25.炎上、始まる
朝、目を覚ましてすぐ、俺はいつものように通知欄を確認した。昨日の対戦の余韻がまだ残っているだろうとは思っていたが、画面に表示された数を見て、俺は思わず息を呑んだ。
通知の数が、これまでとは桁違いだった。普段なら数十件程度のはずの通知欄が、今日は三桁を優に超えている。何かの不具合かと思うほどの数だった。
「うわ、なんか、すごいことになってる……」
恐る恐る内容を確認してみると、そこには昨日までとは明らかに違う種類の言葉が並んでいた。「あんな勝ち方で恥ずかしくないのか」「レンさんが可哀想」「結局チートだから無傷なんだろ」――攻撃的な言葉の羅列に、俺はしばらく画面を閉じることもできずにいた。
一つ一つの言葉を目で追うたびに、胸の奥がずしりと重くなっていく。これまでも疑いの声はあったが、今回のように、はっきりとした悪意を伴う言葉が、これほどの数、一斉に押し寄せてきたことは一度もなかった。
布団の中で、俺はしばらく動けずにいた。今日はいつもより早く目が覚めたはずなのに、身体がまるで鉛のように重かった。それでも、配信を休むという選択肢は、なぜか頭に浮かんでこなかった。ここで止まってしまったら、何かに負けてしまう気がした。
支度を整えながら、俺は何度も深呼吸を繰り返した。いつも通りの朝の手順を一つ一つこなすことで、少しずつ心を落ち着けていく。母さんの淹れてくれたお茶を一口飲むと、強張っていた肩が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
配信を開始すると、コメント欄にも、これまでにない種類の空気が漂っていた。
【コメント】昨日の対戦見たけど、ちゃんと見返すとやっぱりおかしい
【コメント】技術も何もない戦い方なのに、なんで最後まで無傷なんだよ
【コメント】レンさん可哀想すぎる、あの努力があんな終わり方するなんて
これまでも疑いの声はあった。それでも、今日のこの反応は、明らかに質が違っていた。好奇心や困惑ではなく、はっきりとした敵意が、画面越しに伝わってくる。
コメントの流れる速度も、これまでとは比べ物にならないほど速かった。好意的な言葉が一つ流れる間に、否定的な言葉が三つも四つも重なって流れていく。数の上では偏っていないはずなのに、視覚的な圧倒感だけで、心が押し潰されそうになる。
「あの……皆さん、いつもとちょっと雰囲気違いますね」
努めて明るく振る舞おうとしたが、声が微かに震えているのが自分でもわかった。
【コメント】転がって偶然当たっただけの相手に、なんで無傷でいられるんだよ
【コメント】レンさんがあそこまで努力してるの知ってて、あの結果はひどい
【コメント】もう配信やめた方がいいんじゃない?
最後のコメントに、俺は思わず息を呑んだ。これまで、こんなふうにはっきりと「やめろ」と言われたことは、一度もなかった。
画面の隅の登録者数に、ふと目をやる。「198,760人」。これだけ多くの人に見られている自分の存在が、今この瞬間、たった一つの否定的な言葉によって、根底から揺さぶられている。数字の大きさと、心の脆さは、まったく比例しないものらしい。
「あの、えっと……」
言葉が出てこなかった。何か言い返そうにも、自分の中に、こういう攻撃的な言葉に対抗するだけの経験も、語彙も持ち合わせていない。学校でも、誰かと言い合いになるような場面は、できる限り避けて生きてきた。そんな自分に、今さらこの状況を切り抜けるだけの武器があるはずもなかった。
防衛戦の通知が届いたが、俺はしばらく、その場から動けずにいた。
しばらくして、朝霧さんから緊急の通話が入った。
「るかさん、大丈夫ですか? 今の状況、把握しています」
「あ、朝霧さん……なんか、急にコメントの雰囲気変わって、正直かなり動揺してます」
「無理もないです。対戦の反響が、想定していたよりも大きく、悪い方向にも波及しています。ただ、これだけは覚えておいてください。今、るかさんを攻撃している人たちは、視聴者全体のごく一部です」
落ち着いた声のトーンに、俺は少しだけ息を整えることができた。電話の向こうの声が、こんなにも心強く感じられるとは、自分でも意外だった。
「実際の数字で見ても、否定的なコメントの割合は、全体の一割にも満たないんです。ただ、そういう言葉は、どうしても目立って見えてしまう。人間の心理として、当然のことです」
「一割……そう言われると、少し落ち着きます」
「アンチコメントは、非表示設定にすることもできます。今すぐ設定しましょうか」
「あ、いえ……なんか、逃げてるみたいで、それはちょっと抵抗があります」
「わかりました。無理にとは言いません。ただ、心が辛くなったら、いつでも言ってください。すぐに対応します」
「ありがとうございます……なんか、朝霧さんが冷静でいてくれるだけで、随分違います」
「これぐらいのことで、私は動じません。るかさんの方こそ、無理をしすぎないでくださいね」
電話越しの声には、いつもと変わらない、頼もしい落ち着きがあった。
その言葉に、俺は小さく笑うことができた。こんな状況でも、誰かと軽くやり取りできる余裕が、まだ自分の中に残っている。それだけで、少しだけ安心できた。今日一日、なんとか持ちこたえられそうな気がしてきた。
通話を終え、俺は改めて配信画面に向き直った。それでも、コメント欄の攻撃的な空気は、収まる気配を見せなかった。
「あの、皆さん……私、本当に何か特別な技を使ってるわけじゃないんです。昨日のも、正直ただ無我夢中で転がってただけで……」
【コメント】それが一番怪しいんだよ
【コメント】技術ゼロで無敗って、逆にどういう理屈だよ
【コメント】レンさんの努力バカにしてるみたいで見てて辛い
言葉を重ねれば重ねるほど、状況は悪化していくようだった。何を言っても、火に油を注ぐだけになってしまう。そのことに気づいて、俺は次第に口数が少なくなっていった。
黙り込んでしまった俺を見て、コメント欄はさらにざわついた。「やっぱり後ろめたいことがあるんじゃないか」「反論できないってことは図星なんだろ」――そんな声が、次々と流れていく。何をしても、何をしなくても、悪い方に解釈されてしまう。この八方塞がりの感覚に、俺は次第に呼吸すら浅くなっていくのを感じていた。
そんな中、ハチからのメッセージが届いた。
「るかちゃん、大丈夫? コメント欄、なんかすごいことになってるみたいだけど」
「あ、ハチさん……なんか、今日はちょっと、しんどいです」
「無理しないでいいからね。俺も一応、コメント欄で援護しとくから」
その言葉通り、しばらくすると、コメント欄に見覚えのある名前が現れた。
【コメント】(ハチ)るかちゃんは真面目にやってるだけだよ、みんな落ち着いて
【コメント】お、ハチさんだ
【コメント】味方コメントありがたい
友人が、こうして公の場で自分を擁護してくれている。その事実に、俺は思わず目頭が熱くなった。一人じゃない、という実感が、こんなにも心を軽くしてくれるとは、これまであまり知らずにいた。
配信の裏側で、ハチはさらにいくつかメッセージを送ってくれていた。「困ったら俺の名前出していいから」「一人で抱え込まなくていいからね」。画面越しの言葉だけれど、そこに込められた気遣いは、確かに本物だった。
「ハチさん、ありがとうございます……なんか、めちゃくちゃ助かりました」
配信の中でそう呟くと、コメント欄の空気が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。それでも、コメント欄の中には、まだ擁護してくれる声も確かに存在していた。
【コメント】いや、るかは何も悪くないだろ
【コメント】疑うなら疑うでいいけど、本人責めるのは違う
【コメント】アンチ湧きすぎ、頑張れるか
賛否が真っ二つに割れた空気の中、俺はどう振る舞えばいいのか、まったくわからなくなっていた。攻撃してくる声にも、擁護してくれる声にも、それぞれに理由があって、それぞれに真剣さがある。その両方を同時に受け止めることの難しさを、俺は今日初めて実感していた。
しばらくの間、俺はコメント欄を眺めることしかできずにいた。何を言えば正解なのか、まったくわからない。それでも、ここで完全に黙り込んでしまうのも、なんだか違う気がした。
「あの、皆さん、擁護してくれてる方も、批判してくれてる方も、ちゃんと読んでます。すぐには何も変えられないですけど、いつも通り、配信は続けていこうと思います」
精一杯絞り出したその言葉に、コメント欄はさらに賑やかになった。それでも、その賑やかさの中に、これまでにはなかった種類の熱――励ましにも似た温度が、確かに混じっているのを感じた。
防衛戦をこなす間も、コメント欄は荒れたままだった。いつも通り両腕を構え、迫る一撃を受け止める。
「インパクトスマッシャー!」
いつも通りの一撃で、敵の姿が崩れ落ちる。それでも、今日はその瞬間ですら、素直に喜べなかった。続けて現れた二体目にも、同じ要領で対処していく。手は止めない。止めてしまったら、本当に何かに負けてしまう気がした。
【コメント】この状況でも余裕そうに見えるのがまた腹立つ
【コメント】いや、無理して普通にしてるだけだろ
【コメント】本人めちゃくちゃ辛そうに見えるけど
コメント欄の反応は、相変わらず真っ二つに割れていた。それでも、こうして戦い続けることだけは、誰にも奪えない自分だけの領域だという気がした。ガードして、踏み込んで、殴る。この単調な繰り返しの中にだけ、今の自分が拠り所にできる確かなものがあった。
残りの敵を片付け終えると、俺は小さく息をついた。防衛戦が終わっても、心は少しも軽くならなかった。それでも、こうして最後までやり遂げられたことに、俺はほんの少しだけ、自分を認めてやりたい気持ちになった。
配信を終え、いつものように現実へと戻る。夕食の席で、母さんが俺の様子を見て、すぐに何かを察したようだった。
「楓、何かあったの?」
「うん……なんか、今日、結構キツいこと言われて」
「大丈夫? 話したくなかったら、無理に話さなくていいから」
優しい気遣いに、俺は少しだけ涙腺が緩みそうになった。母さんの声のトーンだけで、これほど安心できるとは、自分でも予想していなかった。
「なんか、配信やめろって、言われた」
声が、思っていたより小さく震えていた。自分でも、こんなに動揺するとは思っていなかった。母さんは、しばらく何も言わず、ただ俺の隣に座った。
「そう言われて、楓はどう思ったの?」
「悔しいっていうか……悲しいっていうか。自分でもよくわからないけど、なんか、すごく苦しかった」
言葉にしてみると、抱えていた感情の輪郭が、少しずつはっきりしてくる気がした。母さんは、黙って耳を傾けてくれていた。
「楓は、配信続けたい?」
迷いのない、まっすぐな問いだった。
「うん……続けたい。まだ、やめたくない」
「なら、それでいいんじゃない」
シンプルな一言だったけれど、その言葉には、確かな重みがあった。誰に何を言われようと、自分の気持ちを一番に尊重していい。そんな当たり前のことを、俺は今、改めて教えられた気がした。
「辛かったら、無理しないでね。ご飯だけは、ちゃんと食べに来なさい」
いつも通りの、それでいて今日はいつも以上に染み入る一言だった。俺は小さく頷いて、久しぶりに、涙をこらえずに済んだ。
母さんは、それ以上何も聞かず、ただ静かに隣に座り続けてくれた。何かを解決してくれるわけでも、励ましの言葉を並べ立てるわけでもない。ただ、そこにいてくれる。その事実だけで、今の自分にとっては、何よりの支えになっていた。
しばらくして、涙が落ち着いた頃、母さんがぽつりと呟いた。
「楓が頑張ってるの、ちゃんと見てるからね」
その一言に、俺はまた泣きそうになるのをこらえた。誰かにきちんと見てもらえている。そのことが、こんなにも心を軽くしてくれるとは、これまであまり実感したことがなかった。
食後、部屋に戻ってから、俺はもう一度、今日届いた言葉の数々を思い返していた。攻撃的な言葉の一つ一つが、まだ胸に重く残っている。それでも、母さんの言葉と、朝霧さんの支え、そしてハチのような友人の存在が、その重さを、少しずつ和らげてくれていた。
考えてみれば、これまでの人生でも、誰かに嫌われることを、何よりも恐れて生きてきた。だからこそ、こうしてはっきりとした敵意を向けられる経験は、これまで味わったことのない種類の痛みを伴っていた。それでも、不思議なことに、完全に潰れてしまうことはなかった。
その理由は、はっきりしている気がした。一人じゃないからだ。攻撃してくる人たちの声は確かに大きいけれど、それを上回る数の、支えてくれる人たちの存在がある。その事実を、今日という一日で、痛いほど実感させられた。
スマホの画面に、もう一度コメント欄を表示させてみる。攻撃的な言葉の合間に、確かに存在する擁護の声。その一つ一つを、俺は今日、丁寧に読み返していった。
中には、見覚えのないアカウントから、長文の応援メッセージが届いていた。「初めてコメントします。いつも配信見て元気もらってます。心無い言葉に負けないでください」――そんな一文に、俺はしばらく画面を見つめたまま、動けなくなった。顔も名前も知らない誰かが、これほどまでに真剣な言葉をかけてくれている。その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。明日、この炎上がどう転がっていくのか、まだ何もわからない。それでも、続けたいという気持ちだけは、今日一日で、むしろはっきりとしたものになっていた。
目を閉じる前、俺はもう一度、母さんの言葉を思い返した。「なら、それでいいんじゃない」。シンプルなその一言が、今の自分にとって、何よりの支えになっていた。
明日もまた、コメント欄には様々な言葉が並ぶだろう。それでも、今日という一日を乗り越えられたという事実だけは、誰にも奪えない自分だけのものだった。眠りに落ちる直前、俺はそのことを、静かに噛み締めていた。
【ARES Entertainment 不正監視班 白峰遼(28歳)視点】
深夜、社内のモニタリングシステムに、異常な数のアラートが上がっていた。特定の配信者――「るか」に関連する通報件数が、過去最多を記録している。
通報内容の大半は、「チート使用の疑い」という漠然としたものだった。具体的な証拠を伴う通報は、これまでと変わらず一件もない。それでも、これだけの数の通報が一斉に上がってくるという事実自体が、一つの異常事態だった。数の暴力とでも言うべき現象が、目の前で静かに進行していた。
「これ、対応どうしましょうか」
部下からの問いに、私はしばらく考え込んだ。深夜のオフィスは静まり返っていたが、モニターに映る通報件数のグラフだけが、異様な存在感を放っていた。
「通報内容自体に、新しい証拠はない。これまで通り、調査は継続するが、緊急の対応措置は取らない。ただし――」
言葉を切って、私は画面に表示された炎上の様子を見つめた。
「本人のメンタルケアについては、コミュニティ担当と連携して、必要なサポートを検討してもらった方がいいかもしれない」
規約違反の証拠がない以上、運営として本人に不利益な対応を取ることはできない。それでも、この状況を放置すれば、いずれ配信者本人が潰れてしまうかもしれない。そのことを、私は密かに懸念していた。組織として動ける範囲と、目の前の人間を守りたいという気持ちの間で、私はいつも板挟みになる。
これまでの調査人生で、何度もこういう場面に立ち会ってきた。規約上は問題のない配信者が、心無い誹謗中傷に晒される。運営としては、法律や規約の範囲内でしか動けないもどかしさが、いつもつきまとう。
「担当のクリエイターサポートには、既に連絡を入れてあります。何かあれば、すぐに対応できる体制は整っているはずです」
「それを聞いて安心した。とはいえ、こちらとしても、できることは限られている。せめて、調査だけは着実に進めていくしかないな」
ふと、以前デバッグ班の桜庭から聞いた話を思い出す。あのスキルの件、まだ詳しい報告を受けていなかった。気になりつつも、催促するほどのことでもないと、私はその話題を一旦、頭の隅に追いやった。
「そういえば、桜庭さんの調査、その後どうなってる?」
「まだ本人から詳細な報告は上がってきていません。ただ、かなり慎重に調べを進めているようです」
「わかった。急かさなくていい。ただ、何かわかったら、すぐに共有してほしいと伝えておいてくれ」
部下が退室した後、私はしばらく一人、モニターの前で考え込んでいた。この配信者を巡る騒動は、これまで自分が扱ってきたどの案件とも、性質が異なっている気がしてならない。悪意も、明確な不正の意図も感じられない。それなのに、周囲を巻き込んで、これほどまでに大きなうねりを生み出している。
モニターに表示された「るか」のプロフィールを、私は改めて見つめた。この騒動が、一体どんな結末を迎えるのか。まだ誰にも予想がつかない。それでも、この状況が、これ以上悪い方向に転がらないことを、私は静かに願っていた。
窓の外はすっかり夜が更けていた。デスクの上に積まれた資料を一つ一つ整理しながら、私は明日への課題を頭の中で整理していく。証拠のない疑惑と、それに振り回される人々。この構図に、いつか終止符を打てる日が来るのだろうか。答えの出ない問いを抱えたまま、私はその日の業務を終えた。




