20. 面白い、と運営が困惑した日
朝、いつも通り身支度を整えていると、ふと視界に入った登録者数の表示に、俺は思わず二度見した。
「え、ちょっと待って、これ……」
画面に表示されていたのは「98,720人」という数字だった。あと少しで、大台に届きそうな勢いだった。
「もうすぐ十万人って、本当に……?」
実感の湧かないまま、俺は身支度を済ませて自室に戻った。今日という日が、何か特別な意味を持ちそうな予感が、朝から漂っていた。
思えば、配信を始めた頃は、視聴者数が一桁増えるだけで一日中浮かれていた。それが今では、十万人という単位の数字を目の前にしても、まだどこか他人事のような感覚が拭えない。人の感覚というのは、案外いい加減にできているものらしい。
配信を始めると、いつもと違う緊張感が漂っていた。今日は、世界ランキング上位のプレイヤーたちも参加する、大規模な討伐イベントが予定されているらしい。
「今日は結構豪華メンバーが揃ってるみたいですね」
【コメント】皇帝牙も参加するって噂あるよ
【コメント】世界ランク1位だぞ、あの人
【コメント】生で見れるかもしれないの、地味に楽しみ
「皇帝牙……名前は聞いたことあります。すごい人なんですよね?」
【コメント】すごいなんてもんじゃない
【コメント】ソロで世界1位取ってる化け物だよ
【コメント】配信もしてないから、素顔も戦い方も謎に包まれてる人
「配信もしてないのに、そんなに有名なんですか」
【コメント】実績だけで語り継がれてるタイプ
【コメント】切り抜きとか大会中継でしか見れない
【コメント】ある意味るかとは真逆の有名人だな
未知の存在に対する漠然とした緊張を抱えながら、俺はいつも通り、担当のコアへ向けて歩き出した。
防衛戦は、これまでにない規模で展開されていた。あちこちで爆発音が響き、怒号にも似た声が飛び交っている。俺はいつも通り、両腕を構えて目の前の敵に立ち向かった。
「よし、いつも通りいきますよ!」
ガキンッという重い音とともに、敵の一撃を受け止める。踏み込んで拳を叩き込み、肘の杭を突き立てる。
「インパクトスマッシャー!」
敵の姿が崩れ落ちる。いつも通りの光景。それでも、今日はどこか、視線の質が違う気がした。
立て続けに現れる二体目、三体目にも、同じ要領で対処していく。今日の敵は、これまでよりも数が多く、しかも一体一体の動きも鋭かった。それでも、ガードして踏み込んで殴るという、いつものリズムを崩すことなく、俺は着実に敵を減らしていった。
【コメント】この物量でも変わらないの安定感
【コメント】もう危なげなさすぎて逆に心配になってきた
【コメント】心配する意味あるのかそれ
「大丈夫ですって! いつも通りですから!」
軽口を返しながら、俺はさらに敵を捌いていく。今日の防衛戦は、これまでにないほどの物量だったが、それでも一体ずつ丁寧に対処していけば、着実に数は減っていく。ガードして、踏み込んで、殴る。単調とも言えるその繰り返しが、今日も自分を支えてくれていた。
ふと、周囲から歓声にも似たどよめきが上がった。何事かと視線を巡らせると、視界の端に、ひときわ異質な動きをする一体の機体が映った。無駄のない、洗練された動き。次々と敵を薙ぎ払っていくその様は、これまで見てきたどのプレイヤーとも一線を画していた。
その機体は、これまで見てきたどの機体とも違う、独特のシルエットをしていた。背部には、後方に大きく反り返った一対の巨大なブレードが取り付けられていて、まるで蜻蛉の翅のようにも見える。頭部には円盤状のセンサーユニットが据えられ、全身は渋いオリーブとブロンズが混じり合った、重厚な迷彩色に覆われていた。翼状のブレードには「64G」の文字と、見覚えのない識別番号が刻まれている。攻撃ヘリを思わせる、無骨で機能美に溢れたその姿は、遠目からでも一目で異質だとわかるほどの存在感を放っていた。
「あれ……もしかして」
言葉を失っている間に、その機体はあっという間に近くの敵を殲滅し、こちらの方へと視線を向けた――ような気がした。
【コメント】キタ!皇帝牙だ!
【コメント】生で見れるとかラッキーすぎる
【コメント】るかと皇帝牙が同じ画面にいるの、なんか感慨深い
「え、本物ですか? どうしよう、何か挨拶とかした方がいいんですかね」
戸惑っている間に、当の本人は特に近づいてくる様子もなく、黙々と別の敵に向かっていった。肩透かしを食らったような気分で、俺は思わず苦笑する。
「あ、あれ? 素通りされた……」
【コメント】まあ皇帝牙だしな
【コメント】無駄口叩かないタイプらしいから
【コメント】でも絶対見てたと思うよ、今の一撃
軽く肩透かしを食らったまま、俺は残りの敵の掃討を続けた。それでも、心のどこかで、あの一瞬の視線が気になって仕方なかった。値踏みされたのか、それとも単に興味本位で見られただけなのか。判断のしようがないまま、時間だけが過ぎていく。
その言葉通り、討伐イベントが一区切りついた頃、その機体が今度は真っ直ぐこちらに向かって歩いてきた。俺は思わず身構える。
「あの、お疲れ様です……えっと」
相手は何も言わず、しばらくこちらの機体を眺めていた。値踏みするような、あるいは観察するような、静かな視線だった。
「……面白い」
短く、それだけを告げると、皇帝牙は踵を返し、再び戦場の奥へと消えていった。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしたまま、今の一言を反芻していた。声の響きには、皮肉も揶揄いも感じられなかった。ただ、静かな興味だけが滲んでいる、そんな声色だった。
「面白い……って、どういう意味だったんでしょう」
【コメント】は?????
【コメント】皇帝牙が喋った!?しかも褒めた!?
【コメント】事件だろこれ、あの人が誰かに興味示すの初めて見た
コメント欄が、これまでにない勢いで沸き立っていた。困惑と興奮が入り混じったその空気に、俺自身、まだ状況をうまく飲み込めずにいた。
【コメント】皇帝牙って基本無関心を貫いてる人なんだよ
【コメント】強さにも他人にも興味なさそうなタイプ
【コメント】その人が「面白い」って言うの、控えめに言って大事件
「そんな大層な人だったんですか……なんか、想像以上に大変な人に声かけられてた気がしてきました」
「褒められた、んですかね……? なんか、素直に喜んでいいのか、よくわからないです」
それでも、悪い意味の言葉ではなさそうだということだけは、なんとなく伝わってきた。
防衛戦を続ける間、俺はふと、皇帝牙の後ろ姿を目で追ってしまう自分に気づいた。あれほどの実力者が、なぜ自分のような新人に興味を持ったのか。理由は今もわからないままだった。それでも、あの一言が、これから先の自分の中で、小さな指針のようなものになる気がしていた。
「よし、私も負けじと頑張りますか!」
気を取り直して、俺は残った敵の掃討に戻った。周囲では、依然として大規模な戦闘が続いている。それでも、さっきまでとは違う種類の高揚感が、胸の奥にじんわりと広がっていた。
ふと、画面の隅の登録者数に目をやると、朝見た数字から、さらに大きく伸びていることに気づいた。
「あ……これ」
表示されていたのは「100,412人」という数字だった。
「え、十万人、超えてる……!」
思わず声が裏返った。今朝、あと少しだと思っていた大台に、まさか今日のうちに到達するとは。
【コメント】ちょうどこのタイミングで達成とか出来すぎだろ
【コメント】皇帝牙効果すごすぎる
【コメント】十万人記念、おめでとう!
「ありがとうございます……! なんか、実感が全然湧かないですけど、本当に嬉しいです!」
配信を始めた頃、視聴者が数人しかいなかったあの日々を思い返す。ゼロから始まったものが、こんなにも大きな数字に育っている。改めて数字として突きつけられると、その重みに、胸の奥が熱くなった。
朝霧さんにも、この報告はしておいた方がいいかもしれない。そんなことを考えながら、俺はコメント欄に流れる祝福の言葉を、一つ一つ噛み締めるように読んでいった。
【コメント】ここまで来るの早すぎる
【コメント】最初の頃から見てた身としては感慨深い
【コメント】これからもよろしくね
「最初から見てくれてる方もいるんですね……なんか、そう言われると、余計に感慨深いです」
思えば、あの頃はコメント欄に数人いるだけで大喜びしていた。それが今では、十万人という、想像もつかない規模にまで膨れ上がっている。それでも、コメント一つ一つに込められた温度は、あの頃と何一つ変わっていない気がした。
防衛戦の後片付けをしながら、俺はふと自分の機体を見下ろした。相変わらず、足は遅いし、動きも鈍い。今日だって、周りのプレイヤーたちの華麗な立ち回りに比べれば、自分のそれは地味で不格好なものだったはずだ。
「うーん、正直、この機体、まだまだ弱いと思うんですけどね」
【コメント】その発言、もう様式美になってきてるw
【コメント】どの口が言うんだ
【コメント】自己評価と客観評価の乖離がすごい
いつも通りの自己評価に、コメント欄からいつも通りのツッコミが返ってくる。この温度差だけは、状況がどれだけ変わっても、不思議と変わらないままだった。皇帝牙に「面白い」と評されようが、登録者数が十万人を超えようが、この機体に対する俺の評価だけは、頑として変わらなかった。
考えてみれば、この自己評価の低さは、今に始まったことじゃない。昔から、自分の持っているものの価値を、正しく測れたことなんて一度もなかった気がする。それが良いことなのか悪いことなのか、自分でもよくわからない。それでも、この温度差があるからこそ、今日みたいな驚きにも、素直に驚けるのかもしれない。
配信を終え、いつものように現実へと戻る。夕食の席で、母さんが尋ねてきた。
「楓、今日はなんだか興奮した顔してるね」
「あ、うん……なんか、すごい人に褒められた、気がする」
「へえ、よかったじゃない」
いつも通りの、あっさりとした反応。それが今の俺には、ちょうどよかった。
食後、部屋に戻ってから、俺はもう一度、今日一日の出来事を振り返ってみた。十万人という数字、皇帝牙という未知の存在からの一言、そしてこれまで積み重ねてきた、数えきれないほどの小さな出来事。どれもこれも、配信を始めたばかりのあの頃には、想像すらできなかったことばかりだった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。「面白い」という、たった一言。その真意は、今もまだよくわからないままだ。それでも、あの一言が、これから先の自分にとって、何か大きな意味を持つ予感だけは、拭いきれずにいた。
配信を始めてから、ここまで本当にあっという間だった。チュートリアルを誤って飛ばしてしまったあの日から、誰にも選ばれなかった黄色い機体を選んだあの日から、数えきれないほどの偶然が積み重なって、今の自分がここにいる。
スマホの画面を閉じて、俺は静かに目を閉じた。明日からも、この歩みは続いていく。この先に何が待っているのか、まだ何もわからない。それでも、不思議と、悪い予感はしなかった。
【ARES Entertainment 開発ディレクター 一ノ瀬誠(42歳)視点】
定例報告の場で、白峰から改めて経過報告が上がってきた。
「例の機体の件ですが、依然として規約違反を裏付ける証拠は見つかっていません。ただ、異常の傾向自体は、かなり明確になってきています」
「ふむ。要するに、今回も『異常なし』ってことだな」
「はい……ただ、一つ気になる情報がありまして。デバッグ班の桜庭が、機体のスキル構成について、何か掴みかけているようです」
その名前に、私は思わず身を乗り出した。
「桜庭が? どんな内容だ」
「まだ詳細は聞けていません。ただ、かなり深刻な表情をしていたのが気になります」
白峰の言葉に、私は小さく頷いた。桜庭は、こういう些細な違和感を見逃さないタイプの人間だ。もし彼女が何かに気づきかけているなら、話は早いうちに聞いておいた方がいい。
「わかった。近いうちに、桜庭とも直接話してみるよ」
会議室を出た後、廊下の窓から見える景色を眺めながら、私は今日聞いた話を反芻していた。皇帝牙が、あの新人配信者に興味を示したという話も、ちょうど社内で話題になったばかりだった。
ランキング上位の実力者たちが、次々とあの配信者に注目し始めている。それなのに、肝心の規約違反の証拠は、いつまで経っても見つからない。
「面白い、か……。皇帝牙がそう言ったんなら、少なくとも底の浅い存在じゃないんだろうな」
誰に言うでもなく、そう呟く。この状況を、単なる「バグ」の一言で片付けていいものか、私自身、少しずつわからなくなり始めていた。
思い返せば、この会社に入ってから、数え切れないほどのバランス調整と向き合ってきた。強すぎる武器は弱体化し、人気のない機体には補正をかけ、なるべく多くのプレイヤーが平等に楽しめるよう、細心の注意を払ってきたつもりだった。
それなのに、目の前で起きているこの現象は、そうした努力の枠組みを軽々と飛び越えていく。誰も予想しなかった機体で、誰も予想しなかった強さを発揮し、誰も予想しなかった形で、多くの人を惹きつけている。
「皮肉なもんだな。俺たちがどれだけ精緻に設計しても、結局一番面白いのは、想定外から生まれるってわけか」
自嘲気味にそう呟きながらも、心のどこかで、この状況を歓迎している自分がいることに気づいていた。ゲームを作る人間として、こういう「予想外の面白さ」に出会えることは、実はそう多くない。バグなのか、仕様なのか、その境界線上で揺れ動くこの現象を、もう少しだけ、このまま見守ってみたい。そんな思いが、次第に強くなっていく。
もし本当にバグだったとして、それを今すぐ修正すべきなのか。それとも、この予測不能な面白さを、しばらくは泳がせておくべきなのか。答えの出ない問いを抱えたまま、私はその日の業務を終えた。
オフィスを出て、夜風に当たりながら、私はふと空を見上げた。この小さな異変が、この先どこまで大きくなっていくのか。まだ誰にも予想がつかない。それでも、悪い方向には転がらない、そんな確信めいた予感だけが、なぜか胸の中に残っていた。




