第87話 流水拳
第87話です。
いよいよ始まった、大河のシルバーランカー昇格を懸けたランキング戦。
対戦相手は、素手格闘を教えてくれたワイナ先生。
かつては一発も当てられなかった相手ですが、この一か月で大河も数々の戦いを経験し、成長してきました。
果たして大河は、恩師を相手にどこまで戦えるのでしょうか。
今回もよろしくお願いします!
ワイナの足が地面を蹴った。
乾いた砂が後方へ弾けた次の瞬間には、大河の目の前まで距離を詰めている。踏み込みと同時に伸びてきた右拳が頬を狙い、大河は反射的に上体を傾けた。
ブンッ!
拳が鼻先をかすめ、風圧が頬を撫でる。
大河は身体を戻しながら左拳をワイナの脇腹へ走らせた。しかしワイナは肘を落として受け止め、そのまま大河の手首へ指を絡ませる。
「っ!」
腕を引かれた瞬間、大河は腰を落とした。
以前なら、そのまま重心を持っていかれていただろう。けれど今日は足の裏がしっかりと地面を捉えている。引かれた方向へ半歩踏み込み、空いた右手をワイナの肩へ伸ばす。
「あら」
ワイナの口元がわずかに動いた。
掴まれる寸前に手を離し、大河の脇を抜ける。大河もすぐに身体を回し、振り向きざまに拳を放った。
バシッ!
二人の腕がぶつかる。
乾いた音が大闘技場へ響いた。
ワイナの蹴りが大河の腿へ飛ぶ。大河は片足を引いてかわし、そのまま踏み込んだ。拳を二発続けて放つと、一発目は掌で流され、二発目も首を傾けて避けられる。
だが、大河は止まらなかった。
ワイナの懐へ肩から入り、その腰へ腕を回そうとする。
「甘いわよ」
耳元で声がした。
ワイナの足が大河の足首へ絡む。
ぐらりと視界が傾いた。
「うおっ!」
ドンッ!
背中から地面へ落ちる寸前、大河は身体を丸めて衝撃を逃がした。その勢いのまま横へ転がり、片手をついて立ち上がる。
砂を払う暇もなく構え直した大河を見て、ワイナの眉が少し上がった。
「今のを受けられるようになったのね」
「何回先生に投げられたと思ってるんですか」
「それもそうね」
ワイナが楽しそうに笑う。
その表情とは裏腹に、次の踏み込みはさらに鋭かった。
拳、肘、足払い。
大河も拳を返し、蹴りをかわし、腕を取られれば身体ごと回して抜ける。
バシッ! ドッ! ガッ!
互いの身体がぶつかる音が、観客の歓声に混じって闘技場へ響く。
大河の拳が初めてワイナの肩を捉えた。
「くっ!」
ワイナが半歩下がる。
そこへ大河が追いすがった。
腹へ拳を伸ばした瞬間、ワイナの身体が横へずれる。空を切った腕を掴まれた。
しまった。
そう思った時には遅かった。
「そこよ」
腰が浮く。
ドンッ!
今度は受け身を取っても背中に鈍い衝撃が走った。
大河が顔をしかめる。
その様子を、観客席から何人もの仲間が見つめていた。
「大河さん、頑張るのです!」
ポルポルが手すりの近くまで飛び出し、小さな身体を上下させながら声を張り上げる。
隣ではトータが身を乗り出していた。
「すげえな。ほとんど互角じゃないか」
「いや」
ライズは腕を組んだまま、闘技場から目を離さなかった。
「ワイナ先生の方が少し上だ。大河の攻撃は当たってるけど、先生は大河の動きを読んでる」
「やっぱり教えてたからか?」
「多分な」
二人の横では、ルルが胸元で両手を重ねている。大河が投げられるたびに細い指へ力が入り、それでも声を上げることなく、じっと闘技場を見つめていた。
クララも腕を組み、黙ったまま二人の攻防を追っている。
エリカだけは椅子へ深く腰掛けていたが、その目は大河から一度も離れていなかった。
「大河、また行った!」
ビスタの声とほぼ同時に、大河がワイナへ飛び込んだ。
右拳をかわされる。
左。
それも腕で弾かれた。
大河はさらに踏み込んだが、ワイナはその動きを待っていた。
「望月くん」
ワイナの声が近い。
「踏み込む時に、まだ右肩が少し下がるわよ」
「え?」
次の瞬間、顎の下から掌底が突き上げられた。
ガッ!
頭が跳ねる。
大河の視界が白く揺れた。
そこへ腹部への拳が突き刺さる。
「ぐっ!」
息が詰まった。
身体を折った大河の肩をワイナが掴み、足を払う。
ドンッ!
地面へ叩きつけられ、肺から残っていた空気が押し出された。
大河はすぐには立てなかった。
砂の匂いが鼻へ入り、背中から鈍い痛みが広がっていく。
「まだ直ってなかったのか……」
苦笑しながら呟き、片膝を立てる。
「癖っていうのは、そう簡単には直らないものよ」
ワイナは追撃せず、大河が立ち上がるのを待っていた。
「でも……」
その目が少し細くなる。
「本当に強くなったわね。前のあなたなら、今のでしばらく起き上がれなかったわ」
「最近、倒されるのに慣れてきたんですよ」
「それ、喜んでいいことなの?」
「俺も分かりません」
大河が笑いながら構える。
額から流れた汗が顎を伝い、砂の上へ落ちた。
身体は痛い。
それでも足は動く。
二日前のエリアバトルでは、こんなものではなかった。魔法が飛び交う中を走り続け、仲間が一人ずつ消えていき、最後には身体の力を使い切った。
あれに比べれば、まだ動ける。
大河が再び踏み込んだ。
ワイナも迎え撃つ。
何度も拳が交差し、何度も身体がぶつかった。
大河の拳がワイナの脇腹を捉える。
ドッ!
「くっ……!」
ワイナの顔が歪んだ。
大河が追う。
だが次の瞬間には腕を取られ、身体を反転させられていた。
ドンッ!
また地面が背中を打つ。
それでも大河は転がりながら立ち上がった。
ワイナの呼吸も、いつの間にか乱れていた。
「はぁ……はぁ……」
額に張りついた髪を指先で払い、ワイナが大河を見る。
大河も肩を上下させている。
互いに無傷ではない。
それでも、大河はまだ前へ出ようとしていた。
「あなた……本当にタフになったわね」
「褒め言葉として受け取っときます」
「ええ。褒めてるわよ」
ワイナが息を整えるように、ゆっくりと息を吐いた。
そして、構えを変えた。
大河の目が細くなる。
さっきまでとは違う。
腰をわずかに落とし、両腕から力を抜いている。攻撃するための構えには見えない。それなのに、正面から近づくことを身体が拒むような妙な圧があった。
「望月くん」
ワイナが静かに口を開く。
「これをあなたに見せるのは初めてね」
「……まだ何かあるんですか」
「当然でしょう」
ワイナの唇がわずかに持ち上がった。
「流水拳。受けてみなさい」
大河は拳を握り直した。
先に動いたのは大河だった。
右拳を顔面へ放つ。
ワイナの掌が触れた。
受け止めたのではない。
横へ流された。
「っ!」
大河の上体がわずかに泳ぐ。
その瞬間、ワイナの肘が脇腹へ突き刺さった。
ドゴッ!
「ぐっ!」
身体が折れる。
腹へ膝。
ドッ!
息を吐き出した大河の顎へ掌底が跳ね上がった。
バシッ!
視界が揺れる。
大河は反射的に腕を上げた。
その腕をワイナが掴む。
引かれた。
踏ん張ろうとした足を払われる。
ガッ!
身体が傾く。
倒れる。
そう思った瞬間、ワイナが腕を引き戻した。
大河の身体が再び起こされる。
「なっ……!」
逃げる暇がない。
胸へ拳。
ドンッ!
肩へ肘。
ガッ!
腹へ膝。
ドゴッ!
大河の身体が一撃ごとに揺れる。
拳を防ごうとすれば腕を取られ、距離を取ろうとすれば引き戻される。踏ん張ればその力を利用され、身体を捻れば、その動きさえ次の攻撃へつなげられた。
終わらない。
一つ一つの攻撃が途切れず、まるで濁流に身体を呑み込まれたように次の一撃が襲ってくる。
「大河さん!」
ポルポルの叫びが響いた。
トータが立ち上がる。
「おい……あれ、まずくないか?」
ライズも答えない。
握った拳だけが強く震えていた。
ルルは両手で口元を覆い、目を逸らすこともできずに大河を見つめている。
ビスタの顔からも笑みが消えていた。
「大河くん! そこじゃ、頑張れ!」
エリカも椅子から身を乗り出し、闘技場へ向かって声を張り上げた。膝の上では拳が固く握られ、大河が一撃を受けるたびに眉がぴくりと動く。
「まだいけるぞ、大河くん!」
その少し横では、クララが険しい表情で大河を目で追っていた。腕を組んでいた手はいつの間にかほどかれ、身体がわずかに前へ傾いている。
ワイナの拳が再び大河の身体へめり込んだ。
「大河!」
クララの口から思わず声が飛んだ。
自分でも声を上げたことに驚いたのか、一瞬だけ目を見開く。それでもすぐに闘技場へ視線を戻した。
「ここまで来て負けるんじゃないわよ!」
闘技場では、まだ流水拳が続いていた。
バキッ!
ワイナの拳が大河の頬を捉える。
身体が横へ流れたところへ足が絡む。
大河の身体が宙へ浮いた。
ドンッ!
背中から落ちる。
だが、終わらない。
ワイナは大河の腕を離さず、その身体を引き起こした。
「ぐ……っ!」
大河の足が砂を擦る。
もう自分がどちらを向いているのかさえ分からない。
痛みが身体中を走っていた。
それでもワイナの動きだけは、ぼんやりとした視界の中に残っている。
流す。
崩す。
打つ。
次へ。
また次へ。
ワイナが最後に大河の腕を引いた。
腰が深く沈む。
まずい。
そう思った時には、大河の身体が宙へ舞っていた。
天地が逆転する。
観客席が一瞬だけ見えた。
「大河さん!!」
ポルポルの声。
次の瞬間。
ズドォォンッ!!
背中から地面へ叩きつけられた。
砂煙が大きく舞い上がる。
大闘技場から声が消えた。
大河は仰向けになったまま動かなかった。
肺が空になったように息ができない。耳の奥では甲高い音が鳴り続け、空さえぼやけて見える。
ワイナは追撃しなかった。
いや、できなかった。
「はぁ……はぁ……」
大河の数歩先で両手を膝につき、肩を大きく上下させている。額から汗が次々と落ち、足元の砂へ小さな染みを作った。
流水拳は、使う側の身体も容赦なく削る。
ワイナは荒い呼吸の合間に顔を上げ、倒れた大河を見つめた。
「……ここまでね」
あれだけまともに入った。
もう立てない。
そう思っていた。
ザッ。
小さな音がした。
大河の右手が砂を掴んでいた。
ワイナの目が見開かれる。
「……嘘でしょ」
肘が地面につく。
大河は歯を食いしばり、震える腕で上体を起こした。
身体のあちこちが痛む。立ち上がろうとした足から力が抜け、一度膝をついた。
「大河さん!」
ポルポルの声が届く。
「立つんじゃ、大河くん!」
エリカの声も重なった。
大河はもう一度足を立てた。
ふらつく。
それでも倒れない。
ルルの目が大きく開き、クララも身を乗り出したまま大河を見つめている。
大河はようやく立ち上がった。
口の中に鉄の味が広がっている。唇の端を手の甲で拭うと、赤い筋がついた。
「……すごい技ですね」
「あなた……」
ワイナは言葉を続けられなかった。
流水拳をまともに最後まで受けて立っている。
その光景が理解できないように、大河を見つめている。
大河の頭の中では、さっき受けた攻撃が何度も繰り返されていた。
なぜ何もできなかった。
一発が強かったからじゃない。
止まらなかった。
一つが終わる前に次が来る。
流して、崩して、打って、投げる。
全部がつながっていた。
「……そうか」
大河が小さく呟いた。
昔、地球で見た光景が脳裏をよぎった。
プロレス。
一つの技から相手の体勢を崩し、その動きのまま次の技へ移る。派手な技ばかりを覚えていたが、今になって違うところが頭に残った。
技を一つずつ終わらせる必要なんてない。
つなげればいい。
大河は腰を落とした。
ワイナはまだ息を整えきれていない。
そして、大河が立ったことへの驚きも消えていなかった。
今しかない。
大河が地面を蹴った。
「っ!」
ワイナの反応が一瞬遅れた。
大河は顔を狙わない。
低く潜り込み、足元へ入る。
ワイナが避けようと足を引いた。
大河はその動きを追い、足を払う。
「くっ!」
ワイナの身体が傾いた。
倒れまいと上体を捻る。
大河は止まらない。
その動きに合わせて身体を回し、ワイナの背後へ入る。
ワイナが振り向こうとする。
大河は肩を押してさらに体勢を崩した。
ドッ!
二人の身体が地面へ転がる。
ワイナがすぐに起き上がろうと腕をついた。
大河も一緒に動く。
逃がさない。
一つで決めようとするな。
次へ。
次へ。
大河はワイナの背中へ回った。
「望月くん!?」
ワイナが腕を伸ばし、大河の手を剥がそうとする。
大河はその手と争わず、身体をさらに密着させた。
そして右腕をワイナの首へ回す。
その瞬間、地球で見た技の名前がはっきりと頭へ浮かんだ。
「スリーパーホールド!」
「スリーパー……何!?」
大河の腕がワイナの首へ食い込んだ。
ワイナが身体を捻る。
大河の腕を両手で掴み、力任せに引き剥がそうとする。
「くっ……!」
大河の腕が震えた。
力が入らない。
流水拳で受けたダメージが全身に残っている。背中も腹も腕も、悲鳴を上げていた。
ワイナの指が大河の腕へ食い込み、少しずつ隙間ができる。
「大河さん! 離しちゃダメなのです!」
ポルポルの声が大闘技場に響いた。
「大河! いけ!」
ライズが立ち上がる。
「あと少しだ!」
トータも手すりを掴んで叫んだ。
ビスタも拳を握りしめている。
ルルは声を出さなかった。
胸元で両手を強く握り、大河だけを見つめている。
「大河くん、もう少しじゃ!」
エリカの声まで聞こえた。
クララも手すりへ片手を置き、食い入るように二人を見ていた。
「そのまま離すんじゃないわよ、大河!」
大河は歯を食いしばった。
腕が緩みそうになる。
ワイナの身体が動く。
ここで離したら、もう次はない。
「うおおおおっ!」
残っていた力を腕へ込める。
ワイナの動きが止まった。
それでも数秒、抵抗が続いた。
そして。
バンッ!
大河の腕に衝撃が伝わった。
もう一度。
バンッ!
ワイナの手が、大河の腕を叩いていた。
「……ギブアップ」
一瞬、大河の身体が固まった。
審判の声が響く。
『勝者、望月大河!』
大闘技場が爆発したような歓声に包まれた。
「大河さんが勝ったのですー!」
ポルポルが飛び上がる。
ライズとトータが拳を突き上げ、ビスタも満面の笑みを浮かべている。ルルは胸元で握っていた手をゆっくりほどき、ようやく柔らかな笑顔を見せた。
クララは小さく息を吐くと、口元を上げた。
「やるじゃない」
「さすが大河くんじゃ!」
エリカの声が歓声の中へ混じる。
大河はワイナの首から腕を外した。
その瞬間、身体から力が抜けた。
「うわっ……」
仰向けに倒れ込み、大きく息を吐く。
青い空が視界いっぱいに広がっていた。
隣ではワイナも地面へ座り込み、首元へ手を当てながら荒い呼吸を繰り返している。
「はぁ……はぁ……望月くん」
「はい……」
「最後のあれ……何なの?」
大河は息を整えながら、少しだけ笑った。
「スリーパーホールドです」
「聞いたことないわよ、そんな技」
「地球のプロレス技ですよ」
「プロレス……?」
ワイナは呆れたように大河を見た。
「あなた、そんな技使えたの?」
「いや……ちゃんと使ったのは初めてです」
「は?」
「先生の流水拳を食らってたら、技をつなげればいいんだって思って。それで昔見たプロレスを思い出しました」
ワイナはしばらく何も言わなかった。
やがて額へ手を当てる。
「試合中に思いついた技で、先生を締め落とそうとしないでくれる?」
「ギブアップしてくれてよかったです」
「本当よ」
ワイナの口元に、ゆっくり笑みが戻った。
「でも……強くなったわね、望月くん」
大河は空を見上げたまま、ゆっくり息を吐いた。
腰に下げていたランキングカードが淡く光る。
震える手で取り出した。
表示が変わっていた。
素手格闘ランキング十九位。
シルバーランカー。
大河はその文字をしばらく見つめた。
七か月前には、ランキングというものが何なのかさえ知らなかった。
素手格闘を始めた頃には、隣にいるワイナへ一発の攻撃さえ当てられなかった。
その先生に、本気のランキング戦で勝った。
大河はカードを握りしめると、痛む身体を気にすることもなく、小さく笑った。
「先生」
「何?」
「ありがとうございました」
ワイナは一瞬だけ目を丸くしたあと、疲れ切った顔で笑った。
「おめでとう、望月くん。今日からあなたもシルバーランカーよ」
第87話を読んでいただき、ありがとうございました。
ついに大河が素手格闘ランキング19位、シルバーランカーへ昇格しました!
ワイナ先生との一戦は、まさに激闘。
序盤は互角に近い攻防を見せたものの、ワイナ先生の奥の手《流水拳》によって、大河は一方的に追い詰められてしまいます。
しかし、そこから立ち上がるのが大河。
流水拳から技を連続させるヒントを得て、最後は地球のプロレス技で逆転勝利!
かつて一発も当てられなかった先生を、本気のランキング戦で超えることができました。
そして、まだハイランカー祭は終わっていません。
次はクララのシルバーランカー挑戦も控えています。
果たしてクララも、大河に続くことができるのでしょうか。
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