第59話 S級
第59話 前書き
第59話です。
逃げ道を失った大河たちの前に立ちはだかる、S級アビス・ヴルム。
これまで戦ってきた相手とは、明らかに格が違います。
果たして五人は、この状況を切り抜けられるのか。
今回もよろしくお願いします!
「戦うな! 全員、逃げろ!」
ハクサンの叫びが石壁へぶつかり、何重にも反響した。
けれど、逃げるための道はすでに後方の崩落で塞がれている。大小の岩が積み重なり、その隙間から細かな砂がさらさらと落ち続けていた。前方には、暗闇そのものを押し広げるようにアビス・ヴルムの巨体がある。
大河はその姿を見上げた。
黒い鱗は一枚一枚が盾ほどもあり、魔石灯の青白い光を鈍く返している。頭部から伸びる角は岩壁を削るほど長く、太い前脚が一歩動くたび、石床が低く軋んだ。
何より異様なのは、その大きさに似合わない静けさだった。
咆哮もない。
威嚇もしない。
ただこちらを見ている。
大河たち五人が、何なのか確かめるように。
「ハクサン、後ろは無理だ!」
ビスタが崩落した通路へ一度目を向け、すぐ剣を抜いた。
「分かってる!」
ハクサンは盾を前へ構えながら、視線だけを周囲へ走らせる。
「左側に細い通路がある。ケイ、ニックから先に入れ! ビスタ、大河、時間を作るぞ!」
「了解!」
大河は拳を握った。
逃げる。
勝つためじゃない。
数秒でもいい。仲間が横道へ入る時間を作る。
アビス・ヴルムが頭をわずかに下げた。
「来る!」
ハクサンの声。
巨大な前脚が動く。
速い。
大河の目が見開かれた。
巨体だから遅いという考えが、一瞬で消えた。
黒い前脚が横薙ぎに振られる。
ハクサンが盾を合わせる。
ガァンッ!
金属が潰れるような音が響いた。
「ぐっ!」
ハクサンの身体が宙へ浮いた。
盾を構えていたにもかかわらず、数メートル後方まで吹き飛ばされ、背中から石床へ滑る。
「ハクサン!」
ケイが振り返る。
「止まるな! 行け!」
ハクサンは歯を食いしばりながら起き上がろうとした。
盾の中央が大きくへこんでいる。
左腕はだらりと下がり、指先が震えていた。
一撃。
ただそれだけ。
大河の背中に冷たい汗が流れた。
「ニック!」
ハクサンの声が飛ぶ。
ニックはすでに弓を引いていた。
狙っているのは頭ではない。
鱗と鱗のわずかな隙間。
眼球。
関節。
ヒュンッ。
一本目の矢が飛ぶ。
アビス・ヴルムが首をわずかに動かした。
矢は眼球を外れ、その横の鱗の隙間へ突き刺さる。
二本目。
三本目。
ほとんど同じ場所。
「当たってるのに……!」
ケイの声が震える。
矢は確かに刺さっている。
しかしアビス・ヴルムは顔を少し振っただけだった。
「痛い程度なんだろ」
ニックは歯を噛みながら次の矢をつがえる。
「なら、痛いのを続ける」
また矢が飛ぶ。
大河はその横を駆けた。
真正面は危険すぎる。
側面へ。
アビス・ヴルムの視線が大河を追う。
大河はさらに速度を上げた。
右。
左。
壁際へ。
巨体がこちらを向く。
「こっちだ!」
大河が声を上げる。
アビス・ヴルムの頭が動く。
その隙にビスタが反対側へ回り込んだ。
「風よ!」
横から強い風が吹きつける。
黒い鱗の間へ砂埃が舞い込み、アビス・ヴルムが片目を閉じた。
「今じゃん!」
ビスタが踏み込む。
剣が鱗の隙間へ振り下ろされた。
ギィンッ。
火花が散る。
「硬っ!」
剣が弾かれ、ビスタの腕ごと大きく持ち上がる。
アビス・ヴルムの尾が動いた。
「ビスタ、下がれ!」
大河が叫ぶ。
ビスタが飛び退く。
その直後、尾が通路を薙ぎ払った。
岩壁が砕け、大小の石片が飛び散る。
大河は腕で顔を庇いながら走った。
「ケイ!」
ハクサンの声。
「撃て!」
「火よ、集え!」
ケイが杖を両手で構える。
赤い魔法陣が足元へ広がった。
空気が急に熱くなる。
「フレイムバースト!」
巨大な火球が飛ぶ。
アビス・ヴルムの胸部へ直撃。
ドォン!
炎が弾け、熱風が通路いっぱいに広がった。
大河は腕で顔を覆った。
「どう?」
ケイが息を切らしながら炎の向こうを見る。
煙が薄くなる。
アビス・ヴルムが立っていた。
黒い鱗の表面が少し煤けている。
それだけだった。
「嘘……」
ケイの唇がわずかに開く。
「これでも?」
アビス・ヴルムが口を開いた。
低い唸りが腹の底まで響く。
「まずい!」
ハクサンが叫ぶ。
大河はケイの前へ走った。
アビス・ヴルムの口内に鈍い光が集まり始める。
魔力。
大河にも分かるほど濃い。
「ケイ、伏せろ!」
大河が彼女の肩を掴み、横へ投げるように押した。
次の瞬間。
黒い衝撃波が通路を走った。
ゴォォン!
空気そのものが殴りつけてきた。
大河は石床を転がり、肩から壁へぶつかる。
耳鳴り。
視界が揺れる。
「大河さん!」
ポルポルの声が遠く聞こえた。
大河は頭を振り、立ち上がる。
ケイも倒れていたが、呼吸はしている。
ハクサンが横道を確認する。
「まだ通れる! ケイ、入れ!」
ニックがケイの腕を引いた。
「行くぞ」
「でも……」
「ここに残っても邪魔になる」
ケイは悔しそうに唇を噛み、ニックに支えられて横道へ下がる。
大河はアビス・ヴルムを見た。
逃げる時間を作らないといけない。
今の攻撃では足りない。
拳も。
通常の魔法も。
なら。
右手を前へ出した。
「大河?」
ビスタがこちらを見る。
「何する気?」
「一発だけ試す」
大河は掌の前へ水を集める。
昨日、アーマードオーガを倒した技。
水を広げない。
細く。
さらに細く。
魔力を一点へ。
身体の奥から一気に流す。
「大河さん!」
ポルポルが大河の肩近くへ飛んでくる。
「それ、魔力いっぱい使うのです!」
「分かってる」
でも今は温存している場合じゃない。
アビス・ヴルムが一歩進む。
石床が揺れる。
大河は水の槍をさらに圧縮した。
掌の前で高い音が鳴り始める。
「狙うなら首の下!」
ニックが横道から叫んだ。
「鱗が少し薄い!」
大河は視線を上げる。
首の付け根。
確かに胸部より鱗が小さい。
「いける」
アビス・ヴルムが頭を向けた。
今。
「ランス・ドー!」
水の槍が放たれた。
空気を一直線に裂く。
首の付け根へ直撃。
ズドンッ!
黒い鱗が大きく震えた。
「入った!」
ビスタが叫ぶ。
水の槍が一点へ食い込む。
亀裂。
そして。
バキンッ!
鱗が一枚、砕け落ちた。
「やったのです!」
ポルポルの声。
大河も拳を握りかけた。
しかし。
砕けた鱗の下。
露出した皮膚には、細い赤い傷しかなかった。
「……え?」
大河の口から息が漏れる。
アーマードオーガの核を砕いた。
自分が今使える中で、最も強い攻撃。
それで。
「鱗、一枚……?」
指先から力が抜けた。
魔力を大量に使ったせいで、身体が一気に重くなる。
アビス・ヴルムの金色の目が大河へ向いた。
先ほどまでとは違う。
明確に、大河を見ている。
「怒らせたんじゃない?」
ビスタの声から軽さが消えていた。
次の瞬間。
アビス・ヴルムが咆哮した。
「グォオオオオオオオオッ!」
通路全体が震える。
耳を塞いでも意味がない。
振動が骨まで届く。
「全員、下がれ!」
ハクサンが盾を構える。
アビス・ヴルムが突進した。
ハクサンは逃げない。
「ハクサン!」
大河が叫ぶ。
「後ろを守る!」
歪んだ盾を前へ。
衝突。
ガシャァン!
今度は盾が耐えなかった。
中央から大きく割れ、金属片が飛ぶ。
ハクサンの身体も横へ弾き飛ばされた。
左腕が不自然な方向へ曲がる。
「ぐっ……!」
壁へぶつかり、その場に崩れた。
「ハクサン!」
ニックが横道から飛び出す。
「出るな!」
ハクサンが叫ぶ。
しかし遅かった。
アビス・ヴルムの尾が横へ振られる。
ニックは跳んだ。
完全には避けきれない。
尾の先が脚をかすめた。
鈍い音。
「っ!」
ニックの身体が回転しながら床へ落ちる。
右脚を押さえたまま立ち上がれない。
「ニック!」
ケイが戻ろうとする。
「来るな!」
ニックが歯を食いしばる。
大河は走った。
ニックの前へ入り、迫っていた前脚を避ける。
拳。
通じないと分かっている。
それでも顔へ叩き込む。
ゴッ。
アビス・ヴルムの頭がわずかに動く。
「こっち見ろ!」
大河はすぐ横へ走る。
敵の視線が追う。
これでいい。
仲間から離す。
アビス・ヴルムが前脚を振る。
大河は避ける。
もう一度。
避ける。
だが、身体が重い。
ランス・ドーで魔力を使いすぎた。
呼吸が少しずつ乱れてくる。
「大河!」
ビスタの声。
横から風魔法が飛ぶ。
アビス・ヴルムの視界に砂埃が舞う。
「今のうちに!」
ビスタが大河へ近づこうとした。
アビス・ヴルムの尾が動く。
「ビスタ!」
大河が叫ぶ。
尾がビスタの胴を捉えた。
ドゴッ!
「がっ……!」
ビスタの身体が壁へ叩きつけられる。
剣が手から落ちた。
その場に膝をつき、口元から血が垂れる。
「……これは、きついじゃん」
いつもの言葉。
でも笑っていない。
ケイが杖を構える。
「ビスタ!」
「来るなって……」
アビス・ヴルムの視線がケイへ向いた。
「まずい!」
大河は地面を蹴った。
魔力は少ない。
それでも脚は動く。
五十メートル走世界一位。
この距離なら間に合う。
ケイの前へ滑り込む。
アビス・ヴルムの前脚が振り下ろされた。
避ける余裕はなかった。
大河は右腕を上げた。
直撃。
ゴキッ。
「っ……!」
耳の奥まで響く嫌な音。
右腕から感覚が消えた。
そのまま身体が吹き飛ぶ。
視界が高速で流れる。
次の瞬間、背中から岩壁へ叩きつけられた。
ゴンッ!
息が消えた。
肺から全部の空気が押し出される。
大河は床へ落ちた。
「大河さん!」
ポルポルの叫び。
起きないと。
頭では分かっている。
右手をつこうとした。
腕が動かない。
見る。
右腕が途中からおかしな角度に曲がっていた。
「……折れたか」
呼吸する。
胸の奥が刺されたように痛む。
肋骨も何本かいっている。
それでも。
大河は左手を床へついた。
「まだ……」
膝を立てる。
「大河さん、もういいのです!」
ポルポルが目の前へ飛んでくる。
「逃げるのです!」
「逃げたら……」
大河は息を整えようとした。
肺が痛い。
「誰が、時間稼ぐんだよ」
「でも!」
「みんなまだ動けない」
視界の端にハクサン。
割れた盾の横で起き上がれない。
ニックは脚を押さえている。
ケイも立つのがやっと。
ビスタは壁にもたれたまま呼吸を繰り返している。
誰も逃げられない。
「だから俺がやる」
大河は立ち上がった。
足元が揺れる。
それでも拳を構える。
左だけ。
アビス・ヴルムがこちらを見る。
「来いよ」
大河は笑おうとした。
口元が少し歪んだだけだった。
巨体が動く。
大河も走る。
右へ。
避ける。
左へ。
また避ける。
身体が悲鳴を上げている。
胸が痛い。
右腕は揺れるだけで激痛が走る。
それでも足だけは動いた。
アビス・ヴルムの爪が頬をかすめる。
次。
尻尾。
見えた。
避ける。
そう思った。
脚が遅れた。
「っ!」
尾が大河の脇腹へ直撃した。
ドガァン!
身体が床へ叩きつけられる。
今度は受け身すら取れなかった。
何度か転がり、仰向けに止まる。
視界が白く点滅した。
音が遠い。
「大河さん!」
ポルポル。
声だけは分かる。
起きようとした。
身体が動かない。
「……くそ」
左手の指が少し動くだけ。
アビス・ヴルムの足音が近づいてくる。
ドン。
ドン。
巨大な影が大河を覆った。
前脚が持ち上がる。
大河は避けられなかった。
黒い前脚が胸から腹へ押しつけられる。
「ぐっ……!」
空気が吐き出される。
骨が軋む。
身体が石床へ沈み込むようだった。
爪の一本が腹へ当たる。
圧力が増す。
「やめるのです!」
ポルポルの声。
「大河さんを離すのです!」
爪がさらに沈む。
大河の腹に熱が走った。
その直後。
痛み。
呼吸が止まるほどの鋭い痛み。
「……っ」
声にならない。
爪が腹部を貫いていた。
血が服へ広がる。
石床へ落ちる。
ぽた。
ぽた。
口の中にも鉄の味が広がった。
息を吸おうとする。
入らない。
視界の端が暗くなっていく。
痛いはずだった。
でも、その痛みさえ少しずつ遠ざかっていく。
大河はぼんやりと天井を見た。
……これ。
死ぬな。
不思議と、その考えだけははっきりしていた。
一年で王になれ。
神様にそう言われた。
まだ半年も経っていない。
学院。
エリカ。
アイ。
ライズ。
タイラたち。
いろいろな顔が途切れ途切れに浮かぶ。
最後に。
「大河さん!」
ポルポル。
小さな身体が視界へ飛び込んできた。
「離すのです!」
ポルポルがアビス・ヴルムの前脚へ体当たりする。
何の意味もない。
巨体は微動だにしない。
「大河さんから離れるのです!」
もう一度。
またぶつかる。
それでも動かない。
「ポル……ポル……」
大河は声を出そうとした。
ほとんど音にならない。
逃げろ。
そう言いたかった。
でも口が動かない。
「守るのです!」
ポルポルが叫ぶ。
「大河さんはポルポルが守るのです!」
アビス・ヴルムが顔を向けた。
鬱陶しそうに前脚を振る。
ポルポルの身体へ直撃。
バシッ!
小さな身体が弾けるように飛んだ。
「……ポル……」
壁へぶつかる。
床へ落ちる。
動かない。
大河の胸の奥で、何かが切れたような気がした。
でももう身体は動かなかった。
アビス・ヴルムが再び大河を見る。
前脚を持ち上げる。
今度こそ踏み潰すつもりなのだろう。
大河は目を閉じかけた。
その時。
淡い光が見えた。
床に倒れていたポルポルの身体から。
ほんの小さな白い光。
最初は魔石灯の反射かと思った。
けれど違う。
光は少しずつ強くなる。
ポルポルの毛が、風もないのにふわりと持ち上がった。
小さな翼が震える。
そして、ゆっくり開いた。
「……大河さんを……」
声。
いつものポルポルの声。
それなのに、ダンジョンの奥まで届くように静かに響いた。
「大河さんは……」
白い光が一気に膨らむ。
アビス・ヴルムが初めて足を止めた。
ポルポルが顔を上げる。
「ポルポルが守るのです」
次の瞬間。
白い光が、ダンジョンの闇をすべて塗り潰した。
第59話 後書き
第59話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、大河がこの世界へ来てから最も厳しい戦いになりました。
ハイランカーになり、Aランクの魔物さえ倒せるようになった大河。
それでもS級を前にすると、これほどまでに差がある。
ランキング王を目指す道の先にいる存在の恐ろしさも、少し見えてきた回だったと思います。
そして最後。
大河を守ろうとしたポルポルの身体から溢れ出した、謎の白い光。
果たして、何が起きたのか。
次回もよろしくお願いします!




