、漠然とした不安が、随分と和らいでいく気がした。
「あと、これは気の早い話かもしれませんが、本戦まで勝ち進んだ場合、世界中の有名プレイヤーとも対戦することになります。皇帝牙選手のような方々です」
その名前に、俺は思わず息を呑んだ。
「え、そんな雲の上の人と、本当に戦うことになるかもしれないんですか……?」
想像するだけで、手のひらにじんわりと汗が滲むような感覚があった。これまで戦ってきたどんな相手とも、格の違う存在。そんな相手と対峙する日が来るかもしれないと思うと、期待と恐怖が入り混じった、奇妙な感情が込み上げてくる。
「可能性としては、十分にあり得ます。今はまだ、そこまで考えなくても大丈夫ですよ。まずは目の前の予選から、一歩ずつ進んでいきましょう」
朝霧さんの落ち着いた声に、俺はなんとか気持ちを立て直した。まだ実感の湧かない未来の話よりも、今できることに集中する。それが、これまでの自分のやり方だった。深く考えすぎず、目の前のことに一つずつ向き合っていく。そのやり方が、これまでも自分をここまで運んできてくれたのだから、今回もきっと大丈夫なはずだった。
通話を終え、俺はしばらくの間、ぼんやりと天井を見上げていた。世界大会、皇帝牙、シード権。これまで縁がないと思っていた言葉たちが、次々と自分の生活に入り込んでくる。その変化のスピードに、頭の整理が追いつかない。
それでも、不思議と怖さよりも、好奇心の方が勝っていた。この先、一体どんな景色が待っているのか。想像もつかないからこそ、少しだけ楽しみな気持ちもあった。
防衛戦の通知が届き、俺はいつも通り、担当エリアへ向けて歩き出す。
「世界大会か……なんか、実感湧かないですけど、頑張ってみますね」
誰にともなく呟きながら、俺は改めて自分の機体を見下ろした。丸みを帯びた黄色い装甲、不格好な巨体。この機体で、世界中のトッププレイヤーたちと渡り合うことになる。想像するだけで、胸の奥がざわつくような、そんな高揚感があった。
道中、討伐対象の反応が視界に浮かび上がる。いつも通り両腕を構え、迫る一撃を受け止めた。
「インパクトスマッシャー!」
いつも通りの一撃で、敵の姿が崩れ落ちる。世界大会という大きな舞台を前にしても、結局やることは変わらない。ガードして、踏み込んで、殴る。この単調な繰り返しだけが、相変わらず自分の武器だった。
【コメント】世界大会前でも安定のいつも通り
【コメント】むしろこの安定感が武器なんだろうな
【コメント】変に気負わないところがるからしい
戦闘を終え、周囲を見渡す。今日もいつも通りの防衛戦だった。それでも、今日という日は、これまでとは違う特別な意味を持つ一日になりそうな予感がしていた。
防衛戦を終えて拠点へ戻る道すがら、ふと画面の隅の登録者数に目をやる。「498,230人」。
「あ、あれ……これ、もうすぐ50万人じゃないですか?」
驚きの声を上げると、コメント欄も一気に色めき立った。
【コメント】マジだ、もうすぐ大台じゃん
【コメント】世界大会エントリーと同じタイミングとか出来すぎだろ
【コメント】記念すべき日になりそうだな
じっと数字を見守っていると、やがてそれは静かに桁を変えた。「500,014人」。
「あ……なった。50万人、超えました」
画面に表示された数字を、俺はしばらく呆然と見つめ続けていた。ゼロから始まったものが、ここまで大きく育っている。その事実を、頭では理解していても、心がまだ追いついていない。
実感の湧かないまま、俺は数字を見つめ続けていた。配信を始めたばかりの頃、視聴者が数人しかいなかったあの日々を思えば、想像もつかない数字だった。
【コメント】おめでとう!!!
【コメント】50万人達成、記念すべき瞬間に立ち会えた
【コメント】ここからさらに伸びていきそうだな
温かい祝福の言葉が、次々と画面に流れていく。俺はしばらく、その言葉の一つ一つを、噛み締めるように読み続けていた。
「ありがとうございます……なんか、今日は本当に色々ありすぎて、頭の整理が追いついてないです」
世界大会へのエントリー、そして登録者数50万人。どちらも、配信を始めた頃の自分には、想像もできなかった出来事だった。それが同じ日に重なるとは、なんとも忙しい巡り合わせだと思う。
視聴者たちも、この偶然の重なりに、随分と盛り上がっているようだった。「記念すべき日にふさわしい」「これは縁起がいい」――そんな声を眺めながら、俺は自分でも驚くくらい、素直にこの巡り合わせを喜んでいる自分に気づいた。
配信を終え、いつものように現実へと戻る。夕食の席で、母さんが尋ねてきた。
「楓、今日はなんだかそわそわしてるね。何かあったの?」
「うん……世界大会っていうのに出ることになって。あと、登録者数も50万人になった」
「え、世界大会? それってすごいことなんじゃないの?」
「多分、すごいことなんだと思う。正直、まだ実感ないけど」
「楓がそう言うなら、本当にすごいことなんだろうね」
「そういうものかな……自分じゃよくわからないや」
母さんとの他愛もないやり取りに、俺は思わず頬が緩んだ。世界大会という大きな話題も、こうして家の食卓に持ち込むと、なんだか急に身近なものに感じられてくる。
母さんの言葉に、俺は苦笑した。実感が湧かないと言いながらも、こうして誰かに話すことで、少しずつその重みを実感し始めている自分がいた。
「そう。まあ、楓のペースでいいんじゃない」
いつも通りの、あっさりとした反応。それでも、その一言に、俺はいつも通り救われていた。大げさに騒ぎ立てられるより、こうして自然体で受け止めてもらえる方が、今の自分には心地よかった。
「頑張ってね。応援してるから」
その一言に、俺は素直に頷いた。
「うん、頑張る」
短いやり取りだったけれど、母さんの言葉には、いつも不思議な力がある。大げさに送り出されるより、こうして自然体で背中を押してもらう方が、今の自分にはずっと合っている気がした。大げさな激励でも、過剰な心配でもない、ちょうどいい距離感の応援。それだけで、これから待ち受ける大きな舞台への不安が、少しずつ和らいでいく気がした。
食後、部屋に戻ってから、俺はもう一度、今日という日を振り返っていた。世界大会という、これまでとは比べ物にならないほど大きな舞台。そこに、自分が立つことになる。実感はまだ薄いけれど、確かな重みだけは、じわじわと胸に染み込んでくる気がした。
スマホを開いて、世界大会についての情報を軽く調べてみる。過去の優勝者、有名な出場者、これまでの名勝負の数々。知れば知るほど、その舞台の大きさに圧倒される。それでも、怖気づく気持ちよりも、少しずつ湧いてくる好奇心の方が、今は勝っている気がした。
ベッドに横になり、天井を見上げる。明日からは、また新しい日々が始まる。予選という新たな挑戦、そして積み重なっていく数字。どちらも、これまでの延長線上にあるはずなのに、なぜか今日という日を境に、何かが一段階、大きく動き出した気がした。
思えば、配信を始めたばかりの頃は、月に数万円稼げたらいい、というくらいの軽い気持ちだった。それが今では、世界大会への出場権を手にし、50万人もの人に見てもらえるまでになっている。この変化の大きさに、今更ながら目眩がするような感覚があった。
それでも、根っこにある部分は、あの頃から何一つ変わっていない気がする。目の前のことに、深く考えすぎず、なんとなく飛び込んでいく。それだけの積み重ねが、いつの間にか、こんな大きな場所まで自分を運んできてくれた。
【エンジョイ勢・ハチ視点】
るかちゃんが世界大会にエントリーしたって話、俺のところにもすぐ回ってきた。まあ、当然と言えば当然か。あれだけ話題になってる配信者だし、むしろ今まで出てなかったのが不思議なくらいだ。
正直、俺自身はそういうガチな大会にはまったく縁のない人間だ。ランキングとか、勝敗とか、そういうのを気にし出すと、ゲームがつまらなくなる気がして、いつも一歩引いた立ち位置でプレイしてきた。それが自分なりの、ゲームとの付き合い方だと思っている。
周りには、大会常連の知り合いも何人かいる。彼らの真剣な顔つきを見るたびに、自分にはとても真似できないと感じてきた。だからこそ、るかちゃんがそちら側の世界に足を踏み入れることに、少し複雑な気持ちもある。あの気楽な空気が、大会という緊張感の中でどう変化していくのか、正直少し心配でもあった。
それでも、るかちゃんが挑戦するというのは、なんだか素直に応援したい気持ちになる。あの子は、勝ち負けのために必死になっているというより、目の前のことに、ただ真剣に向き合っているだけに見える。そういう姿勢は、見ていて気持ちがいい。
配信を覗いてみると、案の定、登録者数が50万人を突破したところだった。あの、右も左もわからないまま歩き回っていた新人配信者が、ここまで来たのかと思うと、なんだか感慨深いものがある。
思い返せば、初めて一緒に防衛戦をこなしたあの日から、まだそれほど長い時間が経ったわけじゃない。それなのに、るかちゃんを取り巻く状況は、目まぐるしいスピードで変わり続けている。置いていかれないよう、俺もちゃんとついていかなきゃな、なんてことを、柄にもなく考えてしまった。
「るかちゃん、おめでとう!」
メッセージを送ると、すぐに返事が返ってきた。
「あ、ハチさん! ありがとうございます、なんか実感まだ湧いてないですけど」
「まあ、そんなもんだよね。でも、着実にすごいことになってるから、自信持っていいと思うよ」
「そう言ってもらえると、少し安心します」
短いやり取りの中にも、確かな支えを感じる。こういう何気ない繋がりの積み重ねが、これから待ち受ける大きな舞台への、何よりの心の準備になっている気がした。
軽いやり取りを交わしながら、俺は密かに思う。世界大会という舞台に立つことで、るかちゃんがどんな景色を見ることになるのか。少し心配な気持ちもありつつ、それ以上に、楽しみな気持ちの方が強かった。
あの子なら、きっと大丈夫だ。根拠なんてないけれど、なぜかそう思えた。
それに、るかちゃんのことだ。きっと大会という舞台でも、いつも通りマイペースに、変わらない調子で乗り切っていくんだろう。そう考えると、心配する気持ちよりも、その先の展開を見てみたいという好奇心の方が、少しずつ大きくなっていくのを感じた。
画面を閉じる前に、俺はもう一度、るかちゃんの配信ページを開いた。次の配信予定日を確認しながら、俺は静かに、次の応援の言葉を考え始めていた。




