27.かすかな違和感
炎上騒動から数日が経ち、コメント欄の空気も、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。それでも、レンとの一件が完全に忘れ去られたわけではない。むしろ、そこから新しい形の考察が、静かに広がり始めていた。あの日感じた息苦しさは、少しずつ薄れていったけれど、完全に消えてなくなったわけではない。それでも、日々の生活の中で、その重さは着実に軽くなっていっている実感があった。
朝、いつも通り目を覚まし、階下に降りる。母さんはキッチンで洗い物をしていた。
「おはよう、楓」
「おはよう」
あっさりとした朝の挨拶を交わしながら、俺は少しずつ、日常のリズムを取り戻しつつあることを実感していた。あの炎上の直後は、朝起きること自体が億劫だった。それが今では、少しずつだけれど、いつも通りの朝を迎えられるようになっている。
朝食を済ませ、自室に戻る。ヘッドセットを手に取りながら、俺は小さく伸びをした。今日もまた、いつも通りの一日が始まる。そう思うと、不思議と気持ちが軽くなった。窓の外は、よく晴れた青空だった。
「みなさん、おはようございます! 今日もいつも通り、防衛戦に向かいますよー」
いつも通りの挨拶から配信を始める。画面の隅の登録者数は、いつの間にか「238,410人」まで伸びていた。あの炎上騒動の直後は、正直この数字がどう転ぶか予想もつかなかった。それが今では、むしろ以前よりも勢いを増して伸び続けている。人の興味の向き方というのは、当事者にはどうにも読み切れないものらしい。
【コメント】おはよう
【コメント】そういえばレンさんが新しい理論出してたの見た?
【コメント】あれ結構筋通ってて話題になってるよね
「え、レンさんの理論? なんですかそれ」
初耳の話題に、俺は思わず配信の手を止めた。教えてもらったリンクを開いてみると、レン自身の配信アーカイブが見つかった。再生してみると、いつもの鋭い声で、レンが淡々と語っている。
動画の冒頭、レンはまず、これまでの経緯を淡々と振り返っていた。宣戦布告、PvPでの敗北、その後の炎上。自分がこれまで取ってきた行動を、感情を交えずに整理する様子が印象的だった。
途中、レンは自分の過去の言動についても、率直に触れていた。「あの時の自分は、感情が先走っていたことを認める」――そんな一言に、俺は少し驚いた。あれだけはっきりと敵意をぶつけてきた相手が、こうして自分の非を認める姿を見せるとは、正直想像していなかった。
「これだけ注目された対戦で、もし本当に不正が絡んでいるなら、運営がこの期間、何も対応しないのは不自然だ。感情を抜きにして考えれば、意図的な不正である可能性は低い。だとすれば……おそらく、パッシブ系のスキルが原因で、何らかの崩し方があるんじゃないか」
落ち着いた声で語られるその推測に、俺は思わず聞き入ってしまった。以前のあの、真っ向から敵意をぶつけてきた頃のレンとは、明らかに何かが違う。感情に任せて糾弾するのではなく、事実を積み重ねて、冷静に仮説を立てる。その変化の理由までは、俺にはわからなかったけれど、少なくとも、以前よりずっと話を聞きやすい相手になっている気がした。
「へえ……なんか、めちゃくちゃ冷静に分析してますね、レンさん」
【コメント】前は感情的だったのに、随分変わったよな
【コメント】さすがちゃんと考える人だ
【コメント】パッシブスキルって、るかも何かあるんじゃないの?
軽い調子で流れてきたその最後のコメントに、俺はなんとなく相槌を打った。
「え、私にも何かあるんですかね? まあ、あったところで、多分よくわかってないと思います」
深く考えることもなく、俺は軽口でその場を流した。この話題が、数日後に自分自身へと跳ね返ってくることになるとは、この時はまだ想像もしていなかった。
【コメント】この温度感、逆に怪しいw
【コメント】まあるかだしな
【コメント】確認してみたらいいのに
軽口交じりのコメントに、俺は思わず苦笑した。
「言われてみれば、確認したことないですね。今度、暇な時にでも見てみようかな」
軽く受け流しながらも、俺はさして気にも留めていなかった。自分に何が割り振られているのか、これまで一度も真剣に確認したことがない。それでいて、こうして話題になるくらいには、注目されている要素らしい。それでも、正直な話、そこまで興味を惹かれるほどの実感は湧いてこなかった。
それ以上深くは考えず、俺は防衛戦の通知に従って歩き出した。この時はまだ、この話題が数日後、自分自身に跳ね返ってくることになるとは、想像もしていなかった。
道中、討伐対象の反応が視界に浮かび上がる。いつも通り両腕を構え、迫る一撃を受け止めた。
「インパクトスマッシャー!」
いつも通りの一撃で、敵の姿が崩れ落ちる。単調な繰り返しではあったけれど、この安定感だけは、どんな騒動があっても変わらない自分の拠り所だった。続けて現れた二体目、三体目にも、同じ要領で対処していく。
ガードして、踏み込んで、殴る。この一連の動作を繰り返すたびに、少しずつ心が落ち着いていくのがわかった。技術と呼べるものは何もないかもしれないけれど、この単調さが、今の自分には何よりの安心材料だった。
【コメント】相変わらずの安定感
【コメント】レンさんの理論、ここでも証明されてる気がする
【コメント】技術云々より、まずこの頑丈さがすごいんだよな
コメントの内容も、以前とは少しずつ質が変わってきている気がした。単純な驚きや疑いだけでなく、冷静に分析しようとする声が増えている。それも、レンのあの理論的な動画の影響なのかもしれない。
「なんか、最近のみなさん、随分と分析力上がってません? レンさんの影響ですかね」
【コメント】言われてみればそうかも
【コメント】感情論より筋の通った話の方が説得力あるからな
【コメント】この空気の変化、地味に大きい気がする
防衛戦を終えて拠点へ戻る途中、ハチからメッセージが届いた。
「るかちゃん、レンさんの理論動画見た? なんか筋通っててびっくりしたわ」
「あ、ハチさんも見たんですね! 私もさっき初めて知りました」
「あの人、ちゃんと考える人だったんだなって、正直見直したよ」
「ですよね。前はちょっと怖いイメージあったんですけど、今回のは素直にすごいと思いました」
「まあ、るかちゃんは相変わらずマイペースで安心するけどね」
軽い調子のやり取りに、俺は思わず頬が緩んだ。こういう何気ない会話が、今の自分にとって、どれだけ支えになっているか、改めて実感させられる。
「そういえば、世界大会の予選、そろそろ始まるみたいだけど、るかちゃんも何か準備してるの?」
「あ、それがまだ全然……正直、何を準備すればいいのかもよくわかってなくて」
「るかちゃんらしいや。まあ、今まで通りでも十分やれてるんだから、変に気負わなくていいと思うけどね」
あっけらかんとした返事に、俺は思わず笑ってしまった。誰かとこうして気軽に情報交換できる関係が、いつの間にか当たり前になっている。その事実に、改めて温かい気持ちになった。
思えば、ゲームを始めたばかりの頃は、誰かとこんなふうに軽口を叩き合える相手がいるなんて、想像もしていなかった。それが今では、ハチのような友人がいて、朝霧さんのような支えてくれる担当がいて、そして画面の向こうには、大勢の視聴者がいる。一人だったはずの世界が、いつの間にか、こんなにも賑やかになっていた。
防衛戦を終えて拠点へ戻る道すがら、朝霧さんから通話の申請が届いた。
「るかさん、お疲れ様です。少しお時間よろしいですか」
「あ、はい、大丈夫です」
「今後のスケジュールについて、少しご相談したいことがあって」
いつも通りの、事務的な用件のはずだった。それなのに、今日の朝霧さんの声には、どこか普段とは違う間があるような気がした。
来月の企業案件候補について、いくつか説明を受ける。それ自体は、いつも通りの落ち着いたやり取りだった。それでも、話の合間に挟まれる沈黙の長さが、心なしかいつもより長い気がした。
「るかさんは、最近の一連の騒動について、ご自身ではどう感じていますか?」
思いがけない問いに、俺は少し戸惑った。
「え、えっと……大変だったけど、なんとか乗り越えられてる、とは思います」
「そうですか。……るかさんは、こういう状況になっても、あまり深く傷ついた素振りを見せませんよね。それは、本当に平気だからなのか、それとも、平気なふりをしているだけなのか。担当として、時々わからなくなることがあります」
柔らかい口調だったが、その言葉には、これまでにない踏み込んだ響きがあった。俺は少し戸惑いながらも、素直に答えることにした。
「うーん、平気なふりっていうか……多分、本当に鈍いんだと思います。傷つくことに、慣れてないというか、傷つくべきタイミングで、うまく傷つけないというか」
「……そうですか」
電話越しに、小さな沈黙があった。それが何を意味するのか、俺にはよくわからなかった。
「すみません、変なこと聞いてしまって。今日のところは、スケジュールの件だけお伝えしておきますね」
それから朝霧さんは、いつも通りの事務的な口調で、来月の案件についていくつか説明してくれた。声のトーンだけは、いつも通りの落ち着いたものに戻っていた。それでも、通話を終えた後も、俺はさっきのやり取りの違和感が、なんとなく胸に残り続けていた。
朝霧さんが、これまでこんな踏み込んだ質問をしてきたことは、一度もなかった気がする。いつも冷静で、必要なことだけを的確に伝えてくれる、頼れる担当者。その彼女が、今日に限って、少し違う顔を見せた。それが何を意味するのか、俺にはまだよくわからなかった。
夕方、配信を終えて、いつものように現実へと戻る。夕食の席で、母さんが尋ねてきた。
「楓、最近どう? もう落ち着いた?」
「うん、だいぶ。今日は特に何もなかったし」
「そう。ならよかった」
いつも通りの、あっさりとしたやり取り。それだけで、今日一日の疲れが、少しだけ和らいだ気がした。
「あ、そういえば、今日のご飯、楓の好きな煮物にしたから」
「え、ほんと? ありがとう」
何気ない気遣いに、俺は素直に嬉しくなった。こういう小さな日常の積み重ねが、今の自分をちゃんと支えてくれている。そのことを、最近、以前よりも強く感じるようになっていた。
食事をしながら、母さんがふと、テレビの話題を振ってきた。他愛もない世間話に相槌を打ちながら、俺はこの穏やかな時間のありがたさを、改めて噛み締めていた。画面の向こうでは、時に大きな騒動に巻き込まれることもある。それでも、こうして家に帰れば、変わらない日常が待っている。その事実だけで、随分と救われている自分がいた。
世界大会、レンの理論、そして自分でもよくわかっていないスキルの話。今日一日だけでも、話題には事欠かなかった。それでも、こうして夕食の席に座っていると、そのすべてが少し遠い出来事のように感じられる。この切り替えの早さも、今の自分を支えている要素の一つなのかもしれない。
食後、部屋に戻ってから、俺はもう一度、レンの理論についての動画を見返してみた。「パッシブ系のスキルが原因で、何らかの崩し方がある」――言われてみれば、確かにそういう可能性もあるのかもしれない。それでも、自分のことのはずなのに、どこか他人事のように聞こえてしまう自分がいた。
画面を閉じる前、俺はふと、自分のメニュー画面を開きかけた。それでも、今日はもう遅い時間だったし、面倒くささが勝って、結局そのまま画面を閉じてしまった。この些細な先延ばしが、数日後にちょっとした騒動を生むことになるとは、もちろんこの時の俺には知る由もなかった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。今日の朝霧さんとのやり取りが、なぜかまだ頭の片隅に残っていた。何か気にかけてくれているのは間違いない。それでも、その気遣いの奥に、何か言い出せずにいることがあるような、そんな予感がした。
スマホの画面を閉じて、俺は静かに目を閉じた。明日もまた、いつも通りの一日が待っている。そのことが、今はただ、ありがたく感じられた。
それでも、眠りに落ちる直前、頭の片隅で、朝霧さんの声がもう一度リピートされた。「本当に平気だからなのか、それとも、平気なふりをしているだけなのか」。あの問いに、俺は今日、うまく答えられなかった気がする。傷つくことに慣れていない、というのは事実だ。それでも、それだけで片付けていい話なのかどうか、正直、自分でもよくわからないままだった。
考えてみれば、これまでの人生でも、自分の感情に鈍いと言われたことは何度かあった気がする。辛いはずの場面で、うまく辛さを表に出せない。悲しいはずの場面で、なぜか他人事のように受け止めてしまう。それが「強さ」なのか、それとも単に「感じる力が鈍いだけ」なのか、自分自身、いまだに判断がつかずにいた。
朝霧さんは、そんな自分の危うさに、誰よりも早く気づいているのかもしれない。だとしたら、あの問いかけは、単なる世間話ではなく、もっと踏み込んだ心配だったのだろう。そう思うと、なんだか申し訳ないような、それでいてありがたいような、複雑な気持ちになった。
【相沢陽斗視点】
夜、たまたま友人に勧められて開いた配信サイトで、俺はある配信に行き着いた。「ルカちゃんねる」。名前だけは、最近よく耳にしていた。
友人いわく、「世界ランカーに勝った謎の新人配信者」らしい。正直、あまりゲーム配信には詳しくない俺でも、その界隈で相当な話題になっていることくらいは伝わってきた。友人は興奮気味に「絶対見た方がいい」と何度も勧めてきたが、俺自身は正直、そこまで乗り気ではなかった。話題になっている配信者というだけなら、世の中にいくらでもいる。それでも、暇つぶし程度の軽い気持ちで、俺はリンクをタップした。
再生してみると、聞こえてきたのは、やたら元気な女の子の声だった。喋りのテンポは軽快で、コメント欄とのやり取りも息が合っている。それなりに人気が出ているのも頷ける、賑やかな配信だった。
それでも、しばらく聞いているうちに、妙な感覚が胸の奥に引っかかった。
「……あれ?」
声のトーン、笑い方の癖、言葉に詰まったときの間の取り方。どれも、聞き覚えがあるような気がしてならない。それも、随分と昔――高校時代の記憶に、うっすらと繋がっているような感覚だった。
もちろん、配信者は女性のアバターを使っている。声も、女性のそれにしか聞こえない。それなのに、なぜか脳裏に浮かんでくるのは、ある一人の同級生の顔だった。上比留楓。高校二年の頃、同じクラスで、それなりに話す機会も多かった相手だ。
「まさかな……」
思わず苦笑して、その考えを打ち消そうとした。人違いに決まっている。声質が近い人間なんて、世の中にはいくらでもいるはずだ。それに、あいつが今、こんな配信をしているなんて話は、一度も聞いたことがない。
それでも、一度気になり始めると、なかなか頭から離れなかった。動画をもう一度再生し、耳を澄ませてみる。喋り方の癖、間の取り方。聞けば聞くほど、確信には至らないながらも、違和感だけが強くなっていく。
高校を辞めてから、あいつがどうしているのか、俺はまったく知らなかった。もともと物静かで、自分から積極的に話しかけてくるタイプではなかったけれど、それでも、こちらが話しかければ、いつも遠慮がちに、けれど嬉しそうに応じてくれた。そんな印象が、今でも記憶に残っている。
中退したという噂は、風の噂で耳にしていた。詳しい事情までは知らなかったし、こちらから連絡を取る勇気も、きっかけもないまま、時間だけが過ぎていった。連絡先は、今もスマホの中に残っている。それでも、今更どんな顔をして連絡すればいいのかわからないまま、結局一度も使うことなく、時間だけが過ぎていった。気にはなっていたけれど、それだけだった。
クラスの中でも目立つタイプではなかったけれど、時折見せる、ふとした優しさが印象に残っている。誰かが忘れ物をしたときにさりげなく貸してくれたり、体調が悪そうな人にそっと声をかけたり。そういう小さな気遣いを、当たり前のようにできる人間だった。だからこそ、突然学校に来なくなったと聞いたときは、正直かなり驚いた記憶がある。
あいつが学校に来なくなる少し前、様子がおかしいと感じたことが、実はあった。休み時間、いつもより口数が少なくて、どこか思い詰めたような顔をしていた日があったのを、今でも覚えている。「最近、元気ないけど大丈夫か」――そう声をかけようとして、結局かけられなかった。踏み込みすぎるのも変な気がしたし、そのうち向こうから話してくれるだろうという、都合のいい先延ばしをしてしまった。
あの時、もう少しちゃんと声をかけていたら。そんな「もしも」を、この一年、何度も頭の中で繰り返してきた。それでも、答えは今も出ないままだった。
「……いや、さすがに考えすぎか」
誰にともなく呟いて、俺はスマホの画面を閉じた。それでも、その夜はなぜか、なかなか寝付けなかった。もし本当にあいつだったら――そんな「もしも」が、頭の中を何度も巡り続けていた。
高校三年になった今、受験勉強と部活の引退が重なって、正直毎日それなりに慌ただしく過ごしていた。それなりに充実してはいるけれど、心のどこかで、何かが物足りない感覚も抱えている。そんな中で、かつてのクラスメイトの、思いがけない活躍らしきものに触れて、俺は自分でも驚くくらい動揺していた。
布団の中で、俺はもう一度、あの声を思い出そうとした。記憶の中の楓の声と、配信の中の「るか」の声。重なるようで、重ならないようで、はっきりとした答えは出てこない。それでも、もしあの声の主が本当に楓だったとしたら――どんな顔で、どんな気持ちで、今この配信を続けているんだろう。そんなことを考えているうちに、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。




