26. また異常なし……
炎上から数日が経った。コメント欄の攻撃的な空気は、以前ほどではないにせよ、まだ完全には収まっていなかった。それでも、俺は変わらず、いつも通りの配信を続けていた。
朝、いつも通り目を覚まし、階下に降りる。母さんはキッチンで朝食の準備をしていた。
「おはよう、楓」
「おはよう」
あっさりとした挨拶を交わしながら、俺は少しずつ、日常のリズムを取り戻しつつあることを実感していた。あの炎上騒動の直後は、朝起きるのすら億劫だった。それが今では、少しずつだけれど、いつも通りの朝を迎えられるようになっている。
トーストを一枚齧りながら、窓の外を眺める。特に代わり映えのしない朝の景色が、こんなにも安心できるものだとは、これまであまり意識したことがなかった。日常というのは、失いかけて初めて、そのありがたみに気づくものなのかもしれない。
朝食を済ませ、自室に戻る。ヘッドセットを手に取りながら、俺は小さく深呼吸をした。今日もまた、いつも通りの一日を積み重ねていくだけだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は配信を開始した。
配信を始める前、俺は少しだけ、この数日間のことを思い返していた。宣戦布告から始まり、PvP、そして炎上。目まぐるしい展開の連続で、正直、心が休まる暇もなかった。それでも、こうして変わらず配信を続けられているのは、周りの支えがあってこそだと、改めて実感していた。
「みなさん、おはようございます! 今日もいつも通り、防衛戦に向かいますよー」
努めて明るく振る舞うと、コメント欄にも、いつも通りの温度が少しずつ戻ってきているのがわかった。
【コメント】おはよう
【コメント】今日も元気そうで安心した
【コメント】無理はしないでね
温かい言葉に、俺は素直に励まされていた。あの炎上の日々を思えば、こうして変わらず応援してくれる人たちがいるという事実が、どれだけありがたいことか、身に染みて実感していた。
配信の合間、朝霧さんから短いメッセージが届いた。「調子はどうですか? 何かあれば、いつでも連絡してくださいね」という、いつも通りの気遣いに満ちた一文だった。
「あ、朝霧さん、ありがとうございます。今日はだいぶ落ち着いて配信できてます」
返信を打ちながら、俺はこの数日の変化を改めて実感していた。誰かがこうして日常的に気にかけてくれているというだけで、心の持ちようが随分と変わってくる。特別な言葉をかけられるわけではなくても、「見てくれている」という事実そのものが、大きな支えになる。そのことを、俺はこの数日で、身をもって学んだ気がした。
しばらくすると、今度はハチからも連絡が届いた。
「るかちゃん、最近どう? だいぶ落ち着いてきた感じ?」
「あ、ハチさん! はい、おかげさまで、少しずつ元気出てきました」
「よかった。また今度、一緒に暴れようね」
軽い調子のメッセージに、俺は自然と頬が緩んだ。周りにこうして気にかけてくれる人がいるという事実だけで、日々の重さが随分と軽くなっていく。
思えば、この数日間で、自分を取り巻く人間関係のありがたみを、これまで以上に痛感させられた。朝霧さんの冷静なサポート、ハチの気負わない励まし、そして母さんの変わらない日常。どれも当たり前のようでいて、実は当たり前ではない、かけがえのない支えだった。
防衛戦の通知が届き、俺はいつも通り、担当エリアへ向けて歩き出す。道中、視界の端に敵の反応が浮かび上がった。
歩きながら、俺はふと、ここ数日の出来事を振り返っていた。宣戦布告、PvP、そして炎上。目まぐるしい日々だったけれど、こうして変わらず配信を続けられていること自体が、一つの成果のように思えてくる。
「なんか、色々あったけど、なんとか乗り越えられてる気がします。応援してくれる皆さんのおかげです」
【コメント】無理しすぎないでね
【コメント】るかのペースでいいと思うよ
【コメント】これからも応援してる
温かいコメントの数々に、俺は改めて胸が熱くなった。誰かに支えられているという実感が、これほどまでに力になるとは、この一連の騒動を経験するまで、あまり自覚していなかった。
考えてみれば、これまでの人生では、困難な状況に直面するたびに、一人で抱え込んで、一人で乗り越えようとしてきた。それが今回は、意識せずとも、周りの誰かに支えられながら、少しずつ立ち直っていくことができている。この違いが、いつからどうして生まれたのか、自分でもはっきりとはわからない。それでも、この変化を、素直に喜んでいいのだと、今なら思える。
両腕を構え、迫る一撃を受け止める。ガキンッという重い音とともに、いつも通りの手応えが伝わってきた。
「インパクトスマッシャー!」
いつも通りの一撃で、敵の姿が崩れ落ちる。続けて現れた二体目、三体目にも、同じ要領で対処していく。ガードして、踏み込んで、殴る。この単調な繰り返しの中に、俺はいつも通りの安心感を見出していた。
【コメント】相変わらずの強さ
【コメント】この安定感、見てて落ち着く
【コメント】炎上とか関係なく強いの、地味にすごい
「いつも通りが一番ですからね! これだけは、何があっても変わらないです」
軽口を交わしながら、俺は残りの敵も丁寧に片付けていった。周囲の状況がどれだけ変わっても、こうして体を動かし、目の前の敵と向き合う時間だけは、不思議と変わらない安定感を保ち続けてくれる。それが今の自分にとって、どれほど心強いことか、俺は改めて実感していた。
残った数体の敵も、いつも通りのリズムで片付けていく。ガードして、踏み込んで、殴る。この単調な繰り返しが、これほどまでに心を落ち着かせてくれるとは、以前は考えたこともなかった。混乱した日々の中で、変わらないものがあるという事実だけで、これほど救われる気持ちになれるとは、自分でも意外だった。
配信を続けながら、ふと画面の隅の登録者数に目をやる。「215,890人」。炎上の影響で一時的に伸び悩むかと思っていたが、蓋を開けてみれば、むしろ緩やかに増え続けていた。
「なんか、これも不思議な現象ですね……荒れてるはずなのに、数字は増えてるっていう」
【コメント】炎上商法にはなってないと思うけどな
【コメント】単純に興味持つ人が増えてるんだと思う
【コメント】良くも悪くも注目されてるってことだよ
考えてみれば、この一連の騒動を通して、自分の存在は、良くも悪くも、より多くの人の目に触れるようになった。それが結果的に登録者数の増加という形で表れているのだとしたら、なんとも皮肉な話だ。それでも、この数字の裏側に、それぞれ違う理由で見てくれている人たちがいるのだと思うと、複雑ながらも、悪い気はしなかった。数字の増減に一喜一憂するのではなく、その向こうにいる一人一人と、丁寧に向き合っていきたい。そんな気持ちを、俺は改めて強くしていた。
配信を終え、いつものように現実へと戻る。夕食の席で、母さんが尋ねてきた。
「楓、あの騒動、落ち着いてきた?」
「うん、少しずつだけど。まだ完全にはって感じじゃないけど」
「無理しないでね」
「うん、ありがとう」
短いやり取りだったけれど、母さんの気遣いが、日々の支えになっていることを、俺は改めて実感していた。何気ない会話の積み重ねこそが、日常を支える一番の土台なのかもしれない。
「そういえば、楓の好きなおかず、今日は多めに作ったから」
さりげない一言に、俺は思わず笑みがこぼれた。何気ない日常の中に、こうしてささやかな気遣いが散りばめられている。それだけで、この数日間の疲れが、少しずつ癒されていく気がした。
「ありがとう、母さん。なんか、最近すごく助けられてる気がする」
「そんな大したことしてないけどね」
照れくさそうに笑う母さんの表情に、俺は改めて感謝の気持ちを噛み締めた。派手な励ましでも、大げさな慰めでもない。ただ、いつも通りの日常を、変わらず提供し続けてくれる。その存在の大きさに、俺は今更ながら気づかされていた。
食後、部屋に戻ってから、俺はもう一度、今日一日を振り返っていた。炎上の余波はまだ完全には消えていないけれど、日常は少しずつ、確かに元の形を取り戻しつつある。焦らず、一歩ずつ。そんな当たり前のことを、俺は今、改めて噛み締めていた。
【ARES Entertainment 不正監視班 白峰遼(28歳)視点】
今日もまた、朝一番にモニターの前に座り、昨日の戦闘ログを一つ一つ確認していく作業から一日が始まった。
あの炎上騒動から数日が経ち、社内の空気も少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。それでも、私にとっての仕事は、何も変わらない。証拠を探し、データを検証し、そして結局は「異常なし」という結論に行き着く。その繰り返しだった。
この仕事に就いてから、もう何年も経つ。最初の頃は、明確な不正の証拠を見つけるたびに、ある種の達成感のようなものを感じていた。それが今では、証拠が見つからないことの方が、むしろ日常になっている。特にこの「るか」という配信者の案件は、これまで担当してきたどの案件よりも、根深く、そして厄介だった。
「また、異常なし……か」
誰にともなく呟いて、私は報告書に淡々とその一文を書き記した。何度目になるかわからない、同じ結論。それでも、義務として、毎回丁寧に検証を重ねる必要がある。手を抜けば、いつか本当に見落としてはいけないものを見逃してしまうかもしれない。そういう緊張感だけは、常に持ち続けるようにしていた。
デスクの上には、これまで積み重ねてきた調査資料が、小さな山を作っていた。ダメージ判定の異常値、被弾記録の乖離、そして今回のFortressランク個体撃破の記録。どれもこれも、通常のプレイスタイルでは説明のつかない、異質な結果ばかりだった。それでも、規約違反を裏付ける決定的な証拠は、いまだに一つも見つかっていない。
同僚たちの中には、「そろそろ諦めて、実力だと認めたらどうだ」と冗談交じりに言ってくる者もいた。それも一理あるとは思う。それでも、私の中には、まだ拭いきれない違和感が残り続けていた。実力と呼ぶには、あまりにも異質すぎる結果の数々。何かが隠れているという確信だけは、揺らいだことがなかった。
この仕事を選んだのは、ゲームというものを、誰もが公平に楽しめる場所にしたいという、ある種の理想からだった。不正が野放しにされれば、真面目に努力しているプレイヤーが報われなくなる。そういう不公平を許したくないという気持ちが、これまでの調査の原動力になっていた。学生時代、自分自身が理不尽な評価に悔しい思いをした経験も、少なからず影響しているのかもしれない。
だからこそ、この案件には、人一倍こだわりを持って向き合ってきた自負がある。証拠が出ないからといって、簡単に匙を投げるわけにはいかなかった。
ふと、デスクの上に置かれたままの、桜庭からの報告書が目に留まった。「シャドーダイビングのスキル構成について」というタイトルだけが記されていて、中身はまだ受け取っていない。数日前に軽く相談を受けて以来、桜庭は黙々と一人で調査を進めているようだった。彼女らしい、慎重で丁寧な仕事ぶりだった。
内線をかけてみると、少し疲れた声で桜庭が応答した。
「あ、白峰さん。すみません、まだ調査中で……もう少しだけ、お時間いただけますか」
「わかった。急かすつもりはないよ。ただ、進捗だけでも教えてもらえると助かるよ」
少しの沈黙の後、桜庭が言葉を選ぶように話し始めた。
「実は、あのスキルの実装経緯を遡って調べてたんですけど、想定していたより複雑な構造になっていて。単純なパラメータ異常とかじゃなくて、もっと根本的な部分に関わってそうなんです」
桜庭の声には、いつになく緊張の色が滲んでいた。よほど大きな発見に近づいているのだろうと、私は直感的に感じ取った。
「根本的な部分、というと?」
「潜水判定システムとの関連を洗ってるんですけど、思ったより根が深そうで……エンジンの根幹部分まで絡んでる可能性があります」
その言葉に、私は思わず身を乗り出した。
「潜水判定? あの機体、海洋マップも実装されていないのに、なぜそんなものと関係が?」
「まだ確証はないんです。ただ、この機体に付与されているスキルの中に、本来のスキルプールには存在しないはずのものが、一つ混じっている可能性があって」
桜庭の声には、慎重さと同時に、確かな手応えのようなものが滲んでいた。
「それが分かれば、これまでの異常の説明がつくかもしれない、ということか」
「まだ断定はできません。ただ、少なくとも、単なる『頑丈な機体だから』では片付けられない、技術的な要因がありそうです」
「引き続き、頼めるか」
「はい。もう少し時間をいただければ、もっと具体的な報告ができると思います」
「無理はしないでくれ。焦って結論を出すより、確実な検証の方が大事だ」
「ありがとうございます。その言葉、励みになります」
電話の向こうから聞こえる桜庭の声に、わずかながら安堵の響きが混じっていた。
電話を切った後、私はしばらく、その情報を頭の中で整理していた。もし桜庭の調査が正しければ、これまで「異常なし」で片付けてきた案件の背景に、初めて具体的な技術的根拠が見えてくることになる。
これまでの調査人生の中で、これほど長期間にわたって「証拠なし」の状態が続いた案件は、記憶にない。それでも、桜庭の言葉には、これまでにない確かな手応えが感じられた。潜水判定システム、本来のプールに存在しないスキル――断片的な情報だけでも、何か大きな真相へと繋がる糸口になりそうな予感がある。長年の勘が、そう告げていた。
それでも、まだ何も確定していない。焦って結論を急げば、間違った方向に進んでしまう可能性もある。私は逸る気持ちを抑えながら、報告書の続きに向き直った。
「もう少しだ……もう少しで、何かが見えてくる気がする」
誰に言うでもなく、そう呟く。この長い調査の日々に、ようやく小さな光が差し込み始めているのを、私は確かに感じ取っていた。
そこへ、一ノ瀬さんから内線が入った。
「白峰くん、例の子の件、進捗どうだ?」
「実は今、桜庭さんの方から、興味深い情報が上がってきています。スキル構成に、何か特殊な要因がある可能性が出てきました」
「ほう。詳しく聞かせてくれ」
私は、先ほど桜庭から聞いた内容を、かいつまんで説明した。潜水判定システムとの関連、そして本来のプールに存在しないはずのスキルの可能性。話を聞き終えた一ノ瀬さんは、しばらく黙り込んでいた。
「もしそれが事実だとしたら、これまでの『異常なし』にも、ようやく説明がつくということか」
「まだ断定はできませんが、その可能性はあると思います」
「わかった。桜庭の調査、引き続き最優先で進めてもらってくれ。何かわかったら、すぐに私にも共有してほしい」
「承知しました」
「それと白峰くん、これまでの根気強い調査、私からも感謝している。証拠が出ないからといって、投げ出さずに続けてきたことには、きっと意味がある」
思いがけない労いの言葉に、私は少しだけ胸が熱くなった。孤独な作業の連続だったこの調査に、ようやく理解者が増えていく実感があった。
「ありがとうございます。引き続き、慎重に進めていきます」
通話を終え、私は改めて気を引き締めた。これまでの徒労とも思えた日々が、ようやく一つの形を持ち始めている。そのことに、静かな高揚感を覚えずにはいられなかった。
ふと、これまで何十回と繰り返してきた「異常なし」という結論の重みについて考える。表面的には、何も進展していないように見えるかもしれない。それでも、こうして地道にデータを積み重ねてきたからこそ、桜庭の発見にも辿り着けたのだと思う。無駄な調査などなかったのだと、今なら少しだけ胸を張って言える気がした。
窓の外は、いつの間にか夕暮れに変わっていた。今日という一日も、結局は「異常なし」の報告書を一枚積み重ねただけだった。それでも、桜庭からもたらされた小さな手がかりが、これまでの徒労感を、わずかながら意味のあるものに変えてくれた気がした。
明日もまた、同じような一日が続くのかもしれない。それでも、今日感じたこの小さな手応えを胸に、私は淡々と、次の調査へと向き合っていくつもりだった。
パソコンの電源を落とす前に、私はもう一度、桜庭からの報告書のタイトルを見つめた。「シャドーダイビングのスキル構成について」。この地味な文字列の向こうに、これまでの謎を解き明かす鍵が眠っているのかもしれない。そう思うと、これまでの徒労感が、少しずつ期待へと変わっていくのを感じた。
オフィスを出て、夜風に当たりながら、私はふと空を見上げた。この長い調査の日々にも、いつか終わりが来る。それがどんな結末になるのか、まだ誰にもわからない。それでも、今日という一日が、その終わりへの確かな一歩になったことだけは、間違いなかった。
自宅への帰り道、私は珍しく足取りが軽くなっているのを感じた。長らく行き詰まっていた案件に、ようやく光明が差し込んだ実感がある。明日からも、この調査に真摯に向き合い続けよう。そう静かに決意しながら、私は夜の街を歩いていった。




