第61話 生還者
第61話です。
命からがらダンジョンの外へ戻った大河たち。
あまりにも多くのことが起こり、まだ状況を整理することすらできていません。
まずは無事に帰ること。
そして、あの地下で起きたことを確かめていきます。
よろしくお願いします!
ダンジョンの外には、嘘みたいに穏やかな風が吹いていた。
草原を渡ってきた風が大河の頬を撫で、血と土で汚れた服の裾を揺らしていく。さっきまでいた地下の冷たい空気も、岩の匂いも、アビス・ヴルムの重い足音もない。頭上には青い空が広がり、薄い雲がゆっくりと流れていた。
大河はその場に立ったまま、自分の腹へ手を当てた。
服には大きな穴が開き、乾きかけた血が黒くこびりついている。確かにここを、あの爪が貫いた。息を吸うことすらできず、身体から力が抜けていった感覚も残っている。
それなのに、指先に触れる皮膚は滑らかだった。
傷はない。
痛みもない。
「……本当に治ってる」
右腕も動かしてみる。
曲がっていたはずの腕は正常に戻り、拳を握っても違和感すらない。
少し離れたところでは、ハクサンが壊れた盾を地面へ置き、自分の左腕を何度も曲げ伸ばししていた。ニックも右脚へ体重をかけたり、膝を屈伸させたりしながら確かめている。
「さっきまで、立てなかったんだけどな」
ニックが小さく呟いた。
「俺も肋骨やってたと思うんだけど」
ビスタは胸の辺りを押しながら首を傾げた。
「痛くないじゃん」
「私も……」
ケイは自分の腕や脇腹を確認したあと、視線を大河の腕の中へ移した。
そこには、いつもの小さなポルポルが眠っている。
紫がかったピンク色の毛。
短い手足。
小さな翼。
神々しい大きな鳥の面影など、どこにも見えなかった。
「本当に……この子だったのかな」
ケイの声は低かった。
大河はポルポルの柔らかな毛を指先でそっと撫でる。
「声は同じだった」
「でも、あの姿……」
「俺にも分からない」
答えながら、大河は視線を落とした。
ポルポルの胸が小さく上下している。
呼吸は穏やかだ。
身体も温かい。
ただ眠っているだけ。
そう分かっていても、大河は何度も確かめたくなった。
あの瞬間、ポルポルもアビス・ヴルムの一撃を受けた。
小さな身体が壁へ叩きつけられ、床へ落ちた光景が頭から離れない。
「大河」
ハクサンの声で顔を上げる。
「ここに長居しない方がいい」
彼はダンジョン入口へ目を向けていた。
黒い穴のように開いた入口。
今は何も聞こえない。
だが、その奥にはアビス・ヴルムがいる。
「また出てくる可能性がある?」
「分からない。でも、確認しに行く気はない」
「それは俺もです」
大河は即答した。
ハクサンの口元がわずかに緩む。
「なら帰ろう。ギルドへ報告する」
「その前に」
ケイがポルポルを見る。
「この子、大丈夫なの?」
大河は少し考えた。
「呼吸は普通です。起こしてみます」
腕の中のポルポルを少し揺らす。
「ポルポル」
反応はない。
「おい、ポルポル」
もう一度。
小さな耳がわずかに動いた。
「……ん……」
大河の肩から力が抜ける。
ポルポルの瞼がゆっくり開いた。
「……大河さん?」
「ポルポル!」
思ったより大きな声が出た。
ポルポルは目をぱちぱちさせ、大河の顔を見上げる。
「なんでそんな顔してるのです?」
「大丈夫なのか?」
「何がです?」
ポルポルは身体を起こそうとした。
けれど力が入らないのか、すぐに大河の腕へ沈む。
「……身体が重いのです」
「無理して動くな」
「ポルポル、寝てたのです?」
「覚えてないのか?」
大河の声が少し低くなる。
ポルポルは首を傾げた。
「何をです?」
「アビス・ヴルムに吹っ飛ばされたところは?」
小さな顔から笑みが消えた。
「……覚えてるのです」
ポルポルはしばらく黙ったあと、大河の服へ目を向けた。
血に染まった腹部。
破れた布。
「大河さん……」
「大丈夫。もう治ってる」
「でも……大河さん、あの時……」
「その後は?」
ポルポルは目を閉じ、思い出そうとするように眉を寄せた。
「分からないのです」
「何も?」
「壁にぶつかって……その後、真っ白になった気がするのです。それから……」
ポルポルの小さな手が頭へ伸びる。
「ないのです」
「記憶が?」
「ないのです」
ハクサンたちも黙って聞いていた。
ビスタが腕を組みながら大河を見る。
「じゃあ説明する?」
「どう説明すればいいんだよ」
「そのままでいいじゃん」
大河はポルポルへ視線を戻した。
「お前、その後……でかくなった」
「は?」
「大きな鳥みたいな姿になった」
ポルポルの目が一気に細くなった。
「鳥じゃないのです!」
「いや、そこ?」
「ポルポルは鳥ではないのですよ!」
「そういう話じゃないんだって」
「でも今、鳥って言ったのです!」
「じゃあ巨大なポルポル」
「それも嫌なのです!」
ビスタが思わず吹き出した。
「そこは覚えてなくても怒るんだ」
「当然なのです!」
ケイも口元を押さえている。
張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。
大河は苦笑しながらも、ポルポルの表情をじっと見ていた。
本当に覚えていない。
自分を回復したことも。
ハクサンたちを治したことも。
アビス・ヴルムの攻撃をすべて防いだことも。
そして、一瞬でダンジョンの外へ移動したことも。
「ポルポル」
「何なのです?」
「お前が俺たちを助けた」
ポルポルが黙った。
「多分、全員」
大河はハクサンたちを見る。
全員の身体に傷はない。
「ポルポルが?」
「そう」
「……覚えてないのです」
「分かってる」
大河はその頭を軽く撫でた。
「でも、ありがとう」
「何でお礼言われてるのか分からないのです」
「それでもいいよ」
ポルポルは不思議そうな顔をしたまま、大河の腕へ身体を預けた。
まだかなり眠いらしい。
再び目が閉じそうになっている。
「寝てていいぞ」
「……お腹空いたのです」
「元気そうで安心したよ」
「帰ったらご飯なのです」
「はいはい」
それだけ言うと、ポルポルは再び静かな寝息を立て始めた。
一行は街へ向かった。
来る時と同じ道なのに、景色はまるで違って見えた。
陽射しの温かさ。
草を踏む感触。
遠くから聞こえる鳥の声。
どれも、さっきまでなら当たり前だったものだ。
大河は歩きながら何度か右手を握った。
動く。
痛みはない。
それでも、アビス・ヴルムに押さえつけられた時の感触だけは残っていた。
ランス・ドー。
自分の最大火力。
アーマードオーガの核を砕いた技。
それを使って、鱗一枚。
あれが今の自分とS級との距離だった。
大河は前を歩くハクサンの背中を見た。
誰も判断を間違えたわけではない。
ハクサンは危険を察知して撤退を選んだ。
ニックもケイもビスタも、それぞれできることをやった。
それでも全員死にかけた。
「大河」
並んで歩いていたビスタが声を落とした。
「何?」
「考えてる?」
「ちょっと」
「俺も」
「珍しいな」
「ひどくない?」
ビスタは苦笑した。
「でもさ、あれは無理じゃん」
「うん」
「俺、今まで危なくなったら逃げればいいと思ってたんだけど」
ビスタは一度後ろを振り返った。
もうダンジョンは見えない。
「逃げることすらできない相手っているんだな」
「いたな」
大河はそれだけ答えた。
悔しくないわけではない。
強くなったと思っていた。
素手格闘ではハイランカー。
魔力も解放され、必殺技まで作った。
剣術も少しずつ身についている。
それでも、まだ届かない場所がある。
むしろ、今まで見えていなかっただけなのかもしれない。
街へ戻った頃には、陽が傾き始めていた。
冒険者ギルドの扉を開けると、夕方前の賑わいが一気に耳へ入ってきた。
依頼帰りの冒険者たちが酒場で声を上げ、受付には何組かの列ができている。焼いた肉と酒の匂いが混じり、地下とは別世界のようだった。
ハクサンは迷わず受付へ向かった。
いつもの受付嬢が顔を上げる。
「あ、お帰りなさい。新規区画の調査は……」
「ギルドマスターに取り次いでくれ」
ハクサンの声で、受付嬢の表情が止まった。
「え?」
「緊急報告だ」
周囲の空気が少し変わる。
受付嬢はハクサンの顔を見たあと、後ろにいる大河たちへ視線を移した。
壊れた盾。
血に染まった大河の服。
破損した装備。
「何が……あったんですか?」
ハクサンは声を落とした。
「旧グランディア地下迷宮の新規区画で、S級魔物を確認した」
受付嬢の顔から色が消えた。
「……S級?」
近くにいた冒険者の会話が止まる。
「アビス・ヴルムだ」
ざわめきが一気に広がった。
「アビス・ヴルム?」
「嘘だろ」
「S級って……」
受付嬢は立ち上がった。
「少々お待ちください!」
椅子が後ろへ倒れそうになるほど勢いよく奥へ走っていく。
大河はポルポルを抱いたまま、周囲を見回した。
名前を聞いただけでこの反応。
自分たちが何と遭遇したのか、改めて思い知らされる。
しばらくして、ギルド奥から数人の職員とともに一人の中年男性が現れた。
深い茶色の上着を着た、がっしりした体格の男。
表情には一切の笑みがなかった。
「こちらへ」
短く告げ、大河たちを奥の会議室へ案内する。
部屋へ入ると、大きな木製机を囲むように椅子が並んでいた。
全員が座る。
ポルポルだけは大河の膝の上で眠っている。
「私はこのギルドの責任者だ」
男は全員を見回した。
「最初から聞かせてもらう」
ハクサンが新規区画へ入ったところから順に説明を始めた。
魔物の死骸。
巨大な爪痕。
足跡。
撤退判断。
崩落。
そして、アビス・ヴルム。
ギルドマスターは途中で口を挟まず、ただ聞いていた。
「崩落が起きたのは、遭遇直前か」
「はい」
「最近、迷宮内部では崩落が何度か報告されている」
男は指先で机を軽く叩いた。
「新区画が現れたのも、その一つだ」
ケイが顔を上げる。
「じゃあ……」
「断定はできない」
ギルドマスターは目を細めた。
「だが、アビス・ヴルムが長い眠りから目覚め、地下を移動した影響で崩落が起きている可能性は高い」
部屋が静かになる。
大河はダンジョンで聞いた重い足音を思い出した。
一歩動くだけで床が震えた。
あの巨体が地下深くを動けば、壁や天井が崩れても不思議ではない。
「どうするんですか?」
大河が尋ねた。
「討伐を?」
ギルドマスターは少し間を置いた。
「上位ランカーへ依頼する手はある」
大河の頭に、さらに上のランキングにいる者たちが浮かぶ。
「ただし、今すぐ動ける保証はない。S級討伐となれば人選も必要だ。準備にも時間がかかる」
男は立ち上がった。
「その間に、知らずに迷宮へ入る冒険者を出すわけにはいかん」
扉近くに立つ職員へ顔を向ける。
「旧グランディア地下迷宮を本日付で立入禁止とする」
職員が背筋を伸ばした。
「全依頼を停止。入口へ封印術師を向かわせろ」
「封印……?」
大河が聞き返す。
「迷宮そのものへ入れなくする」
ギルドマスターは大河へ視線を戻した。
「内部のアビス・ヴルムを封じるわけではない。入口を封鎖するだけだ」
「そんな魔法があるんですね」
「専門に扱う術師がいる」
ビスタが椅子へ身体を預けた。
「じゃあ、とりあえず誰も入れなくなる?」
「そうだ。今はそれが最優先だ」
ギルドマスターの判断に迷いはなかった。
「討伐するか、このまま封鎖を続けるかはその後決める」
職員たちがすぐに部屋を出ていく。
廊下から慌ただしい足音が響き始めた。
ギルド全体が一気に動き出している。
ギルドマスターは再び椅子へ座った。
「今回の調査依頼については達成扱いとする」
ハクサンが少し目を見開く。
「でも、新規区画の全体はほとんど調べられていません」
「十分だ」
男は首を横に振った。
「目的は危険度の確認だ。S級が存在するという情報以上に重要な調査結果はない」
さらに一枚の書類を手元へ引き寄せる。
「それとは別に、危険情報提供の報酬も出す」
ビスタの眉が上がった。
「追加?」
「お前たちが生きて戻らなければ、次の調査隊を同じ場所へ送っていた可能性がある」
男の視線が五人を順番に通る。
「何人死んでいたか分からん」
大河は返す言葉がなかった。
勝ってはいない。
逃げただけ。
それでも、生きて帰って情報を持ち帰ったことに意味がある。
会議室を出る頃には、外のざわめきがさらに大きくなっていた。
職員が旧グランディア地下迷宮に関する依頼書を掲示板から次々と剥がしている。
「立入禁止だ!」
「本日から旧グランディア地下迷宮への入場は禁止!」
声が飛び交う。
冒険者たちは何が起きたのかと顔を見合わせていた。
大河はその光景を見ながら、腕の中のポルポルへ視線を落とした。
小さな寝息。
今は何も知らない顔で眠っている。
「大河さん……」
うっすら目が開く。
「起きた?」
「ご飯……」
「そこかよ」
「お腹空いたのです」
大河は思わず笑った。
「帰ったら食べよう」
「いっぱいなのです」
「分かったよ」
ポルポルは満足したように再び目を閉じた。
大河はその頭をゆっくり撫でる。
「助けてくれて、ありがとうな」
「……何のことなのです?」
目を閉じたまま、ポルポルが小さく答える。
「覚えてないんだったな」
「変な大河さんなのです」
「そうかもな」
大河は少しだけ笑った。
理由が分からなくてもいい。
何者なのかも、今は分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
あの暗い地下で、最後まで自分を守ろうとしてくれたのはポルポルだった。
大河は眠る小さな身体を少し抱き直し、夕暮れの街へ歩き出した。
第61話を読んでいただき、ありがとうございました。
大河たちは無事に街へ戻ることができました。
今回の戦いでは、強くなってきた大河でさえ、どうすることもできない相手がいることを知ることになりました。
倒すこともできず、逃げることさえできなかったS級魔物。
これまでとは明らかに違う脅威です。
そして、やはり気になるのはポルポル。
本人にはあの時の記憶がありませんが、大河にとっては命を救ってくれた大切な相棒であることに変わりありません。
ポルポルはいったい何者なのか。
その謎も、これから少しずつ明らかになっていきます。
次回もよろしくお願いします!




