第64話 四十一位
第64話です。
素手格闘ランキング九十九位まで落ちてしまった大河。
ハイランカーの座を守るため、久しぶりにランキング戦へ挑みます。
果たして、今回の相手は。
よろしくお願いします!
翌朝、診療所の最上階には焼いたパンと薬草茶の香りが漂っていた。窓から差し込む朝日が食卓の端を照らし、ポルポルはまだ眠そうな顔でパンを両手に抱えている。大河は食事を終えながら、昨夜から何度も確認していたランキングカードをもう一度開いた。
素手格闘ランキング、九十九位。
数字を見るたび、じわりと落ち着かないものが胸の奥に残る。ハイランカーは百位まで。あと少し順位を落とせば、せっかく上がった帯から再びミドルへ戻ってしまう。
「今日、行くんじゃろ?」
向かいに座っていたエリカが、茶のカップを置きながら大河を見た。
「はい。昨日のまま放っておくのも嫌なんで、ハイランカー帯に挑戦してきます」
「なら、わしも行くぞ」
エリカは迷いなく言い切った。
その直後、階下から控えめなノックの音が響く。
「エリカ先生、お時間です。例の患者様がもう到着されています」
エリカの眉がぴくりと動いた。
「……もう来たのか」
扉の向こうから返事がある。
「はい。予定より少し早く」
エリカはしばらく何も言わず、大河と扉を交互に見た。いかにも未練が残っている顔だったが、やがて深く息を吐く。
「今日は重要な治療が入っておるんじゃ」
「昨日から言ってましたよね」
「少しくらい遅れても」
「ダメでしょ」
「大河くんの試合も重要なんじゃが」
「患者さんの方が重要です」
エリカは頬を少し膨らませた。
「……分かっておるわい」
そう言いながら立ち上がり、白衣を手に取る。切り替わった表情には、さっきまでの名残惜しさがほとんど残っていなかった。大河はその横顔を見て、やっぱりこの人は本物の治療師なんだな、と改めて思う。
「怪我して帰ってくるでないぞ」
「素手格闘なんで、それは難しいかもしれません」
「なら軽い怪我にせい」
「努力します」
エリカは最後まで不満そうにしながらも、階下へ降りていった。
「エリカさん、すごく行きたそうだったのです」
ポルポルがパンを頬張りながら言う。
「顔に全部出てたな」
「でも仕事に行ったのです」
「そこはちゃんとしてるよ」
ビスタが椅子の背にもたれながら笑った。
「じゃあ今日は俺が応援役じゃん」
「頼むよ」
「任せて。負けそうになったら大声出すから」
「それで勝てるなら楽なんだけどな」
三人は食事を終えると、そのままランキング協会へ向かった。
朝の協会はすでに多くのランカーで賑わっていた。受付前には挑戦申請をする者たちが並び、壁の巨大なランキング表示には数字が絶えず更新されている。大河は無意識に素手格闘の欄へ目を向けた。
九十九位。
まだ変わっていない。
「危ないのです」
ポルポルも同じ数字を見上げる。
「分かってるって」
大河は受付へ進んだ。
「素手格闘ランキングへの挑戦ですね」
受付嬢がカードを確認する。
「現在九十九位、ハイランカーです。挑戦するランク帯を選んでください」
「ハイランカーでお願いします」
「承知しました」
受付嬢が手元の端末に触れる。淡い光が流れ、大河の挑戦申請が送られていく。
「対戦相手が承認するまで少々お待ちください」
「どれくらいかかります?」
「早ければすぐですが、その時によります」
大河が振り返ると、ビスタとポルポルが少し離れた場所から見ている。
「誰が受けるかな」
「強すぎない人がいいのです」
「それは相手に失礼じゃない?」
ビスタが笑った。
その時、受付の端末が短く鳴った。
「承認されました」
「早いですね」
「今回の対戦相手は……」
受付嬢の目が少しだけ開く。
「素手格闘ランキング四十一位、グランサンダー選手です」
「四十一位?」
大河は思わず聞き返した。
「思ったより上なのです!」
ポルポルの声が後ろから飛んでくる。
受付嬢は続ける。
「所属はダブルスター。グループランキング五位の大手グループで、グランサンダー選手は幹部クラスです」
「幹部?」
ビスタが少し表情を変えた。
「結構な相手じゃん」
「知ってるの?」
「名前はね。スキル格闘の方じゃシルバーだったはず」
大河が振り向く。
「スキルなしでも四十一位?」
「そういうこと」
少しだけ腹の奥が重くなる。
それでも、大河はカードを握り直した。
「受けてもらったならやるしかないな」
転移の光が足元へ広がる。
次に目を開けた時、大河は円形の闘技場に立っていた。
観客席にはすでに人が入り始めている。高い壁に囲まれた石造りの会場には朝の光が斜めに差し、中央の床には何度も戦いが行われた痕跡が残っていた。
向かい側に、一人の男が立っている。
若い。
二十一歳くらいだろうか。
そして、細い。
大河が想像していた怪力型とはまるで違った。肩幅も極端に広くなく、腕も太くない。黒っぽい服の上からでは、とても力が強そうには見えない。
ただ、目だけが妙に静かだった。
感情が読み取れない。
「望月大河です。よろしくお願いします」
大河が軽く頭を下げる。
男は一度だけ大河を見る。
「……グランサンダー」
それだけだった。
観客席では、ビスタが腕を組んで見ている。
「なんか不気味じゃん」
「静かな人なのです」
「いや、それだけじゃないんだけど」
審判が中央へ進み、二人の距離を確認する。
「素手格闘ランキング戦。九十九位、望月大河。四十一位、グランサンダー。武器、魔法、スキルの使用は禁止。勝敗は戦闘不能、降参、または審判判断によって決定する」
大河は拳を構えた。
グランサンダーは構えらしい構えを取らない。ただ両手を軽く前へ出している。
「始め!」
大河が先に動いた。
右へ踏み込み、すぐ左へ切り返す。
グランサンダーの視線が追う。
大河は間合いへ入り、腹部へ拳を放った。
ゴッ。
当たる。
グランサンダーの身体が少しだけ後ろへ揺れた。
大河はすぐに距離を取る。
効いている。
見た目通り、打撃を避けるタイプではないらしい。
今度は顔。
グランサンダーが手を伸ばす。
大河は触れさせない。
拳だけを当て、すぐ外へ。
「大河さん、いいのです!」
ポルポルの声が飛ぶ。
ビスタも少し頷いた。
「速さは大河が上だな」
大河自身も同じことを感じていた。
捕まらなければいい。
グランサンダーは速くない。
なら、距離を保ちながら削れば勝てる。
そう思った瞬間だった。
大河がもう一度踏み込む。
顔へ拳。
グランサンダーは避けなかった。
拳が頬へ入る。
その代わり。
ガシッ。
「……!」
大河の右腕が掴まれた。
すぐに引く。
動かない。
「え?」
細い指が、大河の手首を完全に固定していた。
もう一度強く引く。
びくともしない。
(なんだ、この力……!)
グランサンダーが一歩近づく。
大河の身体が引き寄せられる。
肩。
腰。
足。
気づいた時には、大河の重心が崩されていた。
「大河!」
ビスタが立ち上がる。
次の瞬間、大河の身体が床へ落ちた。
ドンッ!
背中に衝撃が走る。
受け身を取る前にグランサンダーが背後へ回る。
首に腕。
脚が胴へ絡みつく。
「っ!」
大河はすぐ両手で腕を掴んだ。
外そうとする。
動かない。
細い腕が鉄の輪みたいに締まっていく。
「大河さん!」
ポルポルが観客席の柵まで飛び出した。
「離れるのです! そこから離れるのです!」
大河は力を込める。
首に回った腕が、一ミリも動かない。
むしろ締め付けが強くなる。
呼吸が浅くなる。
(まずい……)
グランサンダーは何も言わない。
表情も変わらない。
ただ静かに絞めている。
「ビスタさん、大河さん抜けられるのです?」
ポルポルの声が上ずる。
ビスタは答えない。
視線だけが大河の首元へ向いている。
「……まずい」
「何がなのです?」
「あれ、完全に入ってる」
「でも大河さんなら」
「違う。力じゃ抜けない」
ポルポルの目が大きく開く。
「大河さん!」
呼吸ができない。
耳の奥で音が鳴る。
観客の声が遠ざかっていく。
大河はグランサンダーの腕へ指をかけるが、少しずつ力が入らなくなる。
(強すぎる……)
見た目からは想像できなかった。
力だけじゃない。
身体の固定の仕方。
重心。
腕の角度。
すべてが逃げ道を消している。
大河の視界が狭くなる。
このままでは。
(落ちる……)
指先が痺れる。
グランサンダーの腕を掴んでいた手が、少しずつ滑った。
「大河さん……?」
ポルポルの声が小さくなる。
ビスタも立ったまま動かない。
「……マジか」
大河の右腕が床へ落ちた。
力なく。
ポルポルの顔から血の気が引いた。
「大河さんっ!」
審判が一歩近づく。
観客席の空気も変わった。
グランサンダーの腕から、大河の抵抗が完全に消えている。
もう落ちた。
そう見えた。
グランサンダーの目がわずかに動く。
そして、締め付けがほんの少しだけ緩んだ。
その瞬間。
大河の目が開いた。
「……え?」
ビスタが呟く。
大河の足が石床を捉えた。
短距離走のスタートと同じ。
ゼロから、一気に。
ドンッ。
床を蹴る。
身体を沈め、肩を滑らせる。
グランサンダーの腕から首が抜けた。
「……!」
初めて。
グランサンダーの目が大きく開いた。
「大河さん!」
ポルポルの声が響く。
大河は転がるように距離を取った。
「げほっ……!」
肺へ空気が流れ込む。
喉が焼けるように痛い。
立つ。
足が少しふらつく。
グランサンダーもすぐに起き上がった。
無表情。
でも、さっきまでとは違う。
わずかに大河を見る目が変わっている。
(もう一回捕まったら終わりだ)
大河は拳を構えた。
グランサンダーが前へ出る。
腕が伸びる。
大河は逃げなかった。
足を見る。
腰。
肩。
視線。
学院で何度も繰り返したこと。
グランサンダーの重心が前へ移る。
掴みに来る。
(今)
大河が一歩先に踏み込んだ。
拳が顎へ入る。
ドッ。
グランサンダーの頭が跳ねる。
それでも倒れない。
もう一度、腕が伸びる。
大河は半歩だけ外へ。
掴む手が空を切った。
その脇を抜ける。
身体を回す。
右拳。
顎へ。
ゴッ!
グランサンダーの身体が大きく揺れた。
膝が落ちる。
片手を床につく。
立ち上がろうとした。
しかし身体が言うことを聞かない。
審判が間へ入る。
「そこまで!」
大河は拳を下ろした。
肺がまだ痛い。
首にも締め付けられた感覚が残っている。
「勝者、望月大河!」
一瞬遅れて、観客席から歓声が上がった。
「大河さん!」
ポルポルが一気に飛んでくる。
闘技場へ降りてきた途端、大河の顔の前で止まった。
「今のはダメなのです!」
「え?」
「本当に負けたと思ったのです!」
「ごめん」
「ごめんじゃないのです!」
その後ろからビスタが歩いてくる。
「俺まで騙されたじゃん」
「あれしかなかったんだよ」
「マジで落ちたと思った」
「俺も半分落ちかけてたよ」
「半分?」
「完全に演技じゃない。最後に思いついただけ」
ビスタはしばらく大河を見たあと、息を吐いた。
「……よくやるじゃん」
グランサンダーが立ち上がる。
大河はそちらを見る。
彼は顎を一度触り、大河の前まで来た。
「……落ちてなかったのか」
「ギリギリでした」
「……そうか」
それだけ。
けれど去り際、グランサンダーは一度だけ大河を見た。
「……強いな」
大河が何か返す前に、彼はそのまま歩いていった。
転移でランキング協会へ戻る。
カードが淡く光った。
大河は表示を見る。
素手格闘ランキング。
四十一位。
「上がったのです!」
ポルポルが目を輝かせる。
「これなら、しばらくは大丈夫そうだな」
九十九位から四十一位。
降格寸前だった場所から、一気にハイランカー中位まで上がった。
大河はその数字をしばらく見つめた。
その少し上。
二十位。
シルバーランカーとの境界。
「……シルバーか」
口から自然に言葉が漏れた。
昨日までは遠く見えていた数字が、今日はほんの少しだけ近く見えた。
第64話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回の相手は、素手格闘ランキング四十一位のグランサンダー。
見た目からは想像できない力と、捕まえた相手を逃がさない技術に、大河もあと一歩で敗北というところまで追い込まれました。
速さだけではどうにもならない相手がいる。
剣術やパーティー戦で学んできた「相手全体を見る」という経験も、少しずつ大河の戦い方に繋がってきています。
そして勝利によって、ランキングは九十九位から四十一位へ。
さらにその先には、二十位から始まるシルバーランカーの領域があります。
大河は次の階級へどこまで近づけるのか。
次回もよろしくお願いします!




