第8話 魔法の入口
第8話です。
五十メートル走で一位となり、ようやく大きな足場を得た大河。
しかし、王を目指すには走るだけでは足りません。
次に大河が向き合うのは、この世界の力である魔法でした。
その日の夜、大河は少しだけ贅沢をした。
五十メートル走ランキング一位。記録、五秒フラット。ポイントは百。月末まで維持できれば、百万マールが入る。数字だけを見れば、昨日までの不安が嘘のように思える。もちろん、ボーナスポイントのマイナス十は残っているし、王の五九五七ポイントにはまだ遠すぎる。けれど、少なくとも明日の食事を心配しながら眠る必要はなくなった。
それだけでも、今の大河には十分すぎるほど大きな勝利だった。
協会近くの食堂は、夕暮れが過ぎる頃には多くの客で賑わっていた。木の扉を開けると、焼いた肉の香ばしい匂い、煮込んだ野菜の甘い匂い、酒の酸味を含んだ香りが一気に押し寄せてくる。壁際では剣士らしき男たちが木杯をぶつけ合い、奥の席では職人風の男女がカードを覗き込みながら今日の成果を話していた。笑い声と皿の触れ合う音が混ざり、店内の空気そのものが温かく揺れている。
大河は窓際の席に座り、いつもより少し高い料理を注文した。厚切りの肉を香草で焼いたもの、白身魚の揚げ物、野菜のスープ、焼きたてのパン。それに、この世界の果実酒を一杯だけ。ポルポルは注文の時点で目を輝かせ、尻尾をこれでもかというほど揺らしていた。
「今日は記念日なのです。ポルポルも全力でお祝いするのです」
「食べるだけだろ」
「食べることは祝いの基本なのです」
堂々とした返答に、大河は苦笑した。料理が運ばれてくると、ポルポルはまるで小さな嵐のように食べ始めた。紫色の毛並みの身体にどうやってそれだけ入るのか分からないほど、肉も魚もパンも消えていく。大河は半ば呆れながらも、自分もゆっくりと肉を口に運んだ。表面は香ばしく焼け、噛むと肉汁が広がる。味付けはやはり少し単調だったが、勝利の後の食事というだけで、普段よりずっと美味く感じた。
果実酒は、地球で飲んだワインよりも少し甘かった。口に含むと熟した果物の香りが広がり、喉を通る時に柔らかな熱を残す。大河は木杯を見つめながら、ふと昼間の競技場を思い出した。黒い走路、白いゴールライン、五秒〇〇という記録。自分の身体が常識を超えて動いた瞬間の感覚は、まだ足裏に残っている。
「本当に一位になったんだな」
誰に言うでもなく呟くと、ポルポルが肉を頬張ったまま顔を上げた。
「本当なのです。大河さんは五十メートル走ランキング一位なのです。もっと胸を張るのです」
「胸を張るには、まだ王との差がありすぎる」
「それはそうなのです」
ポルポルはあっさり頷いた。慰める気はないらしい。だが、彼女の声には暗さがなかった。
「でも、百ポイントの足場は大きいのです。ごはんも食べられますし、訓練にもお金を使えるのです」
「お前のごはん代もな」
「重要なのです」
ポルポルは真顔で言い、また肉に向き直った。大河は小さく笑って木杯を傾けた。気が緩んでいたのだろう。食事を終える頃には、身体の奥に心地よい重さが広がっていた。部屋へ戻る道の石畳は夜露でわずかに光り、街灯の明かりが細く揺れている。遠くの酒場から漏れる笑い声を背に、大河はいつもより早く寝台に横になった。
その夜は、ほとんど夢も見なかった。
翌朝、目を覚ました大河の身体は、昨日とは違う軽さを取り戻していた。走った疲れはあるが、嫌な痛みではない。むしろ筋肉の奥に、まだ動けるという余韻が残っている。窓の外から差し込む朝日が床板を照らし、部屋の隅で丸くなっていたポルポルの毛並みを淡く光らせていた。
大河が身体を起こすと、ポルポルもすぐに目を開けた。昨日あれほど食べたというのに、もう朝食の気配を探すように鼻を動かしている。
「今日はどうするのです?」
「まずは軽く身体を動かす。その後、今後の方針を考えたい」
ポルポルは頷いた。二人は街外れの広場へ向かい、朝の空気の中で軽いトレーニングを行った。五十メートル走の翌日なので、全力疾走は避けた。大河はゆっくり走り、身体を伸ばし、軽いシャドーで動きを確認する。地面を踏む感覚は昨日よりもさらに自然だった。異世界の身体が、少しずつ自分のものになっていく。そう感じるたび、胸の奥に小さな自信が積もっていった。
だが、それだけでは足りない。
トレーニングを終え、二人は広場の端にあるベンチに座った。街の屋根の向こうには、ランキング協会の尖塔が見える。朝日を受けた白い石が眩しく光り、まるでそこだけがこの街の心臓のようだった。
「ポルポル」
「はいなのです」
「ポイントを稼ぐには、やっぱりバトルランキングを避けて通れないよな」
ポルポルはすぐには答えなかった。ふわふわと大河の横に浮かびながら、協会の方を見つめる。小さな顔には、いつもの食いしん坊な緩さではなく、案内役としての真剣さが浮かんでいた。
「避けて通ることはできるのです。でも、王を目指すなら避けない方がいいのです」
「やっぱりか」
「バトルランキングは一位で千ポイントなのです。しかも魔法、剣、スキル、格闘、オールジャンルなど、種類が多いのです。今の王が強いのは、五つのバトル部門で一位を取っているからなのです」
五つの部門で一位。つまり、それだけで五千ポイント近い土台を持っていることになる。大河はその数字を頭の中で思い浮かべ、改めて王との差を感じた。五十メートル走一位の百ポイントは大きい。だが、王のいる場所はその何十倍も上だ。
「今の俺は素手限定くらいしか出られない。しかもローランカー相手に負けた」
「だから、できることを増やすのです」
ポルポルはそう言って、大河の前に回り込んだ。
「まずは魔法の習得をおすすめするのです」
「剣やスキルよりも?」
「はいなのです。魔法は戦闘だけではなく、生活にも訓練にも使えるのです。火、水、風、土、回復、補助。使える魔法が増えれば、参加できるランキングも一気に増えるのです」
大河は自分の手を見下ろした。拳を握れば力は入る。走れば速い。だが、魔法と言われると、まだ遠いものに感じる。地球には存在しなかった力だ。神やポルポルの魔法を見てきたとはいえ、自分が使う姿は想像しにくかった。
「魔法を覚えるにはどうすればいい?」
「方法はいくつかあるのです。魔法学校に通う、魔法使いに弟子入りする、協会の講習を受ける。あとは高い教材を買って独学もできますが、おすすめはしないのです」
「金がかかりそうだな」
「かかるのです」
ポルポルはきっぱり言った。大河は思わず苦笑した。百万マールの足場を手に入れたと思った途端、次に必要な金の話が出てくる。この世界は気前よく報酬をくれるが、その分だけ上を目指すための出費も多いらしい。
「ただ、その前に大河さんが絶対に覚えないといけないことがあるのです」
「何だ?」
「魔力を感じることなのです」
ポルポルは小さな前足を大河の胸のあたりへ向けた。
「魔法は魔力を使います。魔力を感じられなければ、火も水も出せないのです。カードに魔力を流すことすら、今はポルポルが代わりにやっているのです」
「そこからか」
「そこからなのです」
大河は軽く息を吐いた。走ることなら分かる。拳の使い方も多少は分かる。だが魔力を感じると言われても、取っ掛かりがない。目に見えない筋肉を動かせと言われているようなものだ。
昼前、二人は協会の魔法訓練場へ向かった。そこは地下ではなく、協会の裏手に広がる中庭の奥にあった。高い石壁に囲まれた広い空間で、地面には魔法陣らしき模様がいくつも刻まれている。区画ごとに訓練用の石柱や水槽、砂場、木の的が置かれ、何人ものランカーや見習い魔法使いたちが練習をしていた。
空気には独特の匂いがあった。焦げた木の匂い、濡れた土の匂い、薬草のような青い香り。それに、肌の表面をかすめる微かな静電気のような感覚。魔力なのだろうか。大河にはまだ分からない。
ポルポルは大河を訓練場の端に連れていき、比較的人の少ない区画を選んだ。そこには小さな水晶が台座に置かれていた。
「まずはこの水晶に手を近づけるのです。魔力を感じると、水晶が少し光るのです」
大河は言われた通り、水晶に右手を近づけた。透明な球体は朝の光を受けて淡く輝いている。触れそうで触れない距離で手を止め、目を閉じる。
「胸の奥に意識を向けるのです。呼吸をゆっくり。血の流れよりも深いところに、温かい流れを探すのです」
ポルポルの声はいつになく穏やかだった。大河はその声に合わせて呼吸を整えた。胸の奥。深いところ。温かい流れ。言葉だけをなぞってみるが、何かが掴める気配はない。聞こえるのは遠くで誰かが火魔法を失敗したらしい小さな爆発音と、訓練場のざわめきだけだ。
水晶は光らなかった。
「……何も分からないな」
「最初はそんなものなのです」
「ポルポルはできるのか?」
「ポルポルは当然なのです」
彼女が前足を水晶に近づけると、球体はすぐに紫色の光を帯びた。大河は少しだけ悔しい気持ちになった。ポルポルは得意げに胸を張る。
「ほらなのです」
「今のはちょっと腹立つな」
「トレーナーの実演なのです」
大河は苦笑し、再び水晶に向き直った。何度か試してみる。呼吸を整え、胸の奥に意識を向ける。だが、やはり何も掴めない。魔力とは何なのか。血液のようなものなのか、体温のようなものなのか、それともまったく違う感覚なのか。分からないまま意識だけが空回りする。
その時、近くの区画で小さな破裂音がした。
「きゃっ」
短い声が上がる。大河は反射的に振り向いた。訓練場の隅、火魔法用の小さな石台の前で、一人の女の子が手を押さえていた。茶色の服。肩のあたりで切り揃えられた髪。小さな身体。
昨日、薬屋へ入っていった少女。
料理ランキングに出ていたアイだった。
彼女の前には、小さな鍋と水の入った器、それに火魔法用と思われる赤い水晶が置かれている。どうやら火を出そうとして失敗したらしい。石台の上には黒い焦げ跡があり、細い煙が上がっていた。
大河は考えるより先に足を踏み出していた。
「大丈夫か?」
声をかけると、アイはびくりと肩を震わせた。大きな瞳で大河を見上げる。警戒心と驚きが混じった目だった。彼女はすぐに手を背中へ隠し、小さく首を横に振る。
「……平気」
声は細く、けれど意地のような硬さがあった。大河は彼女の手元を見た。完全に隠しきれていない指先が、少し赤くなっている。
「火傷してるだろ」
「平気」
同じ言葉を繰り返すアイの表情は動かない。だが、唇はわずかに結ばれ、肩には余計な力が入っていた。子供らしい弱音を飲み込むような姿に、大河は無理に踏み込むべきか迷った。
その横へ、ポルポルがそっと飛んできた。彼女はアイの手元を見て、少しだけ声を柔らかくする。
「ポルポル、回復魔法が少しだけ使えるのです。よければ冷やすくらいはできるのです」
アイはポルポルを見た。猫に似た紫色の小さな生き物が宙に浮いているのを見ても、驚きより警戒が勝っているようだった。しばらく黙った後、彼女は小さく手を差し出した。
ポルポルが淡い紫の光を当てると、赤くなった指先の熱が少し引いていく。アイは痛みを堪えるように瞬きをしたが、泣かなかった。
「ありがとう」
小さな声だった。
「料理ランキングに出ていた子だよな。アイ、だったか」
大河がそう言うと、アイの目がわずかに見開かれた。
「見てたの?」
「そう。この前、会場で見てたんだ。包丁の使い方がすごかった」
アイは褒められても笑わなかった。視線を落とし、火魔法用の赤い水晶を見つめる。小さな手が服の裾を握っていた。
「……でも、点は足りなかった」
その言葉に、大河は昨日の七十九点を思い出した。子供としては驚くべき点数。だが、彼女にとっては足りない点数だったのだろう。
「火魔法を練習してるのか?」
アイは少し迷ってから頷いた。
「火加減ができたら、もっと点が上がるから」
それだけ言うと、彼女は再び赤い水晶へ向き直った。小さな背中は頼りなく、それでもどこか頑固だった。大河はその姿に、昨日の薬屋で見た薬袋を抱える背中を重ねた。何か事情がある。そう感じたが、今聞くには早すぎる気がした。
ポルポルも黙ってアイを見ていた。いつものように軽口を叩かない。紫の尻尾だけが、ゆっくりと揺れている。
大河は少しだけ考え、アイの隣ではなく、少し距離を空けた場所にしゃがんだ。
「俺も今日から魔力の練習を始めたばかりなんだ。全然分からない」
アイがちらりとこちらを見る。
「大人なのに?」
「大人でも、分からないものは分からない」
大河がそう答えると、アイの表情がほんの少しだけ揺れた。笑ったわけではない。けれど、警戒の角がわずかに丸くなったように見えた。
「だから、邪魔じゃなければ少し見ててもいいか。俺も勉強になる」
アイは赤い水晶に視線を戻したまま、しばらく黙っていた。やがて、小さく頷く。
「……邪魔しないなら」
「しない」
ポルポルが大河の横で小さく頷いた。
「大河さん、初めての魔法友達なのです」
「友達かどうかは早いだろ」
大河が小声で返すと、アイがわずかにこちらを見た。今度はほんの一瞬だけ、目元が緩んだように見えた。
訓練場には、再び魔法の音が戻っていた。遠くで水が弾け、別の区画では小さな炎が的を焦がしている。大河は水晶の前に戻り、手をかざした。まだ魔力は分からない。けれど、同じように何かを掴もうとしている小さな少女が近くにいるだけで、不思議と焦りは薄れていた。
アイは赤い水晶を見つめ、慎重に息を吸った。
大河もまた、透明な水晶の奥を見つめる。
五十メートル走一位の翌日。
大河はようやく、魔法の入口に立った。そしてその入口には、薬袋を抱えて走る小さな料理人の姿があった。
第8話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、大河が魔法の習得へ向けて動き始める回でした。
まだ魔力を感じることすらできない大河ですが、同じ訓練場で、料理ランキングに挑む少女アイと再び出会います。
火加減を覚えようとするアイ。
魔法の入口に立ったばかりの大河。
二人の出会いが、これからどんな形でランキング攻略につながっていくのか。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




