15.見つけた人
朝、いつもより少し早く目が覚めた。特に理由はない。ただ、なんとなく体が軽かった。
階下に降りると、母さんが庭の植木に水をやっていた。
「おはよう、楓。早いね」
「うん、なんか目が覚めちゃって」
朝食を済ませながら、テレビの天気予報をぼんやり眺める。特に何も予定のない、いつも通りの一日のはずだった。それでも、部屋に戻ってヘッドセットを手に取る瞬間だけは、いつも少しだけ気持ちが引き締まる。
最近は、この「配信前の切り替え」の感覚にも、随分と慣れてきた気がする。最初の頃は、ボタン一つ押すだけでも手が震えていたのに、今ではもう、当たり前の日課の一部になっている。人間、慣れというのは案外早くやってくるものらしい。
配信を始めてしばらく経った頃、俺はふと、画面の隅に表示された登録者数に目をやった。「12,340人」。数字を見るたびに、なんだか他人事のような感覚がまだ抜けない。
「うわ、また増えてる……ありがとうございます、みなさん」
礼を言いながらも、実感はまだふわふわしたままだった。数字が増えること自体は嬉しい。でも、その向こうに一体何人の「知らない誰か」がいるのか、頭では理解できても、肌で感じ取ることはまだ難しかった。
思えば、配信を始めたばかりの頃は、視聴者数が一桁増えるだけで一喜一憂していた。それが今では、万の位の数字を見ても、どこか実感が湧かない。人間の感覚というのは、案外あっさり麻痺していくものらしい。それでも、コメント欄を流れる一つ一つの言葉には、まだちゃんと反応できている自分がいる。数字は麻痺しても、目の前の「誰か」への実感は、まだしっかり残っていた。
今日の目的地は、また別の防衛拠点だ。相変わらずの徒歩移動だったが、最近は道中の暇な時間も、それほど苦にならなくなっていた。コメント欄と喋っているうちに、いつの間にか目的地に着いている。そんな感覚だ。
「今日は特に予定もないので、雑談しながら歩きますねー」
【コメント】もう徒歩配信が名物になってきてる
【コメント】散歩ラジオ
【コメント】これはこれで需要ある
【コメント】むしろ歩いてる回の方が落ち着いて見れる
「散歩ラジオ、いいですね、その響き! じゃあ今日はそういうテイストでいきましょうか!」
道中、すれ違ったプレイヤーの一人が、こちらをじっと見つめてから、小さく会釈してきた。
「あ、どうも……」
戸惑いながら会釈を返す。相手は特に何を言うでもなく、そのまま去っていった。見知らぬ誰かとの、こんな些細なやり取りにさえ、少しずつ緊張が薄れてきている自分に気づく。
【コメント】今の絶対気づかれてたな
【コメント】認知度上がってきてる証拠
【コメント】そのうち声かけられるようになるよ
「え、そうなんですか? 別に何も言われなかったですけど……」
軽く流しながらも、俺は内心、少しくすぐったい気分になっていた。見ず知らずの誰かに、画面の外でも認識され始めている。その事実には、まだ慣れそうにない。
もう少し歩いたところで、今度は別のプレイヤーの一団とすれ違った。その中の一人が、仲間内でひそひそと何か話しながら、こちらをちらちらと見ている。聞こえてきたのは、断片的な会話だった。
「……あれだろ、例の……」「うわ、本当にいた」
完全にヒソヒソ話の対象になっている自覚はあったが、悪意のようなものは感じなかった。むしろ、ちょっとした有名人を見かけたときのような、無邪気な反応に近い気がした。
【コメント】完全に噂の的になってるw
【コメント】芸能人みたいな扱い受けてて草
【コメント】これがゲーム内の有名税ってやつか
「いや、そんな大した者じゃないですって! ただの徒歩勢ですから!」
慌てて否定してみたものの、コメント欄の反応は温かい笑いに包まれるだけだった。
少し前までの俺なら、見知らぬ誰かにひそひそと話題にされるだけで、身がすくんでいたと思う。教室で感じていたあの視線と、今浴びているこの視線と、性質としては似ているはずなのに、感じ方はまるで違った。あのときは「値踏みされている」という恐怖が先に立った。今は、それが「気にかけてもらえている」という実感に変わっている。何が違うのか、うまく言葉にはできないけれど、少なくとも今のこの状況を、俺は嫌だとは思っていなかった。
しばらく歩いていると、聞き覚えのある呼びかけがコメント欄に流れてきた。
【コメント】お、ハチさんじゃん
【コメント】今日もコラボ?
【コメント】仲良しだな
どうやら、ハチが偶然、同じ区域にログインしていたらしい。ボイスチャットの申請が届き、俺はすぐに応答した。
「るかちゃん、おっすー! 今日も歩いてる?」
「あ、ハチさん! はい、絶賛徒歩中です」
「相変わらずだなあ。よし、俺もそっち合流するわ!」
軽い調子でそう言うと、ハチはビークルモードで颯爽と駆けつけてきた。あっという間に追いついてきたものの、並んで歩くというより、俺の足元をちょこまかと飛び跳ねるような形になる。体格差を考えれば当然ではあるが、改めて目の当たりにすると、なかなかシュールな光景だった。
「あの、ハチさん、その距離感で大丈夫ですか? 踏んじゃいそうで怖いんですけど」
「大丈夫大丈夫! これでも機動力には自信あるから!」
軽く受け流されつつも、俺はやっぱり少しだけ羨ましさを感じてしまう。誰かがこんなふうに気にかけてくれることが、こんなにも心強いとは、これまであまり実感したことがなかった。
「はやっ……いいなあ、その機動力」
「るかちゃんの機体はパワー系だから! 適材適所ってやつよ!」
適当な励ましに苦笑しつつも、悪い気分ではなかった。誰かと軽口を叩き合いながら歩く時間は、思っていたよりずっと楽しい。
「そういえば、ハチさんは今日何してたんですか? 配信は見てないですけど」
「俺? 今日はソロで適当にレベリングしてたよ。るかちゃんみたいに目立つことは何もしてない」
「レベリングって、地道な作業ですよね。私、そういうのちゃんとやったことないかも」
「るかちゃんの場合、地道な作業する前になんか勝手に強くなってそう」
図星を突かれたような気がして、俺は思わず口ごもった。実際、装備を計画的に整えたことも、効率よく育成したこともない。ただ、目の前の敵をひたすら殴ってきただけだ。それでどうしてこんな結果になっているのか、自分でもよくわかっていない。
「いや、そんなことないですよ! ちゃんと苦労してますって、多分!」
「多分て」
軽口の応酬を続けながら、俺はふと、こういうやり取り自体が、以前の自分には想像もつかなかったものだと気づいた。誰かと軽い冗談を交わす。それだけのことが、こんなに自然にできている。画面越しとはいえ、これは紛れもない成長なんだと思う。
【コメント】この二人の空気感好き
【コメント】ハチさん癒し枠として定着してきた
【コメント】いいコンビだ
拠点に到着すると、ちょうど小規模な防衛任務が発生していた。数体のINVADERが、まばらに上陸してきている様子だ。
「よし、パパッと片付けよっか!」
「はい! ……あ、来た」
一体目が飛びかかってくる。俺は両腕を構え、いつも通りその一撃を受け止めた。ガキンッという重い音が響くが、もう慣れたものだ。足元の方では、ハチが軽やかな身のこなしで、もう一体の敵を翻弄している。
「るかちゃんは相変わらず正面突破が得意だねえ」
「ハチさんみたいに素早く動けないので、これしかできないんですよね」
「それはそれで様になってるからいいと思うよ!」
軽口を交わしながらも、二人の連携は初回よりずっと滑らかになっていた。互いにどう動くかが、なんとなく読めるようになっている。ハチが敵の注意を引きつけている隙に、俺は懐に踏み込み、確実に一体ずつ沈めていく。
ハチと二人で危なげなく片付け、最後の一体には恒例の名乗りを添える。
「インパクトスマッシャー!」
叫ぶと同時に、拳と杭の一撃が敵を沈める。足元から見上げていたハチが、感心したように声を上げた。
「何度見てもえげつないなあ、それ」
「そうですかね……頑丈な機体なだけだと思うんですけど」
「いや、頑丈とかそういうレベルじゃないと思うけどな」
軽い調子で交わされたそのやり取りに、コメント欄も何気なく反応していた。
【コメント】ハチさんも若干引いてるw
【コメント】客観的に見るとやっぱおかしいんだよな
【コメント】本人だけが気づいてない
防衛任務を終え、ハチと別れた後、俺は少しの間、拠点の広場でぼんやりと空を眺めていた。今日一日を振り返ると、初めての頃には考えられなかったくらい、いろんなことが自然に起きている。すれ違うだけで気づかれたり、友達と呼べる相手と軽口を叩き合ったり。
視界の端に表示された登録者数は、いつの間にか「12,890人」まで伸びていた。ほんの数十分の間に、また随分と増えている。
「これ、本当にどこまでいくんだろ……」
誰にともなく呟いた言葉に、答えてくれる人はいなかった。それでも、なんとなく、悪い方向には進んでいない気がした。
広場を離れ、次の目的地へ向かう途中、運営から追加のクエスト通知が届いた。見ると、先ほどとは別の区画で、やや規模の大きな防衛戦が発生しているらしい。
「あ、まだ今日は働けそうですね! よし、行ってみますか」
小走りとまではいかないが、いつもより少し弾んだ足取りで、俺は指定されたエリアへと向かった。到着すると、既に何人かのプレイヤーが応戦している最中だった。
「お邪魔しまーす! 助太刀に来ました!」
声をかけながら参戦する。周囲のプレイヤーからは、特に驚いた様子もなく、当たり前のように迎え入れられた。以前なら考えられなかった光景だ。見ず知らずの誰かの輪に、こんなにも自然に加われるようになるとは。
両腕を構え、突進してきた敵の一撃を受け止める。ガキンッという重い音とともに、いつも通りの手応えが伝わってきた。
「インパクトスマッシャー!」
叫びながら拳を叩き込むと、周囲のプレイヤーたちから小さくどよめきが起こった。
「うわ、今の一撃すごくない?」「これがあの噂の……」
断片的に聞こえてくる声に、俺は思わず苦笑した。すっかり、初対面の相手にまで知られる存在になっているらしい。悪い気はしないが、まだどこか気恥ずかしさが勝った。
防衛戦は、思ったよりも早く収束した。周囲のプレイヤーたちと軽く挨拶を交わし、俺は再び拠点への帰路についた。
【コメント】今日は大忙しだったな
【コメント】友情回からの助っ人参戦、盛りだくさんの回
【コメント】これで登録者数また伸びそう
配信を終え、いつものように現実に戻る。夕食の席で、母さんがふと話しかけてきた。
「楓、最近忙しそうだね。毎日配信してるの?」
「配信」という単語を、母さんがこんなに当たり前のように口にするようになったのは、いつからだっただろう。振り返ってみれば、はっきりとした「実は」から始まる説明をした記憶はない。強いて言うなら、初めて敵を倒せた日、興奮のあまり部屋を飛び出して「今日、配信ですごいことができたんだ」と、勢いのまま打ち明けてしまったことがあった。母さんはそのとき「そう、よかったね」とだけ言って、特に深くは聞いてこなかった。それ以来、聞かれることもなく、こちらから多くを語ることもないまま、「配信」という言葉だけが、ごく自然に日常会話の中に溶け込んでいった。
「うん、まあ、大体毎日かな」
「そう。楽しい?」
「うん……楽しい、と思う」
自分の口から出た言葉に、俺は少し驚いていた。「楽しい」と、迷いなく言えたことに。以前の自分なら、こんな単純な問いにさえ、うまく答えられなかった気がする。何か聞かれるたびに、まず「これは正直に言っていいことなのか」を考えて、結局答えをぼかしてしまう。そういうやり取りばかりだった。
今日はなぜか、素直に言葉が出てきた。実際に楽しいと感じているからこそ、飾らずにそう言えたのかもしれない。
「そっか。ならよかった」
母さんはそれだけ言うと、静かに微笑んだ。多くを語らないその態度が、今の俺には何よりありがたかった。
食後、部屋に戻ってから、俺はもう一度、今日の配信のハイライトをいくつか見返してみた。ハチとの掛け合い、すれ違ったプレイヤーたちの反応、飛び入りで参加した防衛戦、そして着実に増えていく登録者数。どれも、少し前の自分には想像もつかなかった日常だった。
それでも、こうして振り返ってみると、変わったのは周りの状況だけで、自分自身はそんなに変わっていない気もする。相変わらず説明書は読まないし、相変わらず流されるまま生きている。ただ、その「流された先」が、以前よりずっと明るい場所になっている。それだけの違いだった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。明日はどんな一日になるのだろう。以前の俺なら、そんなことを考えるだけで漠然とした不安が先に立った。今は、素直に「楽しみだ」と思えている自分がいる。
その小さな変化にこそ、このわずか数日で起きたことの本当の意味が詰まっている気がした。
【LiveGate運営 クリエイターサポート担当 朝霧美咲(24歳)視点】
あの日、たまたま見つけた「るかちゃんねる」のことを、私はずっと気に留めていた。
あれから数日、業務の合間を縫って、こっそりチェックを続けている。派手なバズりというより、じわじわと、しかし確実に数字が伸びている。担当を持たない配信者が、こんな伸び方をするのは珍しい。普通、無名の新人が急激に伸びるときは、一過性の炎上か、単発のバズりであることが多い。数字だけ跳ねて、そのあとすぐに失速する。そういうケースを、これまで何度も見てきた。
でも、この配信者は違った。一つの動画がバズった後も、視聴者維持率が落ちていない。むしろ、新しい視聴者が定着して、コメント欄の熱量も日に日に増している。これは、単なる一発ネタでは説明がつかない現象だった。
過去のアーカイブを遡って眺めていると、必殺技の名前を視聴者投票で決める回に行き着いた。海外視聴者の提案が採用され、初めて実戦で使われた瞬間、配信者本人が誰よりも嬉しそうに叫んでいる。その素直な喜び方が、妙に心に残った。企画としての完成度うんぬんより、あの瞬間の「本人が一番驚いている顔」が、視聴者の心を掴んでいるんだと思う。
さらに遡ると、変形に挑戦して失敗する回、初めてできた友達と喜び合う回。どれも、狙って作れる企画じゃない。素の反応が、そのまま配信の魅力になっている。台本もなく、計算もなく、ただ起きたことに素直に驚いて、笑って、時々落ち込んで。その振れ幅の自然さが、見ている側の心を油断させるんだと思う。
「この子、本当にいいものを持ってる」
誰に言うでもなく、そう呟いた。新人発掘の仕事を長くやっていると、こういう「化ける瞬間」に立ち会えることは、そう多くない。だからこそ、見逃したくなかった。
もちろん、担当がつくということは、配信者にとって負担になる面もある。企業案件、スケジュール管理、時にはイメージ戦略への口出し。全部が全部、歓迎されるものじゃないことは、これまでの経験でよくわかっている。中には、担当がついたことで、かえって配信の魅力が薄れてしまったケースも見てきた。作り込みすぎて、本来持っていた「素の良さ」が消えてしまう。そうなったら、本末転倒だ。
だから、もし自分が担当につくとしたら、あまり手を加えすぎないようにしよう。企業案件や大会の紹介はするけれど、配信のスタイルそのものには、できるだけ口を出さない。今のこの、飾らない魅力を守ることの方が、よっぽど大事な気がした。
それでも、今のこの配信者には、誰か伴走する人間が必要だと思った。急激に伸びていく人気に、本人の理解が追いついていない。それは、喜ばしいことである一方、危うさも孕んでいる。悪意ある大人に利用されたり、無理な条件を飲まされたりする前に、信頼できる窓口が一つあるだけで、随分と状況は変わるはずだ。
「よし……声、かけてみよう」
パソコンの画面に向き直り、私は担当志願のための申請書類を開いた。書式を埋めていく指先に、いつもより力がこもる。
社内では、こういう新人発掘の動きは早い者勝ちのところがある。目をつけているのが自分だけとは限らない。もたもたしていたら、他の担当者に先を越されることだって十分あり得る。それでも、これまでの私は、慎重になりすぎて機会を逃すことの方が多かった気がする。「もう少し様子を見よう」と思っているうちに、気づけば他の誰かが手を挙げていた。そんな苦い経験も、一度や二度ではない。
今回だけは、その轍を踏みたくなかった。
この配信者が、この先どこまで伸びていくのか。まだ誰にも予想がつかない。それでも、その隣に立ってみたい。そう思わせるだけの何かが、確かにあった。
書類の最後の欄に、担当志望の理由を書き込む。ありきたりな言葉を並べようとして、一度手を止めた。結局、思いついたままを素直に書くことにした。
――誰も気づいていない魅力を、一番近くで見ていたい。
書き終えた書類を提出フォルダに入れて、私はパソコンを閉じた。返事が来るまで、そう時間はかからないはずだ。窓の外はもう暗くなっていたけれど、不思議と、明日が来るのが待ち遠しかった。




