第86話 約束の日
第86話です。
大規模エリアバトルから二日。
身体の疲れもすっかり取れた大河は、月に一度の《ハイランカー祭》へ参加します。
今回の目標は、素手格闘ランキングのシルバーランカー昇格。
一か月前に交わした約束を果たすため、大河はランキング協会へ向かいます。
果たして、今回の挑戦はどうなるのでしょうか。
今回もよろしくお願いします!
長期休暇七日目の朝。
窓から差し込む陽射しが、エリカ診療所の食卓を明るく照らしていた。開け放した窓から入り込む風はまだ少し冷たく、焼いたパンの香ばしい匂いを部屋の奥まで運んでいく。
大河は椅子に座ったまま、右腕をゆっくり回した。
肩に引っかかりはない。昨日はほとんど外へ出ず、エリアバトルで酷使した身体を休ませることに専念した。エリカにも念入りに診てもらったおかげで、二日前まで全身に残っていた重さはほとんど消えている。
「痛いところはないかの?」
向かい側に座るエリカが、湯気の立つカップを口元へ運びながら大河を見た。
「大丈夫です。もう普通に動けますよ」
「そうか。それならよかったわい」
エリカは安心したように目元を緩めた。カップを置くと、何か思いついたらしく口元をにんまりと曲げる。
「そうじゃ。今日勝ったら、わしから熱い抱擁とキスのプレゼントじゃ」
「遠慮しときます」
大河が即答すると、エリカは不思議そうに首を傾げた。
「そんなに遠慮せんでもいいのに」
「遠慮じゃないんですけどね」
横でパンを齧っていたビスタが吹き出した。
「いらないってことじゃん」
「なんじゃと?」
「俺は何も言ってませんからね」
大河が巻き込まれる前に視線を逸らすと、テーブルの上に浮いていたポルポルがパンへ伸ばしかけていた手を止めた。
「今日はハイランカー祭なのです!」
「知ってるよ」
「ゴールドランカーも戦うのです!」
「そっちが楽しみなんじゃないだろうな」
「大河さんの試合が一番なのです!」
返事だけは妙に早い。
「怪しいじゃん」
「本当なのです!」
朝から賑やかな声が飛び交う中、大河は腰に下げていたランキングカードへ目を落とした。
カードを手に取る。
素手格闘ランキング、五十五位。
一か月前、グランサンダーに勝った直後は四十一位。その一週間後には四十三位となり、それからさらに順位を落とした。
大河は数字をしばらく眺めたあと、カードを腰へ戻した。
今日はシルバーランク帯へ挑戦する。
うまくいけば、対戦相手はワイナだ。
一か月前に交わした約束を、本当に実現できるかもしれない。
◇
ランキング協会へ近づくにつれ、通りを歩く人の数が増えていった。
大闘技場を使って行われる月に一度のハイランカー祭とあって、入口付近には参加者だけでなく観戦目的の人々も集まっている。建物の中へ入れば、吹き抜けの広間を何人ものランカーが行き交い、その頭上を飛び交う声が高い天井へ反響していた。
「大河!」
人混みの向こうから手が上がった。
ライズだった。
その隣にはトータとルルもいる。
「おはよう」
「みんな早いな」
「そりゃ来るだろ。今日はお前のシルバー挑戦なんだから」
ライズが笑いながら大河の肩を軽く叩く。
トータはすでに浮き足立っているのか、大闘技場へ続く通路を何度も気にしていた。
「今日、ゴールドランカーも出るんだろ? こんな機会なかなかないぞ」
「俺の応援じゃなかったのかよ」
「見るよ。ちゃんと見るって。お前が終わってからゴールドも見る」
「ついでみたいに言うなよ」
二人のやり取りを聞きながら、ルルが口元に小さな笑みを浮かべた。
大河がそちらへ顔を向けると、ルルは一度視線を落とし、それから大河を見上げた。
「……頑張ってね、大河くん」
「ありがとう」
大河が笑い返したところで、後ろから足音が近づいてきた。
「ずいぶん余裕そうね」
聞き覚えのある声に振り返ると、クララが腕を組んで立っていた。
「クララも見に来たのか?」
「何言ってるのよ。私も出るわよ」
「え?」
大河が目を丸くすると、クララは少し得意そうに顎を上げた。
「魔法格闘。私もシルバーに挑戦することにしたの」
「クララも?」
「あんたが出るっていうから、負けてられないわ」
そう言って、クララは大河からふいっと視線を逸らした。
「私の試合はあんたの少し後みたいだから、先に見ててあげる」
「それはどうも」
「ちゃんと勝ちなさいよ」
「そっちもな」
クララは返事の代わりに口元をわずかに上げた。
「じゃあ二人ともシルバーになるかもしれないじゃん」
ビスタが面白そうに二人を見比べる。
「かもしれないじゃないわ。なるのよ」
「自信あるなあ」
「当然でしょ」
クララが即答すると、トータが苦笑する。
そのときだった。
「あら、望月くん」
人の流れの向こうから、柔らかな声が届いた。
大河はすぐにそちらを向いた。
「ワイナ先生」
一か月ぶりに見るワイナは、以前と変わらない穏やかな笑みを浮かべながら歩いてきた。
大河の前まで来ると、すぐには何も言わず、頭から足元までゆっくりと視線を動かす。
「あら……」
ワイナの目が細くなった。
「ずいぶんたくましくなったじゃないの」
「そうですか?」
「そうよ。前より身体もしっかりしてるし……」
そこでワイナは大河の顔をじっと見た。
「顔つきも少し変わったわね」
大河は自分の頬へ触れた。
「自分じゃ分からないですけど」
「この一か月、何してたの?」
「いろいろですよ。二日前までグループランキングに出てました」
「なるほどね」
ワイナは納得したように頷き、大河の腰にあるランキングカードへ視線を落とした。
「でも五十五位まで落ちてるじゃない」
「まあ……一か月ありますからね」
大河は苦笑しながら、今度はワイナへ目を向けた。
「先生はどうなんですか?」
「私?」
ワイナは自分のランキングカードを取り出し、大河へ見えるように傾けた。
「今は十九位よ」
「十九位?」
大河は表示された数字を見て、思わずワイナの顔へ視線を戻した。
「先生も落ちてるじゃないですか」
「私は二つよ。あなたは十二も落ちてるでしょう?」
「そこは比べなくてもいいじゃないですか」
「一か月前に言ったでしょう。ちゃんとハイランカーを維持しておきなさいって」
「維持はしてますよ」
「ずいぶん下の方でね」
ワイナの口元が楽しそうに緩む。
大河も笑いながら、その手にあるカードへもう一度目を向けた。
十九位。
勝てば、自分がその順位へ上がる。
そして、素手格闘のシルバーランカーになれる。
目の前にいるワイナは、自分に素手格闘を一から教えてくれた人だ。最初の組み手では一発も当てられず、何度床へ転がされたか分からない。
そのワイナと、今日は練習ではなくランキング戦で戦えるかもしれない。
しかも互いに本気で。
考えるだけで身体の内側がじわりと熱を帯びた。
「望月くん」
「はい?」
「笑ってるわよ」
言われて、大河は自分の口元へ触れた。
「そうですか?」
「ええ。これから私と戦うかもしれない人の顔には見えないわね」
「楽しみなんですよ」
ワイナがわずかに眉を上げた。
「負けるかもしれないのよ?」
「それでもです」
大河は迷わず答えた。
「先生と本気で戦えるなら楽しみなんです。今の俺がどこまで通用するのか、早くやってみたい」
ワイナは何も言わず、大河を見つめた。
やがて、その目元が柔らかくなる。
「いい顔するようになったわね」
大河は照れくささをごまかすように首の後ろを掻いた。
二日前までのエリアバトルでは、自分より遥かに強い相手と何度も遭遇した。仲間が目の前から消え、最後には立つことさえできなくなった。それでも、玉を守って最後まで残った。
あれを経験したあとでは、十九位という数字を見ても身体が縮こまることはなかった。
勝てるかどうかは分からない。
ただ、戦ってみたい。
それだけだった。
「じゃあ、行きましょうか」
ワイナが受付へ目を向ける。
「一か月前の約束、覚えてるわよね?」
「もちろんです」
二人は並んで受付へ向かった。
ランキングカードを取り出した大河の指先に、わずかに力が入る。
シルバーランク帯への挑戦。
申請を送る。
カードの表示が切り替わった。
その瞬間、隣にいたワイナが自分のカードへ指を滑らせる。
ほんの数秒だった。
「無事取れたわ」
ワイナがカードを大河へ向けた。
そこには対戦成立を示す表示が浮かんでいる。
「これで逃げられないわよ、望月くん」
「逃げるつもりで来てませんよ」
「ふふっ。そうだったわね」
◇
大闘技場へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
高く積み上がった観客席から無数の声が降り注ぎ、石造りの壁に反響して大きなうねりとなっている。乾いた砂の匂いが鼻をくすぐり、足を踏み出すたび、靴底から硬い地面の感触が伝わってきた。
大河は中央へ向かいながら、観客席を見上げた。
以前ここへ来たとき、自分はあそこに座っていた。
隣にはワイナがいた。
ハイランカーたちの戦いを見ながら、自分もいつかあの場所へ行くと考えていた。
今は、そのワイナと一緒に闘技場へ立っている。
「大河さん!」
観客席から聞き慣れた声が飛んできた。
ポルポルが手すりの近くで大きく身体を揺らしている。その横にはエリカとビスタ、ライズ、トータ、ルルが並び、少し離れたところにはクララの姿も見えた。
大河は小さく手を上げる。
向かい側では、ワイナが静かに身体をほぐしていた。
肩を回し、足首を軽く動かす。
やがて顔を上げたワイナから、先ほどまでの柔らかな笑みが消えた。
大河もゆっくり息を吐く。
拳を握り、腰を落とした。
「最初に教えた頃は、私に一発も当てられなかったわね」
「覚えてますよ。何回投げられたか分かりません」
「あの頃からどれくらい強くなったか、見せてもらおうかしら」
「そのつもりです」
ワイナが構える。
大河の目が、その足元へ向いた。
重心の位置。肩の角度。腕の高さ。
何度も見てきた構えなのに、今日はまるで違って見える。
「一か月前にも言ったけど」
ワイナの視線が真っ直ぐ大河を捉えた。
「試合になったら手加減しないわよ」
「俺もです」
ワイナの口元がわずかに上がる。
大河も笑った。
勝っても負けても、この人と本気で戦える。
そう思っていたはずなのに、向かい合った今は、それだけでは足りなくなっていた。
勝ちたい。
先生に。
審判が二人の間へ視線を走らせ、片腕を高く上げる。
『それでは、試合開始!』
腕が振り下ろされた。
ワイナの足が、鋭く地面を蹴った。
第86話を読んでいただき、ありがとうございました。
大規模エリアバトルが終わり、今度は個人ランキングへの挑戦です!
今回、大河が挑むのは素手格闘ランキング19位のワイナ。
一か月前、大河に素手格闘を教えてくれた先生との約束が、ついに実現しました。
当時は一発も当てられなかった相手ですが、この一か月で大河も大きく成長しています。
そして、クララも魔法格闘のシルバーランカーへ挑戦することに。
スペースワンダフルの二人が、さらに上のランクを目指します。
いよいよ始まった大河とワイナの本気のランキング戦。
果たして、大河は先生を超えることができるのでしょうか。
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