第71話 アップルパイ
第71話です。
魔法ハイランカーのクララにあっさり断られてしまった大河たち。
それでも、すぐに諦めるつもりはないようです。
まずはクララのことをもう少し知るため、再び剣術棟へ向かうことに。
今回もよろしくお願いします!
翌日の放課後、大河は剣術棟の中級訓練場を覗いていた。昨日と同じように、床を打つ足音と木剣がぶつかる乾いた音が広い室内に響いている。窓から入り込む西日が細かな埃を照らし、その向こうで赤い髪が何度も揺れていた。
クララは今日も最後まで剣を振っている。
授業そのものはすでに終わっていた。教師は姿を消し、ほとんどの生徒も帰り支度を始めている。それでもクララだけは木剣を置こうとせず、構えを確認しては踏み込み、剣先を止め、また最初から繰り返していた。
大河の隣でライズが腕を組む。
「今日もやってるな」
「昨日の話が大げさじゃなかったってことだな」
少し後ろにはルルとポルポルもいる。ルルは相変わらず大河たちから半歩ほど距離を取りながら、ポルポルの近くを離れない。赤い髪の少女が黙々と剣を振る姿を、青い髪の隙間からじっと見つめていた。
昨日はまともに取りつく島もなかった。
同じように声をかけても、また断られるだけだろう。
大河がそんなことを考えていると、訓練場から一人の男子生徒が出てきた。昨日もクララと同じ授業を受けていた顔だ。
「またクララに用?」
男子生徒は大河たちを見るなり、少し可笑しそうに口元を緩めた。
「もしかして昨日断られたの、見てた?」
「そりゃあれだけはっきり断られたら目立つよ」
ライズが肩をすくめる。
「何かないかな? あの子と普通に話せる方法」
「普通に?」
男子生徒は振り返り、まだ剣を振っているクララへ目を向けた。しばらく考えていたが、やがて何かを思い出したように眉を上げる。
「……アップルパイ」
「アップルパイ?」
大河が聞き返すと、男子生徒は声を抑えて笑った。
「クララ、あれだけはめちゃくちゃ好きなんだよ。学院の近くに菓子屋があるだろ? そこのアップルパイが焼き上がる時間になると、たまに訓練切り上げて買いに行ってる」
大河は思わずもう一度クララを見る。
汗を額に浮かべながら、一心に木剣を振る姿からは、甘い菓子に弱いところなどまるで想像できない。
「本当に?」
「去年、売り切れてた時なんて、店の前でしばらく固まってたぞ」
「それ見られたの、本人知ってるのか?」
ライズが笑いを噛み殺すと、男子生徒は慌てて首を振った。
「言うなよ。絶対怒るから」
それだけ言い残し、男子生徒は逃げるように廊下を歩いていった。
大河はしばらくその背中を見送っていたが、頭の中には別の顔が浮かんでいた。
「アップルパイか」
呟くと、ポルポルがすぐに反応した。
「食べたいのです」
「お前じゃない」
「でも、アップルパイなのです」
「クララの話だって」
大河はそう返しながら、口元が少し緩んだ。
「アイなら作れるかな」
ライズが横を見る。
「アイって誰?」
「知り合いの料理人。マイラ食堂で働いてる」
「学院の近く?」
「少し歩くけどな」
そこでポルポルが待ちきれないように前へ飛び出した。
「すぐ行くのです!」
「だからお前が食うんじゃないって」
ルルが口元を手で隠した。声は聞こえなかったが、肩が小さく揺れている。
大河たちはクララに声をかけることなく、その日は訓練場をあとにした。
マイラ食堂へ着く頃には、空は夕方の色へ変わり始めていた。通りには夕食の買い物をする人々が増え、店の軒先から焼いた肉や香辛料の匂いが流れてくる。
食堂の扉を開けると、厨房の奥から包丁の軽快な音が聞こえた。
「いらっしゃい……って、大河さん?」
顔を出したアイの頬には、小さく小麦粉がついていた。
「今日は早いのね」
「ちょっとお願いがあってさ」
「お願い?」
アイは手に持っていた布で指先を拭きながら、大河たちを見回した。
ライズのところで一度止まり、次にルルを見て、小さく首を傾げる。
「友達?」
「まあ、そんな感じ。今グループを作ってるんだ」
大河が事情を簡単に説明すると、アイの視線が少しずつ真剣になっていった。
「それで、アップルパイを作ってほしい?」
「できる?」
その言葉に、アイは胸の前で腕を組んだ。
「できるけど」
目が細くなる。
「どれくらい美味しいの?」
「え?」
「普通に美味しいのでいいの? すごく美味しいの? 絶対もう一回食べたくなるくらい?」
大河が答えに詰まっていると、ポルポルが勢いよく手を挙げた。
「絶対もう一回食べたくなるのがいいのです!」
「お前が決めるな」
「でもその方がクララさんも嬉しいのです」
アイは少し考え、ふっと笑った。
「じゃあ、それにする」
厨房へ戻ると、空気が一気に変わった。
アイは籠からリンゴをいくつか選び、表面を指先で確かめていく。包丁が薄い皮を滑り、赤い皮が細長くつながったまま落ちていった。
鍋の中で切ったリンゴに砂糖と香辛料が加えられる。
火が入るにつれ、甘酸っぱい香りが厨房から店内へ広がり始めた。
「これは危険なのです……」
ポルポルが厨房の入口に張りつく。
「何が?」
「お腹が空く匂いなのです」
大河も否定できなかった。
生地へバターを折り込み、何度も伸ばして重ねていくアイの手には迷いがない。料理ランキング九位という数字を知っていても、こうして目の前で見ると改めて十歳とは思えなかった。
焼き上がる頃には、店中が甘い香りに包まれていた。
表面はきつね色に膨らみ、切れ目の間から艶のあるリンゴが覗いている。
ポルポルがじりじりと皿へ近づいた。
「一個くらい」
「だめ」
アイが即座に皿を遠ざけた。
「これはクララさんの分」
「まだクララさんの物ではないのです」
「大河さん」
「俺を見るな」
ポルポルは名残惜しそうにアップルパイを見つめ続けた。
翌日の放課後。
大河たちは昨日と同じ訓練場へ向かった。
外まで木剣の音が聞こえていたが、授業はすでに終わっている。
やはりクララは一人で残っていた。
額に汗を浮かべ、赤い髪を後ろへ払うと、再び木剣を構える。
大河たちに気づいたのは、何度目かの踏み込みを終えた時だった。
振り返ったクララの眉間に、すぐ薄い皺が寄る。
「また来たの?」
「ちょっとだけ」
「一昨日断ったでしょ」
クララはそれ以上話す気がないように、木剣を肩へ担いだ。
大河は持っていた包みを少し持ち上げる。
「今日は勧誘だけじゃない」
「何それ」
「差し入れ」
「いらない」
返事は早かった。
だが大河が包みを開いた瞬間、空気の流れに乗って甘い香りが広がった。
バターの濃い香り。
焼いたリンゴの甘酸っぱさ。
昨日焼いたものをアイが朝もう一度温めてくれたため、まだ香りは強く残っている。
クララの顔は動かなかった。
ただ、視線だけが一瞬下がった。
箱を見る。
すぐ大河へ戻る。
数秒後、また箱へ落ちる。
ポルポルが嬉しそうにクララの顔を覗き込んだ。
「クララさん、ずっと見てるのです」
「見てない」
「見てたのです」
「見てないって言ってるでしょ」
クララの声が少し強くなった。
大河は笑いそうになるのをこらえ、箱を近くの長椅子へ置いた。
「別に、これ食べたらグループに入れって言うつもりじゃないから」
クララの視線がそこで大河へ戻った。
「じゃあ何?」
「一昨日、まともに話もできなかっただろ。少しくらい話せないかなと思って」
「それでアップルパイ?」
「好きだって聞いたから」
「誰から聞いたの?」
声の温度が下がった。
「それは言えない」
「あとで探す」
「やめてやれよ」
ライズが堪えきれず笑うと、クララが鋭く睨んだ。
その後ろでルルはポルポルのそばに立ちながら、箱をじっと見ている。
しばらく沈黙が続いた。
やがてクララが小さく息を吐き、木剣を棚へ置いた。
「一個だけだから」
そう言って長椅子へ座る。
大河が切り分けたアップルパイを渡すと、クララはまだ警戒するような顔で受け取った。
フォークを入れる。
さくり、と薄い生地が割れる。
中から柔らかく煮えたリンゴが現れ、甘い湯気がわずかに立ち上った。
クララが一口食べる。
その瞬間、動きが止まった。
フォークを持ったまま数秒固まり、目が少しだけ大きくなる。
「……何これ」
「まずかった?」
「違うわ」
クララはすぐ二口目を食べた。
今度はさっきより大きい。
「これはどこの店のもの?」
「店っていうか、知り合いに作ってもらったんだ」
「誰よ?」
「アイ。十歳の女の子」
クララの手がまた止まった。
「十歳?」
「料理ランキング九位なのです!」
ポルポルが自分のことのように胸を張る。
クララはしばらく大河とポルポルを交互に見たあと、もう一度アップルパイへ視線を落とした。
「……十歳で九位」
その声には、昨日までとは違う響きがあった。
大河は隣の長椅子へ腰を下ろした。
「クララも十七歳で魔法のハイランカーなんだろ」
「それとこれは違う」
「そうか?」
「兄さんは二十歳でスターエルミナスの幹部になった」
クララはアップルパイを見たまま言った。
大河はすぐに、一昨日聞いた名前を思い出した。
「コルト?」
クララの目が上がる。
「知ってるの?」
「昨日聞いた。王の側近で、魔法と剣術のゴールドランカーなんだろ」
「うん」
その返事だけが、少し柔らかかった。
クララはフォークを皿へ置き、指先についたパイの欠片を払う。
「昔からずっと強かった。魔法だけじゃなくて、剣も。私が何年かかって覚えたことを、兄さんはもっと早くできるようになってた」
訓練場の外から、遠くで生徒たちの笑い声が聞こえた。
クララはそちらを見ることなく、空になりかけた皿を眺めている。
「だから魔法剣士になりたいのか?」
大河が尋ねると、クララは小さく頷いた。
「兄さんみたいになりたい」
その言葉を口にした時だけ、いつもの鋭い目元が少し緩んだ。
「でも魔法はまだハイ。剣術も中級。兄さんが二十歳だった頃まで、あと三年しかない」
大河は何も言わず、その横顔を見ていた。
昨日、他人に合わせる時間があるなら剣を振りたいと言った理由が、ようやく少し見えた気がした。
ただ頑固なのではない。
目の前に、ずっと追いかけている背中があるのだ。
「だからグループに入る時間はない?」
ライズが静かに尋ねる。
クララはすぐにいつもの表情へ戻った。
「それとこれとは別」
「やっぱり駄目か」
「アップルパイで入ると思った?」
「思ってないよ」
大河が笑うと、クララは少しだけ唇を尖らせた。
皿の上には、もう一欠片も残っていない。
立ち上がったクララは木剣と荷物を持ち、出口へ向かう。
「じゃあね」
一昨日とは違い、それだけは自分から言った。
大河たちも無理に呼び止めなかった。
赤い髪が出口を抜けようとした、その時だった。
クララの足が止まる。
振り返らないまま、少し間を置いて口を開いた。
「……あのアップルパイ」
「ん?」
「また作ってもらえるかしら?」
大河が返事をするより先に、ポルポルが勢いよく飛び上がった。
「ポルポルも食べたいのです!」
クララがゆっくり振り返る。
「あなたの分じゃないから」
「まだ決まってないのです!」
その声が訓練場に響き、ルルがまた肩を揺らした。
クララは一瞬だけ大河たちを見つめ、それからほんのわずかに口元を緩めた。
「……じゃあ、また」
今度こそ赤い髪が廊下の向こうへ消えていく。
一昨日より、ほんの少しだけ距離が縮まった。
長椅子に残された皿には、パイ生地の小さな欠片すら残っていなかった。
第71話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回はクララが強さを求め続ける理由が、少しだけ見えてきました。
兄のコルトは、スターエルミナスの幹部であり、魔法と剣術のゴールドランカー。
クララにとっては、ずっと追いかけてきた大きな目標のようです。
グループへの加入は今回も断られてしまいましたが、前回とは少しだけ空気が変わりました。
そして、そのきっかけになったのはアイ特製のアップルパイ。
まさかここで料理ランキング九位の力が効いてくるとは……。
最後にはクララの方から「また」と言ってくれました。
まだ仲間にはなっていませんが、大河たちとの距離は確実に縮まり始めています。
次回もよろしくお願いします!




