第72話 自分の道
第72話です。
クララとの距離が少しずつ縮まってきた大河たち。
兄のコルトを目標に、ひたすら強さを求め続けてきたクララですが、大河には少し気になることがあるようです。
もう一度クララと話すため、大河たちは彼女のもとを訪れます。
今回もよろしくお願いします!
マイラ食堂の厨房には、朝から甘い香りが漂っていた。窓から差し込む陽射しの下で、アイが焼き上がったばかりの薄い生地を布の上へ広げている。まだ熱を残した生地から湯気がほんのり立ち、卵と砂糖の柔らかな匂いが店内まで流れていた。
「今日はアップルパイじゃないんだね」
アイは生地の端を指先で確かめながら、大河へ顔を向けた。
「昨日ので、アップルパイが好きなのは十分分かったからな。今度は違うものの方がいいかなって」
「またその子に持っていくの?」
「もう一回だけ、ちゃんと話してみたいんだ」
大河が答えると、アイはそれ以上理由を聞かなかった。代わりに冷ましておいた生地へ真っ白なクリームを広げ、薄く切った果物を一つずつ並べていく。赤い苺に橙色の果実、淡い緑の実が白いクリームの上に重なり、見ているだけで鮮やかだった。
大河は昨日のクララの言葉を思い返していた。
兄のコルトは二十歳でスターエルミナスの幹部になった。だから自分も、そこまであと三年しかない。
クララがそう口にした時の横顔が、妙に頭から離れなかった。焦っているようには見えなかった。むしろ本人にとっては、それが当たり前なのだろう。朝になれば訓練し、時間があれば剣を振り、少しでも兄が立っていた場所へ近づこうとする。それ自体がおかしいとは大河も思わない。
自分だって、あと半年ほどで総合ランキング一位へ届かなければならない。
時間が惜しいという感覚ならよく分かる。
それなのに、クララの「あと三年」という言葉には、どこか引っかかるものがあった。
「大河さん?」
アイの声で思考が戻った。
いつの間にかロールケーキはきれいに巻き上げられ、表面に薄く粉砂糖が振られていた。
「これならいいと思う」
「ありがとう。いくら?」
「今回はいいよ。今までいっぱい助けてもらったし」
「いや、それとこれは別だろ」
財布を出そうとする大河を見て、アイが少し困ったように眉を寄せる。そのやり取りを厨房の入口から見ていたポルポルが、箱の方へじわじわと近づいた。
「余ったところはないのです?」
「ポルポル、さっき端っこ食べたでしょ」
「端っこと完成品は別物なのです」
「クララの分だから触るなよ」
大河が箱を持ち上げると、ポルポルの視線も一緒に上へ動いた。
「一切れくらいなくなっても分からないのです」
「分かるって」
アイが笑いながら箱の蓋を閉じた。
結局お代はアイの言葉に甘えることにした。
その日の放課後、学院の剣術棟には乾いた木剣の音が響いていた。日中の熱を吸い込んだ石壁はまだほんのり温かく、開け放たれた窓から入る風が汗と木の匂いを廊下へ運んでいる。
中級の授業が終わるまで、大河たちは訓練場の外で待った。
ライズは壁にもたれ、腕を組んでいる。少し離れた場所ではルルがポルポルと何か小さな声で話していた。大河たちが近くにいても、以前ほど身体を固くすることはなくなったが、会話の相手はまだほとんどポルポルだった。
やがて教師が終了を告げ、生徒たちが次々と訓練場から出てくる。
最後まで残った赤い髪の女の子が、今日も木剣を振り始めた。
クララは数度の踏み込みを繰り返したあと、入口に立っている大河たちへ気づいた。剣先が止まり、額から流れた汗を手の甲で拭う。
「……また来たの?」
昨日より声に刺が少なかった。
「また来た」
大河が答えると、クララの目が大河の手元へ落ちた。
箱を見つけた瞬間、その視線がわずかに長く止まる。
「今日は何なの?」
「フルーツのロールケーキなのです!」
ポルポルが待っていましたとばかりに答えた。
クララはポルポルを見てから、もう一度箱へ目を向けた。
「私、そんなこと聞いてないんだけど」
「でも気になってるのです」
「気になってない」
「では持って帰るのです?」
ポルポルが箱へ手を伸ばしかけた。
「それは駄目よ」
クララの返事があまりに早く、大河とライズが同時に彼女を見る。
クララは自分でも気づいたらしく、一瞬だけ口を閉ざした。
「……せっかく持ってきたものを無駄にするのはよくないって言ってるだけ」
「そういうことにしとくよ」
「何よ、その言い方」
睨まれた大河は笑いながら、昨日と同じ長椅子へ箱を置いた。
クララは少し迷っていたが、結局木剣を棚へ戻した。昨日よりも大河たちから近い場所へ腰を下ろし、渡された皿を膝に乗せる。
切り分けられたロールケーキには、白いクリームの中に色とりどりの果物が覗いていた。
クララはフォークで端を切り、一口食べる。
ふわりとした生地が潰れ、クリームと果汁が口の中で混ざったのだろう。細められていた目がほんの少しだけ開いた。
「……美味しい」
大河が隣から覗き込む。
「アップルパイとどっち?」
「アップルパイ」
迷いはなかった。
ポルポルが目を丸くする。
「即答なのです」
「好きなものを聞かれたんだから当然でしょ」
そう言いながらも、クララは二口目を切り取った。三日前なら大河たちに囲まれて食べること自体を嫌がっていただろうが、今日はフォークを動かす手に迷いがない。
大河はその横顔を眺めながら、いつ切り出そうか考えていた。
彼女と話すために来た。
けれど、昨日聞いたばかりの兄のことへ突然踏み込むのも違う気がする。
クララが半分ほど食べたところで、大河は訓練場の床へ視線を落とした。
「昨日さ」
「何?」
「あと三年しかないって言ってたよな」
フォークの先がわずかに止まった。
クララは皿を見つめたまま答える。
「兄さんが二十歳でスターエルミナスの幹部になったこと?」
「そうそれ」
「だから何?」
「ずっと気になってた」
クララが顔を上げた。
「コルトさんを目標にしてるんだろ?」
「そうだけど」
大河は言葉を選びながら、窓の外へ目を向けた。夕方の光が中庭を斜めに横切り、遠くではまだ訓練を続ける生徒たちの声が聞こえている。
「兄さんみたいな魔法剣士になりたいっていうのは分かる。でも、二十歳までに同じところまで行かないといけないのかなって」
クララの眉が寄った。
「兄さんに追いつきたいんだから、それくらい当然でしょ」
「でもクララはコルトさんじゃないだろ」
その言葉を口にした瞬間、クララの目つきが変わった。
「そんなこと分かってる」
フォークを握る指に少し力が入る。
「俺もコルトさんのことを悪く言ってるわけじゃないよ。二十歳でスターエルミナスの幹部になって、しかもゴールドランカーなんだろ。すごい人だと思う」
「だったら」
「だからこそ、同じにならなくてもいいんじゃないかって思ったんだ」
クララが黙る。
大河は一度言葉を切った。
自分でも正しい答えを知っているわけではない。ただ、クララの話を聞いているうちに、どうしても気になった。
「俺は総合ランキング一位を目指してる」
クララの手が止まった。
「……総合一位?」
「うん。最終的には王になるつもりだ」
クララはフォークを持ったまま、大河の顔を見つめた。冗談を言っているのか確かめるような目だったが、大河が視線を逸らさないでいると、その表情から少しずつ疑う色が消えていった。
「本気なの?」
「本気だよ」
大河は窓の向こうへ視線を移した。
「でも、今の王と同じ人間になりたいわけじゃない。一位になる方法だって、今の王と同じじゃなくていいと思ってる。素手格闘もやるし、剣も覚えてるし、魔法も勉強してる。たぶんこれから、まだ知らないこともいっぱいやると思う」
横で聞いていたライズは口を挟まなかった。
ルルもポルポルの隣から、クララを静かに見ている。
「だからクララも、コルトさんを目標にするのはいいと思う。でも、コルトさんが歩いた道をそのまま歩かなくてもいいんじゃないかな」
訓練場に風が入ってきた。
クララの赤い髪が頬へかかり、彼女はそれを耳へ掛ける。そのまま何も言わず、膝の上の皿へ視線を落とした。
残っていたロールケーキを切ろうとして、フォークの先だけが生地へ触れる。
「……兄さんは、ずっと私の目標だった」
声は先ほどより小さかった。
「小さい頃から何をやっても強くて、周りのみんなも兄さんのことをすごいって言ってた。だから私も、兄さんみたいにやれば強くなれるって思ってた」
大河は黙って聞いた。
「魔法剣士を目指したのも兄さんを見てたから。兄さんが二十歳で幹部になったから、私も二十歳までにはそこまで行きたいって……それしか考えてなかった」
そこでクララの視線が、大河からライズへ移った。
さらにポルポルのそばにいるルルを見る。
ルルは突然目を向けられて身体を少し強張らせたものの、逃げるように顔を背けることはなかった。
クララはしばらく三人を見たあと、小さく息を吐いた。
「三日前、断ったあとも……なんでかあなたたちのこと、ちょっと気になってた」
「俺たち?」
ライズが自分を指さす。
「今までにも何回も誘われた。でも断ったら、それで終わりだった。条件を上げてもう一回来る人はいたけど、結局みんなグループランキングのためとか、自分たちのために私が欲しいだけだった」
クララの目が大河へ戻る。
「あなたたちは変」
「変って……」
「三日前に断ったのに、そのあとアップルパイ持ってきて、今日はロールケーキ持ってきて、今度は私の目標にまで口を出してくる」
「並べられると、ちょっと面倒な奴らみたいだな」
「かなり面倒だわ」
クララの口元が少しだけ上がった。
大河もつられて笑う。
けれどクララはすぐに皿へ視線を戻し、残っていた一口をフォークですくった。
「でも……あなたたちと一緒にいたら、兄さんを追いかけてるだけじゃ見つからないものが、何か見つかるかもしれない」
ロールケーキを口へ運び、ゆっくり飲み込む。
「今まで知らなかった自分とか」
大河はすぐには返事をしなかった。
クララの中で何かが動き始めているのは分かった。ただ、それがどこへ向かうのかまで、今ここで決めさせる必要はないように思えた。
やがてクララは空になった皿を膝から下ろした。
「……少し考えてみる」
「分かった」
大河はそれ以上勧めなかった。
ライズも何も言わずに立ち上がり、ルルはポルポルの後ろからクララへ小さく頭を下げた。
訓練場を出る直前、ポルポルだけが名残惜しそうに空になった箱を覗き込んだ。
「ポルポルのロールケーキがないのです……」
「最初からあなたの分じゃないでしょ」
クララの声が背後から飛んできた。
振り返ったポルポルの向こうで、クララはわずかに笑っていた。
大河たちが去ったあと、訓練場には静けさが戻った。
窓の外では陽が傾き、床に伸びた窓枠の影が少しずつ長くなっている。クララはしばらく長椅子に座ったまま、誰もいなくなった入口を見つめていた。
「クララはコルトさんじゃないだろ」
大河の言葉が、耳の奥に残っている。
そんなことは分かっている。
自分は兄ではない。
背丈も違う。得意な魔法も、剣を握った時の感覚も違う。
それなのに、いつからだろう。
兄が十七歳の頃はどれほど強かったのか。兄は十八歳でどこまで進んでいたのか。二十歳でスターエルミナスの幹部になったのだから、自分もそれまでに同じ場所へ立たなければならない。
いつの間にか、それが自分の進む道になっていた。
クララは立ち上がり、棚から木剣を取った。
いつもの位置へ立つ。
足を開き、腰を落とす。
木剣を振り下ろすと、乾いた音が静かな訓練場に響いた。
もう一度。
踏み込み、剣を振る。
いつもなら、ここから余計なことは考えなくなる。
剣先だけを見て、兄へ近づくために一本でも多く振る。それでよかった。
けれど今日は、剣を振るたびに別の顔が浮かんだ。
王になると言い切った大河。
隣で余計な口を挟まず話を聞いていたライズ。
まだ人と話すことが苦手そうなのに、それでも彼らのそばにいたルル。
そしてロールケーキを食べたそうに箱を覗き込んでいたポルポル。
クララは木剣を振り切ったところで動きを止めた。
これまで何度もグループへ誘われた。
断れば、それで終わりだった。自分から思い出すことなどなかった。
なのに大河たちは違う。
なぜ気になるのか、自分でもまだうまく説明できない。
ただ、兄の背中だけを追いかけていた時には見えなかった何かが、あの人たちのそばにはあるような気がした。
クララは再び木剣を構えた。
答えはまだ出なかった。
その日はいつもより少し早く剣を置いた。
翌日の昼休み。
学院の中庭には柔らかな陽射しが落ち、木陰では何人もの生徒が昼食を広げていた。大河とライズは石造りの低い縁へ腰を下ろし、次の候補について話している。その近くではルルが本を開き、ポルポルが覗き込んでは文字を追うふりをしていた。
「クラスが入ってくれても、あと一人は必要だからな」
ライズがそう言った時、大河は中庭の向こうからこちらへ歩いてくる赤い髪に気づいた。
クララだった。
いつものように背筋を伸ばして歩いているものの、今日は何度かこちらへ視線を向けている。
大河が立ち上がると、クララは数歩手前で止まった。
「クララ?」
「昨日のこと、考えた」
大河たちは黙って続きを待った。
クララは一度ルルを見て、次にライズへ目を向け、最後に大河を見上げる。
「兄さんが目標なのは、これからも変わらない。魔法剣士になるのもやめない」
「うん」
「でも、兄さんと同じことだけしてたら、私はずっと兄さんの後ろを歩くだけなのかもしれない」
言葉を選ぶように、クララはそこで少し間を置いた。
「あなたたちと一緒にいたら、今まで知らなかった自分を見つけられるかもしれない。まだ何があるのか分からないけど……だから、確かめてみたい」
クララの指が、肩に掛けた鞄の紐を握り直した。
「私も、グループに入れてくれる?」
大河の口元が自然と緩んだ。
「もちろん」
ライズも立ち上がる。
「これで四人だな。よろしくな、クララ」
「よろしく」
クララは差し出された手を少し見てから握った。
その横では、ポルポルが嬉しそうに飛び上がっている。
「あと一人なのです!」
「ポルポルを入れたら五人じゃないの?」
「それは無理なんだよ」
「ポルポルも学院に入ればいいのです」
「どうせ授業中に寝るだろ」
「失礼なのです。お昼ご飯のあとは少ししか寝ないのです」
「寝るんじゃない」
ライズの声に、クララが吹き出した。
その笑い声に驚いたようにルルが本から顔を上げる。クララは一瞬だけ気まずそうに口元を押さえたが、もう大河たちから視線を逸らそうとはしなかった。
少しして、クララが大河を見る。
「それと」
「ん?」
クララはわずかに視線を横へ逃がした。
「次は……アップルパイがいいわ」
ポルポルの耳がぴんと立った。
「次はポルポルの分も必要なのです!」
木漏れ日の落ちる中庭に、ライズの笑い声が広がる。
大河は目の前の三人を見渡した。
ライズ、ルル、そしてクララ。
二人から始まったグループは、これで四人になった。
最低人数まで、あと一人だった。
第72話を読んでいただき、ありがとうございました。
兄のコルトを目標に、ずっとその背中を追い続けてきたクララ。
目標そのものは変わりません。
ただ、兄と同じ道を歩くことだけが、強くなる方法ではないのかもしれない。
大河たちとの出会いをきっかけに、クララも少しだけ違う方向へ目を向け始めました。
そして、ついに四人目としてグループへ加入。
大河、ライズ、ルル、クララ。
最低人数の五人まで、いよいよあと一人です。
……それにしても、クララ加入にかなり貢献しているアイのアップルパイ。
次はポルポルの分も必要になりそうですね。
次回もよろしくお願いします!




